ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

こもごも

2009年05月31日 | ノンジャンル
ロシアで母親がお酒を飲んで赤ん坊に授乳し、赤ん坊は
急性アルコール中毒で死亡とのニュース。

極限に近い低温環境の中で、ウオッカは生活の必需品
でもあるが、依存症や、アルコール関係の疾患も多い。

日本では考えられない事件だが、ロシアではさして
珍しくもないことであろう。乳児が死亡してしまったから
ニュースになったに過ぎない。

だが、自分の飲酒が、家族に死をもたらしたと見れば、
これほど悲惨な巻き込みの例はない。

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肝星細胞の培養液中に、エタノール(アルコール)を
入れると細胞の18%が死滅する。
肝星細胞にとっては、アルコールが毒物であることが
明白である。
玉造黒門越瓜という白瓜に、この細胞を保護する成分が
あるとの事。瓜の抽出成分をあらかじめ与えておくと、
死滅するのは3%にとどまったとの事。

今の自分には詮無い話しであるが、白瓜を食べているから
少々飲みすぎても大丈夫と考えるのは、すでにアル症の
領域に足を踏み入れつつある。

節度ある飲み方を心がけるのが第一である。

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6月1日より改正道交法施行。
酒気帯び運転でも、免停ではなく、一発取り消しとなる。
欠格期間も最長10年だとか。
お酒に関しては、かなり甘い国であることは確かだが、
命に関わることについては、厳しすぎるくらいが丁度良い。
事故とはいえ、命を奪われるほうも、奪ってしまうほうも
地獄であることに変わりはない。

さて、今となっては私にはまるで関係ないことだが、
飲んでいた頃であればどうだったろう。
ちょっと厳し過ぎやしないかと、まるで異なった意見で
あるかもしれない。

一発取り消しは、呼気一リットル中のアルコール濃度
0.25ミリグラム以上。それ未満は90日の免停。
ビール一缶だけ飲んで運転という人も珍しいし、減点なしで
酒気帯び運転も少ないであろうから、実質、取り消しと
見なされるだろう。


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精子の数が減っている。40代に比べ、20代のほうが
少ないという奇怪千万な現象が起きている。
7-8千万/ccの平均から見て、3-4千万/ccと、
明らかに少ないのは、食生活など成長期の環境に
起因するところが大きいらしい。

どうやら、少子化問題も、環境問題も個別に考える
問題ではなく、人、そして生物の成育の上で基本的な事に
関わる問題として総合的に考えていかねばならない
ようである。
ED(勃起不全)とは全く次元の異なる、根本的な
問題である。

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人は一人では生きていけないにもかかわらず、他人と
根本的に理解し合うことは不可能である。
このジレンマの中で人は悩み、苦しみながら、それでも
理解しようとし、理解されようとする。

わからないからわかろうとし、わかってもらいたいから
わかりたいと願う。

わからないということは、まんざら悪いことでは
ないようである。

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人は勝手なもので、人のしがらみの中では一人になりたいと
望み、一人になれば人の中に居たいと望む。

群衆の中で感じる孤独と、荒野に一人立つ孤独。

孤高となることは即ち孤独とはならないけれども、
一人屹立する精神を持ちながら、人の中で生きて行くなら、
自分の天命ともいうべきものが見えてくるのかもしれない。




3年ぶりの握手

2009年05月31日 | ノンジャンル
出張となると、どうしても普段とは違う緊張感があって、
無理をしがちである。一日を終えても、接待などで遅くなり、
ホテルに戻ってからメールチェックなどをしていると
ほとんど眠ることができなくなってしまう。

移動中に居眠りして補うのが精一杯であるから、当然ながら
予定を終えて家に帰るとどっと疲れが出る。

ほとんどボロボロで、土曜日はゆっくり寝ていたかった
のだが、何とか起きて病院へと足を運んだ。

振り返れば長い長い年月であり、あっという間でもある
4年が経つことになる。
再生から丸4年。それにつけても、よくあの時期に断酒を
決意することになったものだと思う。

一年、いや、半年ずれていてもその後の経過はまるで違った
ものになっていたかもしれない。

診察で、院長先生と久し振りに少し長くお話しをした。

「OOさんの場合は、本当に大変だったと思うよ。」

6週間の休職、通院の後、復職後はウォームアップどころか
それ以前と何も変わらず、いきなり出張や接待という予定が
目白押しで、本来ならば避けねばならない酒席、飲む機会、
習慣的に飲んでいた場面ばかりであった。

「そんな中でもう4年ですか。本当によく頑張りましたね。」

休職して6週間の治療プログラムをしっかり受けた意味は
非常に大きかったと思う。仕事をしながら通院すると最初は
主張していた私ではあったが、それは到底無理なことで
あったと後になってみればよくわかる。

