ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

星を見上げて

2012年05月31日 | ノンジャンル
地球に最も近い恒星は太陽であるが、
それでも光が届くのに約8分かかる。

次に近い星でも、4光年の距離となるので、
地球に届いた光は、4年前のものとなる。

つまり、夜空に輝く星も、実際に見えてはいても、
それは過去の光であり、その星自体が現時点ではもう
存在していないかもしれない。

人は亡くなって星になると言うが、無粋なことを
言えば、身体の組成と星の組成は同じような
ものである。

星となるか、人となるか、はたまた他の生物になるか。
命の不可思議さは計り知れない。

一瞬たりとも留まることなしに変化を続けるその中で、
調和というものが築かれていく。
そこには意志もなく、意図もなく、ただ、法というものが
あるように思える。

人として最大の喜びは、生というものを認識できる
ことであり、最大の苦しみも、生を認識できる
ことだろう。

宇宙の調和の中で生を営むなら、苦しみを感じる
こともないかもしれないが、人は創造の本体である。
それが調和に逆らう方向に向けば、苦しみに喘ぐ
ことになる。

苦しむ人が多いということは、随分と調和に逆らって
生きている人が多いということなのだろう。

今を具体的に生きている以上、星となったものには
夜空を見上げて祈りを捧げるしかない。

現実に苦しむ自分と、他の人々においては、
ともかくもその調和に同期できるように
日々を偽らずに生きていくしかない。

素顔のままで、ありのままで、繕わず、偽らず、
飾らない心で生きていく。

明日、満7歳となる誕生日を迎える。
新生日というべきか。

また、新たな一年が始まる。






忘れもの

2012年05月27日 | ノンジャンル
久し振りに家族の予定が合って、母親のお墓参りに
行った。

連休中にと思っていたのだが、それぞれの予定が
かみ合わず、今日まで延び延びになっていた。

初夏を思わせる陽気に、草も伸び、緑の焦げる様な
匂いがした。

揃って墓前に手を合わせると、12年という
歳月が蘇る。
子供たちはまだ小学生であった。
今、娘は大学生。息子は高校生。

あの頃と変わらず、揃って墓前に手を合わせる
姿は素直である。

ふと思いだした。何もかも悪いようにしか
考えられないで、泣きじゃくっている彼女に、
お母さんのお墓参りに行って来いと
言ったことが何度かある。

墓前で泣くだけ泣いてスッキリしたと、後に連絡を
くれたものだが、私はお墓参りに行けと言った
のであって、お母さんのところへ行けと言った
覚えはない。

勘違いも甚だしいではないか。

家に帰ると、携帯がない。
どうやら、お墓の草むしりの時に落としたらしい。
携帯を落とすなど、初めてのことだ。

どうかしている。

先日の「追悼」の記事は、四十九日まで
固定記事とした。
どうしても一言・・・という方も多いようなので、
そのための場ということにしておく。

私の通うクリニックも、院長先生が亡くなってから
バタバタし、どうやら、アルコール専門病院
としてのスタンスが変わっていくようである。

院長先生の遺志を継いだ人たちが、
新たに開業していく。
専門医が増えることはそれでいいと思う。

私は、たとえクリニックがなくなっても、
その「場所」へ自分の身を運ぶことが、
断酒の覚悟を風化させないことになると
信じている。

さて・・・

「オヤジは、さて・・・が口癖やな。」
とよく言われた。

さて、どうする? じゃあ、どうしていく?

