ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

年の瀬

2016年12月28日 | ノンジャンル
クリスマスも終わり、今年も押し迫った感だが、
最後の出張で東京へ出た。

夜の街にも繰り出したが、この時節、普段にも
まして表通りを行き来する人は多い。

いつもこの人の多さには辟易するのだが、その中で
笑顔でいる人の何と少ない事かにも驚く。

折角恋人や夫婦、友人や仲間と一緒に出掛けて
いるのに、笑顔や嬉しそうな表情に乏しい
というのは、いかにも都会の矛盾を感じられて面白い。

どこもかしこも溢れる人、人、人の中で感じる
孤独感と孤立感。賑やかしさの中の静寂。

その意味では、大阪は都会というよりは
街なのであろう。
お節介で鬱陶しくもあるが、視点を人に置いている分、
よほど人間らしいと言える。

東京ではビジネス、名古屋では商売、大阪では商いと
昔から言うが、それはそのまま人に置く視点の
差でもあろう。

人に視点を置くと感謝が生まれる。感謝が生まれると、
自然にそのお返しをできることでしていこうという
気になる。 その循環がより良い社会にもつながる。

何も声高に、広告塔のように世のため人のためなどと
吹聴する必要はない。
感謝が、自然に人のための行動につながるのであるから、
上辺だけでない心からの感謝をしていけば良い、

自分の生活に必要なことには全て人が関わっている。
そのことを自覚して感謝するなら、それは自身の
行動につながるし、それがまた人の感謝につながる。

謙虚に生きるとは、あたりまえのことなど
一つもないと自覚して、有り難いという気持ちで
自身の行動につなげていくことなのである。

新年も変わらず感謝の年としていきたい。





断捨離

2016年12月21日 | ノンジャンル
また年末の大掃除の時期がやってきた。

とはいえ、我が家では汚れの落ちやすい夏場に
水回りなどを大掃除するので、さほど追われる
ことはない。

断捨離が一時ブームとなったが、個人的には、
いらないものはあっさり捨てる方である。

というか、リビングや寝室などはホテルのように
シンプルで何もない方が好きなのである。

壁に絵画の一つもあり、テーブルに一輪の花が
あれば十分で、セレブな部屋に高価な物品が
所狭しと飾られているという空間はぞっとする。

第一、掃除しづらい部屋は最も嫌悪感がある。

基本的に新しいものを買えば、古いものは捨てる。
よって、なんでも増えるという事がないのだが、
周りはそうではない。

洋服にしろ鞄にしろ靴にしろ、どんどん増えていく。

まあ、私の場合は、購入するのは気に入ったもので
ある以上、使えなくなるまで使ってから新しいものを
購入するので、増えることはない。

唯一捨てられないものと言えば書物だけである。
それも残っているものは限られているが、
良書というのは、一度だけでなく、自分の成長、
年齢と共に読み直してなお感銘を新たにできる
ものである。

しかし、書籍というのは多くなればかさばるし重い。
たまにしか読まないものは、電子ブックにしても
良いかもしれない。

ということで、サンタさん、キンドルを
プレゼントしてください。





裸のサル

2016年12月19日 | ノンジャンル
自然界は一瞬たりともとどまることのない
変化の中で、最もバランスの良い安定した状態へと
近づいていく。
その状態は、循環ともいえるし、円運動ともいえる。

弱肉強食というのは、人間が作った概念で、
自然界はむしろ生体の適応能力が問題となる。

その点で言えば、人間は牙や爪などの武器を捨て、
毛皮さえも脱ぎ捨てて、丸腰の弱肉となったことになる。

が、しかし、今では自然界をも部分的に凌駕する
存在となっているのは、想像と創造という、
その卓越した適応能力にあるといってよい。

ところが、その形成する社会は本来、総体的な種の
適応能力の具現であったはずが、個別性によって
内的な分裂、破壊が進められてきている。

いわゆる、比較対照、クラス分けといった分裂である。
この世に誕生し、生きていく以上、それ自体に
困難があり、苦悩がある。
必ず老いや病、そして死というものが平等に訪れる
ことを誰もが知りながら、若い者が老いたものを蔑み、
健常な者が病人、障碍者を蔑み、生きている者が
死者を冒涜する。