「これからも頑張ってください。」とは先生は仰らなかった。

「本当に良く頑張った。大変だったね。」と
手を差し延べられた。

「ありがとうございます。」と握手をしたが、
3年ぶりの握手である。

1ヶ月、3ヶ月、半年、一年と節目に表彰があり、その度に
先生と握手をするのだが、一年表彰の握手の後、
この握手までに3年が経ったことになる。

自分をわかっていてくださる人がいるというのは本当に
ありがたいことである。
あえて、「頑張ってください。」とは
仰らなかったのであろう。

本当に嬉しい握手であった。

また6月1日という、自身の再生の日がやってくる。
また新たな一年を始める。一歩一歩、歩みを進めて行く
のみではあるけれど、その歩みは楽しくもあり、
苦しくもあり、嬉しくもあり、辛くもある。

そもそも、生きるとはそういうことなのである。




にんげん

2009年05月26日 | ノンジャンル
私が小学生の頃、「道徳」という授業科目があった。
確か、「にんげん」という副読本があり、それを読み合わせ
する中でそれぞれの感想を作文にしたりすることが多かった
ような記憶がある。

いわゆる同和教育の一環であったようだが、特に差別問題
ばかりを扱っていたわけでもなく、戦争や、今で言うところの
いじめの問題など、内容としては多岐にわたっていた。
いずれにせよ、物語であったり、詩であったり、手紙で
あったりと非常に興味深いものであった。

私自身、この副読本はいつも配布されるとすぐに全部目を
通したものである。

道徳の授業とはいっても、別段、教師が教条的に
「べきである」講義をするでもなく、「ねばならない」
説諭をするわけでもなかった。
ただ、その内容を生徒が読み、教師も読み、それぞれが
感じたことをまとめたりしていたと思う。

今、道徳を学校で授業として教えるのか、いや、そもそも
道徳などは家庭生活の体験の中で体得していくものだとか
議論されているようだが、少なくとも私の印象では、
学校での道徳の授業は、何かを「教わる」ものではなく、
「考える」ものであったということだ。

そういう意味では、それぞれの感じ方で、考えるという
授業があっても良いと思うのである。
家におじいちゃんやおばあちゃんがいないのは
珍しくなく、片親というのも実に多い。
両親共に不在がちな家もあるだろうし、昔と違って
家庭生活での体験や勉強の機会というのは、便利に
なった分、希薄となっている。

ひとつの物語なり、詩なりを題材として、それぞれの
感じ方や考えを交換することは大いに意味があると
思われるのだが。

うろ覚えではあるが、戦時中に子供を兵役にとられた
母親の物語があった。一人死に、二人死に、三人死にと、
わが子を失うごとに、お国のためだ、仕方がないという
表向きの言葉が消え、生きて帰って来い、戦争など
どうでもよいという真情が表れていく場面で、
胸にこう迫るものがあった。

その物語を朗読していた先生が突然、声を詰まらせた。
母親の心情に、その先生は涙されていたのである。
物語よりも、先生の涙の方がよほど衝撃であった。

道徳の授業が学校で必要かどうかという議論は、
私にはどうも根本的なところで的外れな議論としか
思えないのである。




勝つという事

2009年05月23日 | ノンジャンル
80年代の洋楽が多くリバイバルされたり、カバーされたり
しているが、”Mamma Mia”で、懐かしいABBAの
曲が再リリースされている。

いつも切なくなる曲のひとつが、
”The Winner Takes It All”

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「勝者が全てを手にする。敗者はその陰に小さく佇む。」

夫婦二組のグループであったABBAは、この曲の
リリース前に一組が離婚となり、男性は再婚相手がすでに
いたはずで、そのあたりの事情を考えると、この曲を歌う
女性はどんな心境であったかと、切なくなるのである。

結局、もう一組も離婚し、後にABBAの解散となった。

閑話休題

話は、勝負、勝ち負けということである。
負けるよりは勝つことを誰しも目指し、努力する。
勝たねば意味がない、勝つことが全てである、勝ちに
こだわり、勝ち続けねばならない。負けてはならない、
何としても勝利しよう。

非常に疲れる話しである。
勝つ者がいれば、必ず負ける者がいる。
勝つ者が富も名声も賞賛も力も全てを得る。
その陰で、力も出し切り、何も残らない敗者が佇む。

勝者が敗者と分ち合うものはない。勝者が100で、
敗者は0である。

しかしながら、幸か不幸かは別問題である。
これは勝ち負けとは本質的に異なる。喜びと悲しみという
刹那的なものは直接勝ち負けに関わっているが、
幸か不幸かは人の一生という時間の中で決まるものである。

勝ちっぱなしで、一生を送る人はいない。負けっぱなし
というのもあり得ない。
勝って歓びを感じないとしたら、これほどの不幸はない。
負けて悲しみを感じないとしても不幸だろう。