数え切れないほど言った言葉である。

「あきらめないで、やってみる。」

いつもそう答えていた。


さて、また一週間が始まる。




遺されしもの

2012年05月24日 | ノンジャンル
母親の時もそうだったが、突然の訃報というのは、
思考を停止させてしまう。 
心の停止と言った方がいいかもしれない。

整理も何もつけられるはずもなく、それはもとより自分の
ことであるから、一旦脇に置いて、今だからこそ書いて
おかねばならないことがある。

この病気で身内を失った方々は、必ずその死に巻き込まれ、
引きずられ、縛られてしまう。

生きてはまわりを巻き込み、死んでも周りを巻き込む
厄介な病気なのである。

末期ガンで亡くなったのなら、周りはまだ納得もできるし、
あきらめもつく。つまり心の整理がつけやすい。

だがこの病気は違う。生前に早く死ねばよいとさえ
思っていた相手でも、その人がいざ亡くなれば、
遺されたものは自身を責め、いつまでも後悔と慙愧の
想いに縛られる。

もっとしてやれることがあったのではないか、もっとして
あげればよかった、こんなことになるならあの時・・・
なぜなにもできなかったのか・・・

非情な言い方ではあるが、結論を言えばこの病気に
対しては、つまるところ本人以外は無力である。

それが身内であれ、医療であれ、自助グループであれ、
本人に病気と闘う意志がなければ、周りは本当に無力である。

たとえ本人にその意志があっても、肉体的に、精神的に
限界を越えれば、残念ながら死に至る。
それはある意味、末期ガンと変わらない。

内科的にたとえば静脈瘤など顕著な疾患があり、
それが死因となるならともかく、この病気で亡くなる
人の死因は事故死が最も多い。

仮に自殺と判断されても、それは単に死因の分類をする
意味で振り分けられているだけで、実は事故死だという
ケースがかなり多いのである。

亡くなった小杉院長も特にこの点について重視され、
その実因の追跡調査、分類の作業をされていた。

私自身、7年前の状況は、ベランダから落ちて死んでいても
何ら不思議はない。
家族にすれば、いきなりベランダから飛び降りたという
ことでしかなく、警察はおそらく自殺と判断したであろう。

本人は幻覚に踊らされ、風に飛ばされて落ちそうな
子供の帽子をつかもうとしていたのであり、自殺する
つもりなど毛頭なかった。

つまり、酩酊や、極度の衰弱による意識障害の状況にあるとき、
本人の意志はそこにはない。
最も恐ろしいのは、どう見ても自殺にしか見えない状況でも、
本人にその意志はなかったケースが多いということである。

この病気に悩まされるのは本人ばかりではない。
その人の家族や周りの人を巻き込んで悩ませる。
だからこそ、本人が病気と向き合うために、まずは
この病気のことをよく知らねばならない。

そしてそれは本人ばかりではない。家族や周りも、
本人をどうにかしようということで悩むのではなく、
自らこの病気のことを知る必要があるのである。


病気なのは本人ばかりではない。その人に悩まされ、
苦しむ家族、周りの人も病気なのである。
いずれも、まずは病識をしっかりと身につけることが
第一なのである。

家族として、あるいは友人として、もっとできることが
あったのではないかという心情は察するに余りある。
だが、病識を持たずして何をしようが、それは本人と
自身の病状を悪化させるだけなのである。

酷なようだが、本人の生と死は、目の前に引いた
一本の線の内側と外側くらいの差でしかない。
何とか内側で踏ん張るか、躓いて外側へ出てしまうか、
それほどの差でしかない。

そして、躓く人の方が圧倒的に多いのも事実である。
それは、その人の置かれた環境とか、状況というよりも、
その人の持つ天運ともいうべきものの違いなのかも
しれないとも思う。

それでなくとも、人が死ぬという現実に際して、
遺されたものが心の整理をつけるには時間が必要である。
この病気で身内を失い、遺されたものにとっては、
あるいは普通の人の倍以上の時間が必要であろう。

