ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

固執

2009年01月29日 | ノンジャンル
「固執」

これを、「こしつ」と読まれるだろうか、それとも、
「こしゅう」と読まれるだろうか。

読みの間違いを正す本を書店でパラパラとめくっていて、
「おや?」と思ったのが、この言葉である。

その本は「こしつ」と読むのを正解とし、「こしゅう」という
読みに対し、執着の「しゅう」から読み違えているのか? 
と解説さえしていた。

私のような古い人間からすれば、これは、「こしゅう」
であって、「こしつ」こそが誤りである。

ただ、「こしつ」という読みが一般に慣用的に使われているため、
それが容認されているに過ぎない。
つまり、本来はどうであれ、世間一般で常用されている言葉が
正しいとされている。

言葉というか、言語は生活に密着した生きものである以上、
時代と共に変化していく事は避けられない。

言葉には歴史があり、文化があり、思想がある。
その人の言葉づかいにも、その人となりが現れる。
同じ言葉であってもそれを使う人によって、その言葉の
人に与える印象は千差万別である。

また、人が言葉を使う時、その言葉の意味する事を伝えたいが為に
それを使うわけでもない事がままある。
人が言葉を口にする時、その言葉には様々なものが同時に
乗っかって発せられるのである。

我々は、その言葉に乗っかっているものを察し、汲み取る
文化にいる。よって、その言葉の意味でもって全てを伝えようと
する文化にある人とのコミュニケーションは、やはり骨が
折れるのである。

話が逸れたが、例えば「代替」をどう読むか。
私は「だいたい」と読む。
慣用的には「だいがえ」、「だいかえ」などと読む。
「代替案」を「だいたいあん」と話すと、??? の人が
たまにいる。

私も古い人間となってしまったようである。
しかし、どちらの読みでも、きちんと漢字変換してくれるのに
気がつく度に、その変換辞書を地道に作ってこられた方に
敬意を表したいと思うのである。



歯車

2009年01月24日 | ノンジャンル
社会人となった頃、企業戦士としては半人前の自分は、
指示される事をひたすら努力し、職場で発する言葉は、
「はい」、「わかりました」、「すいません」の3語が
殆んどであった。

その時に考えていたのは、単にひとつの歯車として自身が
みなされる事には耐えられない、むしろ歯車を動かす原動力に
成っていこうという事であった。

今思うに、自身をひとつの歯車でしかないと認識すれば、
マイナスイメージとなるが、その歯車が無ければ、
全体に支障をきたすと考えれば、ONE FOR ALLとなる。

また、回りに動かされている歯車という認識ではなく、
自ら動いている歯車であると自覚すれば、これもまた、
ONE FOR ALLという理解ができる。

基本的に、ALL FOR ONEというのは、まず、
ONE FOR ALLの認識と理解が先立たないと、
成立しないと考えている。

歯車というのは、他の歯車とかみ合って初めて用を成す。
いくら自分で動いていても、それひとつでは、詮が無い。
他とのかみ合いというのはすなわち、人との関わりとも
いえるであろう。

その中で、己の用を成し、それが全体の用に繋がり、
大きな作用として無限に拡がっていく。
外から見れば、その歯車自体が動いているのか、回りの歯車に
動かされているのかはわからない。
要するに自身の認識と自覚によるのである。

人は、やはり人との関わりの中でこそ、自身の持てる力以上の
力を発揮し、大きな流れを創り上げていく事ができる。
自分が回りを動かし、回りが自分を動かし、全体が動いていく。