自身がこの世に誕生して、人生を始めた時を原点として、
自分がどう歩んできたかを認識しておくことは重要である。
やり直しが必要で、ある時点に原点を置き直したとしても
同じである。

意味がないのは、絶対的位置を認識せずに、他人との
比較という相対的位置を常に意識して生きることである。
先を見ても、後ろを見てもきりがない。
上を見ても、下を見てもきりがないのである。

自身の原点から今の自分を見てどうなのかということである。
勝つことも負けることもあるだろうが、まずまずだったなと
振り返ることができたなら、幸せな人生ではないだろうか。

さて、当然のことながら肉体的に圧倒的な力の差があり、
経験や知識、そして経済力も格段の差をもって凌駕している
はずが、いつも負けてばかりいる相手がいる。
家のカミサンである。

負けてばかりいるのに、あまり悔しさも悲しみも
感じていないのは、どうやらまんざら不幸でもないようだ。



マスク

2009年05月21日 | ノンジャンル
今回の新型インフルエンザに関連して、外出する人はほとんど
マスクをしているが、要するに予防という自己防衛を率先して
しているわけで、これはこれで意識面で言えば意味のある
ことだと思う。

弱毒ではあっても、感染力が高いということなので、
今後、H5N1鳥インフルエンザなど強毒タイプの
流行前の予行演習としてはいいだろう。

SARS流行の時のように、マスクが品薄となり、一時的に
価格の高騰もあるようだが、昔と違って使い捨ての安価な
ものが多く、広く普及しているのも結構な事である。

中国でマスク製造をしている取引先があり、価格低廉化で
利益を上げられずに嘆いていたが、幸か不幸か、現在の
状況は歓迎されているであろう。

昔は、マスクをするということは、風邪をひいているものが
周りにうつさぬようにという公にたいするエチケットであり、
マスクをしている人の傍には近づかないようにしていた
ものである。つまり、私は感染していますよという
目印であった。

もちろん、罹患している本人にとっても、乾燥を防ぎ、
呼吸器系に優しいという利点がある。
我が家では日頃から手洗いとうがいは口やかましく言い、
万一感染したなら、マスクをさせる。
息子が普通の風邪とインフルエンザをダブルでもらって
ほぼ1週間ダウンしていた時も、二次感染はなかった。

今は反対で、マスクをしていないと白い目で見られる。
咳やくしゃみが出ているのに、マスクをしていなければ
顰蹙ものだろうが、罹患していないからマスクをして
いないだけである。

予防でマスクをしたい人はすれば良いし、しない人は
感染したとしても自己責任である。感染していてマスクを
使用しないのは論外だが、健常なものがマスクをして
いなくとも害はない。

まあ、理屈を言わずに、単純に予防のためとマスクを
すれば良いのだろうが、感染した者を何かとんでもない
悪い事をしたような目で見たり、マスクをしていない
者を白眼視するなど、どうもポイントがずれている
気がする。

一番の問題は、マスクをしているしていないではなく、
品薄となり、価格も高騰しているなかマスクを
手に入れ、使用していることで満足していることである。
今やマスクは良識ある者と無い者の識別マークとさえ
なっている。

さらに根本的な事を言えば、目、鼻、耳、口腔はすべて
つながっているので、予防という点では、マスクだけでは
全く不十分なのだが、マスクをすれば安心だと勘違い
している人も多いということである。

マスクよりも、こまめな手洗いとうがいが最も予防には
有効である。鼻、口腔からばかりではなく、目からも
感染は起こる。むしろ公共機関には不特定多数の人が
触れる物が多い。吊革、ボタン、手すり、蛇口、ドアノブ、
そしてコインなどなど。。。

人は誰でも自分の手の指については安心してしまって
いるから、指で食べ物をつまむ、目や鼻や口に指を
持っていく、触れるということは無意識ながら頻繁に
行っている。

予防の第一は、手を洗って殺菌するということ
なのである。汚い手で蛇口をひねり、せっかく洗っても
またその蛇口に触れるなら意味がない。
指先を常に清潔に保つ事が最も肝要な事なのである。

とつおいつ考えていると、駅でキスをするカップルに遭遇。
「欧米か!」と突っ込みたくなったり、公然ワイセツ罪は、
どのレベルから適用されるのかなどと思っていたが、
その二人は何とマスクをしていて、互いにマスク越しに
キスをしていたのである。

どうせなら、二人ともマスクを取ってすればいい。
キスをする間柄で、感染を恐れるくらいなら、初めから
キスなどしなければ良い。非常に不可解かつ奇妙な
光景であった。

確かスパイダーマンでさえ、キスの時はマスクを
ずらしたはずである。欧米の女性への挨拶は、
頬に交わすキスだが、マスクをしてすれば大変な
侮辱となる。

どうも今回の新型インフルエンザ禍というよりは、
マスク騒動に釈然としないものがあるのである。