心の整理をつける上で、この病気のことをよく知る
ということが、まずは必要なことではないかと思うのである。

遺されたものは、亡くなった人を忘れる必要はないし、
忘れることもできないであろうが、縛られては
ならないのである。

供養と言い、回向というのも、遺されたもの、
いや、生きているものが幸せになり、その幸せな心を
供養し、回向するのである。

誠に僭越で、傲慢な言い方かもしれない。
だがあえて、この時に書き留めておきたい。
苦悩や、悲しみを、亡くなったものに回向しても
仕方がないではないかと。



7年目の浮気

2012年05月22日 | ノンジャンル
艶っぽい話ではない。

今年、もうすぐ7度目の6月1日を迎える。

思えば、本当に激動の7年ではなかったかと思う。
一年一年、いや、一日一日が様々な意味で自身との葛藤の
連続であった。
それは、今でも変わることはない。

階段を一段一段上るように、一日一日を積み上げてきたに
すぎないし、一日一日を生きてきたにすぎない。
そして、それはこれからも、何も変わらないのである。

山を登るのは、必ずそこに頂上があるからである。
頂上にたどり着いたとき、達成感と満足感に心が
震えるだろうが、同時に頂上に立った自身が透明になる。

そして、それはゴールではなく、今度は山を下りる新たな
スタートとなる。

この病気に完治がない以上、断酒にゴールはない。
だがそれも、生きていくということに置き換えれば、
至極当然のことである。

死はその人の具体的に生きることの区切りではあっても、
終わりではない。
山に登ったならば、必ず山を下りなければならない。
そしてまた、新たに登っていく。

その区切り、節目を、ゴールと勘違いしてしまえば、
大きな落とし穴が待っていることになる。

浮気というのは、誰に許してもらうことでもなく、
一言でいえば自身の油断なのである。

夫婦間の問題なら、たかが知れている。
最悪でも、離婚までだろう。

断酒の浮気は、命取りとなってしまう。
何年経とうが、浮気は禁物なのである。

人である以上、人を好きになることはある。
人である以上、飲みたいと思うこともある。
それは、自分の意志とは関係ないことである。

ただ、浮気をするしないは、それとは別の話である。
それはすでに、自身の意識下の問題だからである。

つい魔がさして、一杯のお酒に手を付ければ、それは
自身の意志で手を付けた浮気である。
誰にどう弁解しようと、意味がない。
また、誰に許してもらったところで仕方がない。

我々にとって、浮気とは、身を滅ぼす元凶となって
しまうのである。

終わりなき前進において、あまり先を見てしまうと
苦しくなる。

今日一日を生きる。
それが、変わってはならない指針であり、
一日断酒の奥義ともいえるのである。



追悼

2012年05月03日 | ノンジャンル
彼女に出会ったのは、アルコール依存症の
ご主人を持つ、家族の方のブログであった。

その方の記事にコメントをしていた彼女も
ブログを書いていて、その記事を読んで彼女自身が
かなり危険な状況にあることを知った。
あわてて近隣のアルコール専門医を紹介する
コメントを入れ、救急車を呼んででも、
いずれかの病院に行くように話した。

3年前の9月だったと思う。私の断酒も4年を越え、
少し安定してきた時期であった。
その時は、首尾よく入院し、事なきを得たが、
それから私と彼女との父娘の様な関係が始まった。

ひと月を乗り越えられたら、楽になる。
何度言い聞かせたことか。入院している間は
もちろん飲めないが、一人で入院しているのが
よほど辛かったのだろう。すぐに退院しては、
また飲んでしまい、身体を悪くして、
また入院ということを繰り返した。

家庭環境に恵まれず、普通では考えられないような
生い立ちというより、深い傷を持っていた彼女には、
お酒は自分を支えるためにどうしても必要な
ものだったと思う。

ただ、そのお酒自体が自分の命を削る毒となって
しまう病気に罹ってしまった。

何とか、気持ちを前向きにと腐心し、彼女の大好きな
空や飛行機の写真、曲などをブログにアップして、
エールを送った。

携帯などの連絡先も、彼女から知らせてきたのは、
求めているものに応えてくれる相手とみての
ことだったかもしれない。

なかなか、最初のひと月を越すことができなかった。
何度か、「飲んだな」と見破る私に、嘘は通用しないと
悟ったのか、失敗したときは素直に話すようになった。
電話をかけてくるときは、いつも泣いていた。