ばかりか、勝ち組、負け組などという区分けによって、
内的分裂を進めるのは、その適応能力を著しく低下させ、
社会どころか種の破滅にもつながりかねない。

人間の知恵というものは、避けようのない現実に対して
いかに生き、最も安定した社会を形成しゆくかという
永遠の命題に対して様々な可能性を開いてきたのである。

つまり、病に苦しむ者がいるから、老いに苦しむ者が
いるから、さらに言えば生きることに苦しむ者がいるから
こそ、人はその知恵を開花させてきたのである。

仮に、言葉は悪いが選別によって心身共に健常で、
力も元気もある若者だけの社会とすればどうであろう。
病気や老いによって社会の役に立たなくなった者は
即切り捨てられる。

人間のための社会が、社会のための社会となるとき、
その滅亡は遅かれ早かれ決まっている。

我々は、自然界では最も弱者である裸のサルとなった
その意味を根本的に問う必要があるのではないか。

現代の士農工商ならぬ生老病死的な差別概念に
触れるにつけ、裸のサルの意味を問い直さずには
おれないのである。






どうするか

2016年12月15日 | ノンジャンル
「どうするか」というのは、もちろんのこと
生きている間の絶えることない課題に対しての
自身の処し方である。

ところが、この「もちろん」を根本的に
覆すことに思い当たった。

「死んだらどうするか」である。
死ぬまえに身辺整理をするとか、やりたいことを
やるとかではなく、死んだ後、どうするかという
命題である。

そんなもの、どうしようもないではないか
というのは、今を生きているものの固定観念に
過ぎない。

死んだ後のことなど誰にもわからない。
個人としては、寝ている時と同じ潜伏状態かと
認識してきたが、実際のところはわからない。

そのわからないことについて、断定的に
どうしようもないなどとは、実は誰にも言えない。

死後の世界があるのかないのか、そんなことは
どうでもよい。

この「死んだらどうするのか」を考えるとき、
それはそのまま「今をどう生きるのか」に直結する。

生と死、死と生という対極的な感覚では計り知れない
何かに、ひどく感動した。

死んだら何をしたいかが、そのまま、今をどう生きたいか
ということを真剣に考えざるを得ない命題となる。

今一度、死んだらどうするのか、何をしたいのかを、
しっかりと考えてみたい。






リセット願望

2016年12月14日 | ノンジャンル
以前に、時折希死念慮に襲われる記事を書いたが、
最近ハタと気が付いたのは、どうやらそれは
「リセット願望」に近いものかもしれないという事だ。

自分の意識とは裏腹に、肉体の衰えは否定できない。
まして、お酒で傷め続けていたものだから、
ここかしこにガタがきているのは間違いない。

張りのあった肌も、いまでは寝跡がなかなか取れない、
乾燥してカサカサ、シミも出ている。

遠くや近くを見るにも眼鏡をかけたり外したりと、
フォーカス力も衰えている。

きれいに治療、メンテしているのに、食べ物が
歯の間に挟まりやすくなり、風邪などひけばどうしても
抜けるのにずいぶん日数がかかかる。

徹夜などしようものなら、翌々日ぐらいに一気に
疲れが出る。
階段を駆け上がると、膝が笑いだすといった具合で、
いくら精神的に若くても、肉体の衰えは隠しようがない。

ちょうど古くなった家電を新品に取り換えるように、
そろそろ肉体を新しくリセットしたいという願望が
希死念慮の根元にあるのかもしれない。

衰えによって学ぶことも多く、重ねてきた経験が
今の自分を作っていると思えば、老いることは決して
悪い事ばかりではなく、むしろ人としての幅を
広げていくことでもあろう。

ただ、自分のお尻も拭けないような、少なくとも
行動という事ができない身体になれば、
リセットをしようと思う。

寝たきりで、ろくに話もできない、生きているだけ
という状態であっても、その存在が多くの人達の
支えとなる人も世の中には数多くいる。

だが、私自身で言えば、恐らくそういうタイプの
人間ではないので、リセット願望という事に
なるのだろう。

要するに、止まれば死ぬマグロタイプなのである。