自ら動いていこうとするならば、それはひとつの原動力である
歯車であり、そういう歯車であり続けたいと思うのである。

かみ合いから外れてしまったなら、それはいくら自分で動いて
いても、本来の用をまるで成していないのである。




お腹が減ったよ

2009年01月19日 | ノンジャンル
過酷な一週間の出張が終わった。

この冬一番の冷え込みとなった週に、主に関東を中心に
廻ったが、これほど厳しい出張は久し振りであった。

早朝に出発し、客先を訪問、会議。通訳を兼ねるので
4倍しゃべることになる。

移動中に仮眠を取りたいのだが、別件の連絡があちら
こちらから入り、その対応に追われる。
夜は食事に接待と、結局ホテルに戻るのは深夜。

シャワーを浴びてサッパリしたところで、
メールのチェック。

返信や対応に追われ、一段落つけてベッドにもぐり
こんでも、少し仮眠を取る程度で、再び早朝より始動。

昔のCM に「24時間戦えますか?」という
フレーズがあったが、「120時間戦えますか?」の
出張となった。

すべての日程を終え、戻ったところで重要懸案の整理と
対応で休日はほぼつぶれ、今、ようやく人心地ついた
ところである。

真っ白に燃え尽きたように、身体が痺れて動きづらい。
さすがに疲れ果てたが、どこか身体の芯に力を
感じてもいる。

昔なら、要所要所で飲んで、疲れも気苦労も発散させ、
日程を終えて戻れば精も根も尽き果てていたものである。

今はもう飲まない以上、何故に余力が残っているのかを
振り返ると、面白いことは、心身ともに疲れが
蓄積してくると、やたらとお腹が減ったことである。

普段取らない朝食はもちろん、昼食もしっかり取り、
夜は、傍でお酒を飲む人の事など意にも介さず、
ひたすら食べていた。

それだけ疲れた身体が欲していたのだろうが、
飲んでいた頃には考えられないほどの食欲であった。

疲れを感じながら、頭に浮かぶのは、腹減ったな、
何を食べようかということばかりであったような
気がする。

今思い出しても、自分で何だか可笑しくなってしまう。
何せ、疲れと比例して、やたらと腹が減るのである。
かつてなかったことではないだろうか。

お客様と一緒なら、食事に気を配るのは当たり前だが、
自分がお腹が減ったとか、何を食べたいということは
どうでもよかった。

今回は、気を配ると同時に、自分が何を食べたいかを
併せて考えていたようだ。

われながら可笑しくなるが、カミサンにその話をすると、
大笑いしていた。

人間、心身ともに疲れると、まずは眠りたいのだが、
それが制限されると、アルコールなどでリフレッシュ
したくなる。
それも適わないとなると、とにかくエネルギー
チャージをとばかりに、やたらとお腹が減るようである。

食べるということを蔑ろにしてきた私ではあるが、
食べるために仕事をするのではなくて、仕事をする
ためには食べなければ身体が持たないという単純明快な
ことを、今回の出張の機会に、身体で感じることが
できたようである。




成人の日

2009年01月11日 | ノンジャンル
あと3年もすれば娘が成人し、5年もすれば、息子が成人する。
当たり前の話なのだが、なんだか不思議な感じがする。
月日の流れというのは、子供を持つと本当に早いものだ。

「お前が二十歳になったら」

歌の文句ではないけれど、子供が成人したなら、
一緒に酒でも飲もうかと考えていた頃がある。

特に息子となれば、その楽しみは父親なら誰しも持つ
ものではないだろうか。

残念ながら、一緒にお酒を酌み交わす事はない。
その代わり、飲ましていろいろと話をさせ、それを聞く事も
今では一つの楽しみでもある。

いや、むしろ、今の関係を維持していければ
いいのかもしれない。
娘にしろ、息子にしろ、私と二人の時は、普段あまり話さない
事を話す場合が多い。

聞いて欲しいと思う事を、素直に話せる相手であり続ければ、
お酒は無くとも、大人の話も出来るであろう。
それも、今の毎日の積み重ねである事に変わりは無い。

「お前が二十歳になったら」

楽しみでもあり、淋しくもあり、喜びでもあると思うのである。




鎹(かすがい)

2009年01月10日 | ノンジャンル
結婚して今年で丸18年となる。

若い頃は未熟な二人の事、それなりに夫婦の危機も
多くあったように思う。

娘が生まれ、息子が生まれ、自然に生活は子供中心の
ものとなった。

飲み方がおかしくなって、病院へ駆け込む直前には、
カミサンから最後通牒が示されていた。

病院から戻った私はふらふらで、倒れ込んでしまったのだが、
子供達にとってはさぞやショックであったろう。
昏睡する私を見ながら、何を思ったのか。

息子はカミサンに、「父さんを助けてあげて。」と、
その時頼んだそうである。
その一点で、一からやり直す決心を彼女はした。

何もかもがギリギリのタイミングであった。
あれから3年と半年。
今尚、通院している私ではあるが、「あの時」を彼女と
話す時は、「過去の事」として話せている。

巷で、結婚して数年で離婚する夫婦を見るたびに、彼女は
「甘いねん。辛抱が全然足らん。」と一蹴する。

「私なんかどれだけ辛抱してきた事かわからへん。」と
私に向かって言うのである。

「性質の悪い飲んだくれ相手に、よう頑張ってきたよな。」と
言うと、「偉いやろ? そう思うやろ?」と笑っている。

ようやく、普通にそういう話が出来るようになってきた
ということか。
ならば、本当の意味で「これから」なのだと思う。

それにしてもつくづく、「子は鎹」だとも思うのである。