黙って泣き声を聞いていると、
「なんで何もしゃべれへんのや」と言うので、
「ちゃんと泣き声を聞いてる。ひとりで泣くよりは
ええやろ。」というと、安心してまた泣いていた。

3ヶ月頑張ったなら、ご褒美に何でも好きなもの
食わしてやると励ますと、カニが食べたいという。
吐くほど食わしてやると言うと笑っていた。

「死にたい」「消えたい」「生きていても仕方がない」
何度聞かされたことだろう。それでも、泣いてかけて
きた電話も、いつも笑って話し終えることができた。

「私なんか死んで、臓器を困っている人たちに
全部提供する方が、よっぽど人のためになる。」
何度かそんなことも言っていた。

「そんなボロボロの臓器、誰もいらんわ。かえって
具合悪くなるし。」と切り返して笑わせていた。

「ほんまにその気があるんなら、まずは健康を
回復して、提供できる臓器にすることや。」

済んでしまったことは仕方がない。
今を、これからを、絶対にあきらめないこと。
何より、自分自身をあきらめないこと。

いつも、それだけは肝に銘じておくようにと
話を終えていた。

時には父親以上に厳しく接することもあった。
というよりも、完全に突き放したことも何度かある。

「死にたい、消えたい」を繰り返す彼女に、
「黙って消えなさい」と、突き放すというより、
切り捨てたこともあった。

彼女のブログに集まる人たちからは一斉に
バッシングが浴びせられ、彼女自身も私を恨んでいた
ようであったが、そんなことは何でもなかった。

この病気を識らないものが、この病気に罹患している
ものに寄せる同情や慰めは、病気を悪化させこそすれ、
回復への手助けとはならないのである。

ましてこの病気は進行性の病気である。自分に都合の
良い環境の中においては、どんどん自分の心身が
蝕まれていくだけなのだ。

数ヶ月後、彼女は素直に謝罪をしてきた。もう一度、
やり直したい、断酒を頑張りたい。だから話を聞いて
欲しい、応援して欲しいと。

是非もない。彼女に対して、私は最後まで一貫した
姿勢で接してきた。
飲みたいのを飲まないで頑張ることの苦しさ、辛さは
共に分ちあえること。
飲んでいるときには、一切話はしないし、聞かないこと。

再び、自分で立ち上がろう、やり直そうとする彼女には、
できることは何でもしてやりたいと思った。

その後も一進一退が続いた。最も心配したのは、身体の
ことである。それまでもかなり限界に近い状態に幾度か
陥っていたので、果たして体力が続くのかどうか、
それだけが心配であった。

あれほど嫌がっていた入院を自ら決意して、3ヶ月
みっちり治療・回復に臨んだのが一昨年の9月
だったろうか。

やっと本気になった。前を向いて進む気になった。
入院中にも、メールやコメントをくれたり、
電話もあった。
見違えるほど明るい、前向きな姿に、驚きとともに
本当に嬉しい思いをした。

無事に退院し、親戚の家庭で共に暮らしを始めると
聞いたときは本当に安堵した。

家族のぬくもりも、ささやかな幸せも知らない彼女が、
もう大人の年ではあっても、また子供時代をやり直し
できると思えば、これ以上のことはない。

事実、日々の生活が本当に幸せであったと思う。
それまでとは打って変わった話の内容、弾む声、
嬉しい、楽しいことの方がはるかに多いことが
伝わってきて、なんともいえぬ喜びを
感じさせてもらった。

