ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

お邪魔虫

2019年09月28日 | ノンジャンル
お彼岸も過ぎて、随分日が短くなった。
バタバタの日常も少し落ち着き、
遅れ馳せの墓参りに行って来た。

8月は家内と一緒だったので、
感じなかったが、今回は
一人で行って、今までにない違和感が
あった。

随分長い間、いわば一人でいる母親と
対面するような感覚と、黙って聞いて
くれているような感慨で、折にふれて
支えてもらってきた。

だが、なんとなく、別に来なくても
いいのに的な雰囲気があった。
これまで感じたことのないものだ。

父親が亡くなって半年以上経った今、
二人で落ち着いているのかもしれない。

それはそれで結構なのだが、つまりは、
私はお邪魔虫ということか。

家族一緒ならともかく、もう一人では
行かない方がいいかもしれない。

二人揃って孫の顔は見たいだろうが、
私一人だけなら、かえって
気をつかうだろう。

なんとも腑に落ちない墓参りだった。




なにもない

2019年09月27日 | ノンジャンル
人生の黄昏期に入ると、いろいろと身の回りの
整理をしておかねばという気持ちにさせられる。

貯蓄など、お金や契約に関わることについては、
ある程度まとめているが、それ以外は、
別段どうでもよい。

一期の終わりに、物質的なものは意味がなく、
肉体も滅びる。

遺されたものに負担とならない程度の準備は
している。

遺言状を準備しておくほどの資産は無い。

社会や世間に名が遺るほどの偉業を為した
わけでもないし、これからもないだろう。

要するに、なにもないのである。

あるとすれば、家族や周りの関わってきた
人達との思い出であろう。

それは自身の思い出でもあり、遺せるものは
それしかないようである。

そして、それはそのまま、自身の生き様でもある。

遺せるものが、生き様であるとすれば、
自ら襟を正さずにはおれない。

遺影にできそうな自画撮りは、毎年更新して
保存している。

携帯やパソコンのパスなども整理してあるので、
困ることはないだろう。

となると、保存しているいかがわしい画像や動画も
処分しておく必要がある。

だが、息子と趣味が合えば、それはそれで
遺産となるかもしれない。

どうするか、思案中である。





風立ちぬ

2019年09月26日 | ノンジャンル
お彼岸も過ぎ、朝晩は随分と秋らしくなってきた。

仕事では、間もなく半期を終え、後半へと突入する。

今年は初めから多難で、文字通り休みなく走り
続けてきた。

と言えば、多忙な企業戦士という様に、
カッコ良く聞こえるが、実のところは真逆かも
しれない。

外見は厳つく、でかい図体をしながら、内面の
小心さと臆病さに、自分でも嫌気がさす
ほどである。

その分、何事においても周到さに欠けることは
ないが、これまでを振り返ってみても我ながら
そこまで気を揉み、動くことはなかったのでは
ないかと思う事が多い。

とは言え、性分というものは変えられる
ものではない。
唯一の慰めは、結果がどうであれ、やるだけ
やったという諦めに近い開き直りである。

思えば、この変えられない臆病さと、それを
嫌悪する自身との狭間をお酒で埋めていたの
かもしれない。

良く言えば、繊細で感受性が高いとなるが、
悪く言えば脆すぎる精神性である。

周りを見ても、むしろこういうタイプの方が
アル中に多いというのは事実のようである。

なるべくしてなった病気なのかもしれない。

如何に嫌悪しようと、変えられないものは
そのまま受け入れるしかない。

そして、それを風の吹くまま揺れる柳のような
しなやかさに仕向けながら、自身の生き方に
おいては、風に向かって屹立するもので
ありたいと思うのである。





天と地

2019年09月24日 | ノンジャンル
山と谷といってもよい。

昇りつめて頂点に達した時、そこに死を意識する。
降り切って、地の底に達してもまた死を意識する。

それは一点であって、無限ではない。
無限とは、昇り降りの事である。

天より舞い降りて、大地より生まれる。
大地に還って、天へと昇る。

頂点の一点が幸せなのでもなく、地の底の一点が
不幸なのでもない。
その一点をすべてとしてしまうから、幸せの中の死、
不幸の中の死を希求するのである。

生と死も、一点ではない。
昇りであれ、降りであれ、歩き続けるその一歩に
まさしく幸せはある。

それに気がつくまで、何と長い時間をかけて
しまったことか。
だがそれも、一瞬のことである。

気がついたなら、そこから一歩の幸せをかみしめて
行けば良い。

幸も不幸も、常に自身と共にあるのだ。





心の傷

2019年09月22日 | ノンジャンル
14年以上経っても、当時の事をふと思い出した
ように家内が話をし出すことが今だにある。

病気ということにおいては本人は被害者かも
しれないが、周りに対しては加害者である。
しかもその自覚というか、記憶が周りに
比べて格段に薄い。

深い怪我の傷が癒えても、傷痕が残り、
時に古傷が痛むこともままある。

いつまでも昔の話を掘り返してとか、
何度謝れば気が済むのかというのは、
いわば加害者の勝手な言い分である。

傷ついたものが、現実に痛みを感じて
いるなら、そしてそれが自身に帰因して
いるなら、その度に何度でも謝れば良い。

現に、そういう話になると、私は黙って
聞いている。その上で、済まなかったね
と謝り、支えてくれた事を謝す。

そしてまた、昨日と変わらない今日を
共に過ごしている。

償いでもなく、謝罪でもなく、
その痛みに寄り添うという事だ。
まして自分自身が与えた痛みである。

何度でも謝すれば良い事だし、
それが自身の回復の一歩一歩でもある。

目の前の痛みと苦しみに、寄り添う。
それに終わりはない。
終わらせたいと思ううちは、つまり、
加害者の勝手に囚われているうちは、
まだまだなのである。