ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

巨星堕つ

2009年12月30日 | ノンジャンル
星宿が乱れれば、世情も乱れる。

巨大な流れ星は何の前兆か。

それとも、現在の世情が招いたものか。

瑞相と見るなら、吉にしろ、凶にしろ、

大きな転換の時を迎えるに違いない。

新たな年を前に、その転換の予感に心踊るのか、

不安に怯えるのかとでは、その現実を前にしたとき、

まるで異なる結果を導くこととなる。

願わくは、飛躍の機として転換を捉えたい。

それは、日々の変化についても同じことである。





幸と辛

2009年12月26日 | ノンジャンル
断酒初期の頃は、それまで、あれほど飲んでいたお酒を
すっぱりやめて、飲まない日々を重ねていることを何か
特別なことと感じていたし、周りにも特別なこととして
自分を評価し、認めてもらいたいという気持ちが強かった。

それはそれで自然なことであろうし、我慢の断酒の
時期であれば、周りの評価自体が支えともなる。
一ヶ月、三ヶ月、半年、一年の表彰があるのも
そのためである。

断酒自体が安定してくると、さまざまな気付きという
ことがあるのだが、要するに我々にとっては
飲まないことが、まともであり続ける条件ということ
であって、飲まないことそのものが、何か自分を特別な
存在とするわけでもなんでもない。

普通の人でも生きていく上では様々な苦難があって
当たり前であり、そういった生き辛さの中で、健気に皆
頑張っている。

我々は断酒によって普通の人でいられるのであり、
それ以上でもそれ以下でもない。

どう生きていくのかは、やはりその人それぞれであるから、
断酒自体に何か見返りを求めても詮無いことである。
まともに戻って、生き辛い人生をどう生きていくのかが
むしろ普通に問われるべきことなのである。

なりたくてなった病気ではないにしろ、なるべくしてなって
しまった病気である以上、その回復のためにせっかく
苦しい思いを経験したのであるから、それを現在、未来へと
生かしていくことを考えるべきであろう。

辛いという字に、もう一本線を引けば幸せという字になる。
今、我々は、そのもう一本の線を引こうとし、引く途上に
あるのではないか。
いや、むしろその線に気づいていないだけかもしれない。

幸せの中に辛さがある。辛さがあって幸せがある。
これは、人生の妙味というものだ。

幸せも不幸せも、人の心次第ということなのである。





ごあいさつ

2009年12月21日 | ノンジャンル
まるで実感もないままに、今年も残り僅かとなりました。

未曾有の不況の嵐の中、様々に困難な状況に直面し、
めまぐるしい一年でしたが、おかげをもちまして、
健康で、年末を迎えられそうです。

今日は平成21年12月21日。1と2ばかりの日です。
断酒は一日、一日の積み重ね。この1と2の日は、
イチ、ニと、ひとつずつ積み重ねていくことに通ずる
ものがあるのではないかと感じ、
今年のご挨拶の日とさせて頂きます。

初診の6月1日を、自身の断酒記念日とし、これまで
その日には断酒何年、そして12月には何年半と、
節目として自戒を新たにしてきました。

おかげさまで、今年は断酒4年半となり、来年の
断酒5年まで半年を切りました。
この5年というのは、思えば、マイナスの自分を
ゼロへと戻す期間として捉えてきました。

来年の断酒記念日以降は、ようやくプラスへ転じる
ことができるのではないかと、今から自分に期待を
膨らませています。

このブログを始めたのは2006年3月です。
記事は遡って、1月より投稿されている形にしています。
以来、様々な方々に支えられ、今日に至っています。

この病気に完治はありません。何年断酒していようと、
一杯のお酒で、元の木阿弥となることなど、珍しくも
ありません。これは、完治しないということの
実証であります。

しかしながら、病が治るように回復し、普通に生きて
いけることもまた、多くの方が実証として
示しておられます。人として生きるということを
諦めなかった方々ばかりです。

私にもできているから大丈夫と、遥か先で旗を振って
下さる方。 私などを一つの目安として、自らの断酒を
継続されている方。また、異なる立場から見守って
下さる方々。

毎日言葉を交わすわけではありませんが、折に触れて頂く
言葉に励まされ、支えられて今の私があります。
本当に感謝の念に堪えません。

誠に勿体ない事ですが、今後とも一日一日を生きる
という歩みを、共々に進めていけたなら、これ以上の
幸せはありません。

今年一年のご厚誼に心から感謝しつつ、皆様にとって、
また、私自身にとっても、新しい年が更なる前進の一年と
なりますようにと祈ってやみません。

一年間、大変お世話になりまして、ありがとうございました。
来年もまた、どうぞ宜しくお願い申し上げます。




書:末廣博子




対等

2009年12月20日 | ノンジャンル
右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい。

土台、無理なことを強いれば、無理が重なる。

殴られたなら、殴り返す。殴ったなら、殴り返される。
これが対等の関係である。

単に、目には目を、歯には歯をの論理ではない。
殴るものは殴られる痛みを、殴られるものは殴る痛みを
知るべきだということなのである。

乱暴な例ではあるが、アル症というのは、殴った尻から
殴ったことを忘れていく。
ところが、殴られたことは過大且つ執拗に覚えている。

自分が殴ったことはどんどん忘れていくか、覚えてもいない。
だから殴られたことばかりどんどん溜まっていく。

今、自分を振り返るに、暴力や経済的困窮を招くような
ことこそなかったが、周りにどれほど心配をかけ、
失望させてきたかが、わかるようにもなってきた。

例えば裁判所で証言台に立つとして、その場にいる
誰であろうと、自分とは対等である。

だが、酩酊している証言者の言うことなど誰もまともには
聞かないし、その証言を証拠とできるわけもない。
至極当然の事なのであるが、当人は誰も自分を
相手にしない、自分の話を聞いてくれない、自分は独りだと
嘆き悲しむ。
周りを恨み、世間をのろい、自分を憐れみ、悲嘆の底に
暮れるのである。

何のことはない、この酩酊から醒め、まともになれば済む
話なのだが、この病気の厄介さは、それが極めて難しい
ことにある。その人によって、その人なりの底つき、
つまり酩酊から立ち直るきっかけがどうしても必要となる。

それは、現実的な死の恐怖か、自分以外の新たな生か、
人それぞれである。
私においては、自分を失う恐怖であった。

現実生活から全くかけ離れたサンクチュアリに生きれば、
苦もなく、悲しみもなく、不安もない。
その世界に誘われるまま、足を踏み入れかけていたのを
何とか止まらせたのは、何よりも自分自身を失ってしまう
恐怖心であった。

閑話休題

とまれ、人間は平等ではないかもしれないが、対等である
はずである。だが、この病気は、その対等であることさえ
失ってしまう。自ら失っておいて、それを殴られたと思い、
周りを責めたところで、すでに周りには誰もいない
ことにさえ気付かないのである。




上の写真は、正常な脳と、薬物中毒による萎縮した脳との
対比である。私が最も恐れていたのは、右側の
サンクチュアリ脳であった。
幸い、脳波、CT 、MRI 全て異常がなかった。
当時、その結果に、どれほど安堵したことか知れない。