仕事をしたいという話があった時も、私は時期尚早と
見ていたが、自分の大切な居場所で、できることを
したいという前向きな思いも分かった。

ご家族もこの病気のことを理解し始めていた頃だと
思うが、余計なお金は再飲酒の引き金になりやすいので
彼女には持たせなかったようである。

電話で、仕事の休憩時間にコーラを買って飲むお金も
ないと愚痴る彼女に、大笑いした。
まるで子供である。
自分では言いにくいから、私から頼んでくれないかと
話す彼女は、なぜかそんな事さえ楽しそうであった。

ご家族がブログにコメントを入れてくださるようにも
なっていたので、コメント上で一日に300円くらいの
お小遣いはあげてくださいとお願いした。
コメントを打ちながら、また笑ってしまった。

飛行機が大好きで、空港へ行って一日中離着陸を
眺めているという話をよく聞かされた。
出張でたびたび飛行機に乗る私を羨ましがってもいた。

退院後、あれほど越せなかったひと月を越し、
一年を越した。

実は、四季を通じて断酒を継続した時、つまり一年を
越した時が最も危ない時期でもあるのだ。

二年を越せばかなり安定してくるのだが、一年を越した
時というのは、最も魔が差す時であるともいえるし、
この時点で失敗する例はかなり多い。

友達の集まりか何かで、彼女もつい、その一杯に口を
つけてしまった。
初期の、失敗を繰り返している時と違って、断酒を
継続している期間が長ければ長いほど、再飲酒した
時のダメージは心身ともに大きい。

再び連続飲酒に陥った彼女は、相当なダメージを
受けたはずである。
しかも、失敗後か、その前かは定かでないし、
詳しい事情も分からないが、連絡をしてきた時には
再び彼女はひとりになっていた。

絶対に裏切りたくないと思っていた人を裏切って
しまったことに苛まれたのか、もうこれ以上
迷惑をかけられないと思ったのか、あるいは、
自分自身の足で立って、生活をしていく、
自立の道を歩もうとしていたのか。

いずれにせよ、彼女自身、あきらめない、またマイナス
からだけれども、やり直しを始めると話してくれた。

まずは病院へ行くこと。それを念押ししたのが3月。
ちゃんと病院へ行って、点滴を受けてきたと聞き、
また通院で生活のリズムを立て直すよう話をした。

だが、おそらくその後も飲んだり通院したりを
繰り返し、例によってろくに食事もしないで
過ごしていたに違いない。

栄養失調で入院。これまで、何度聞いてきたことか。
この飽食の時代にである。
飲めば食事ができない。何か食べれば吐いてしまう。
だが、お酒は一旦吐くと、またすんなり飲める。
仮に何か食べたとしても、栄養を吸収する力が
身体に無い。結果、下してすべて出てしまう。

これまで何度同じことがあったろう。
それでも、入院すると聞いて、なんとか最悪の状況は
回避できたと思ったのが4月。

昨日、滞っていたブログの更新をした。
断酒7年を前に、書ける時に書いておこうと
思ったのだが、その記事についたコメントに
わが目を疑った。

彼女のご家族からのコメントで彼女が亡くなった
とのことであった。

思考がストップし、あいつめ、また悪い冗談を
と思った。
コメントは確かに彼女の携帯から投稿されている。
ちょっと度が過ぎると思い、電話をかけたが出ない。

メールを送信し、今朝返信を頂いた。
ご家族からである。
事実であった。
ひとりで逝ったらしい。

怒りがこみ上げた。悲しみが噴きあげた。
どこにもぶつけようのない想いに、
身体の芯が震えた。

バカヤロウ。なんでひとりで逝った。
なんで何も言わずに逝った。
私はともかく、家族にまで・・・。

最後まで私に叱られてどうする。





お母さんに、こっぴどく叱られなさい。

そして、よく頑張ったと褒めてもらいなさい。


今はもう是非もありません。


お母さんに抱かれて、ゆっくり、
ゆっくりとお休みなさい。


あなたは、最後まで、自分をあきらめては
いなかったと思います。


ひとつだけ、私との約束を果たしましたね。

よく頑張りました。

本当によく頑張りました。