個人に約せば、サド的要素、マゾ的要素というものは、
その内容は別として、陰と陽、善と悪と同じように、
どちらか一方ではなく本然的に併せ持っているものである。
どちらの傾向が強いかによって、サディスト、マゾヒストと
分類されるのだが、そこにはある程度の相関関係も見られる。
さて、その傾向に注目すれば、サディストは能動、
マゾヒストは受動と見て取れる面が多い。
環境に対し、それに順応していこうとするのみであれば、
これはマゾと言える。積極的に環境を変えようと
していくなら、サドと言えよう。
しかしながら、厳しい環境化にあって、それに耐え忍ぶ中で、
自らを進化させて順応していくというのは受動の中の
能動であり、その厳しい環境の中に快適な環境を
作り出していこうとするのは能動であるが、それは新たな
困難を伴い、その困難を敢えて自ら受けるという点で、
能動の中の受動とも言える。
いずれにせよ、能動と受動、サドとマゾは相関関係にあり、
どちらか一方のみがその人にあるわけではない。
要するに、その要素の強さ、傾向によって、その人が
サド的か、マゾ的かの判断がされるのみである。
この傾向の強さという点で、サドか、マゾかという
見方をすれば、女性はマゾである方が本然的に安定する
気がする。
生殖的には受動であっても、出産という特別な能動が
ある以上、その後は平和と安定を望むマゾで良い。
反対に、女子供を守る役割として創生された
男というものは、常に能動、サドでなければならない
宿命を持っている。
よって、その男の特別な性的嗜好や、性癖などは別として、
日常生活、社会生活においてマゾ的傾向の強い男というのは
私にとっては最も嫌悪する対象となる。
環境に甘んじて、受動的な生き方しかできないなら、
男などやめてしまえば良い。
事実、男をやめているものいる。
男女平等などと声高に唱える者を私は蔑視する。
性差というのは役割の違いである。初めから違うものを、
どうしたって同じにはできない。
女性が社会に出て、その能力や才能を存分に発揮できる
ための自由と権利を保障するのが、ジェンダーフリーの
概念である。フリーであって、イコールではない。
男女平等という概念には違和感を禁じえない。
結論から言えば、役割というものを男女間でどう
分担しようが、当人が幸せであればよい。
男性以上の社会的責任を持ち、その能力を遺憾なく
発揮している女性が、不幸であるとしたら意味がない。
女性よりもきめ細やかに家庭を守り、子育てに身を
尽くすことに無上の喜びと幸せを感じるなら、それが
男性であっても一向差し支えない。
しばしば勘違いされているようだが、マゾというのは
受身である以上、人のことなどどうでもよい。
まず自分ありきなのである。肝心なことは人任せなので、
その人に準じていれば良いだけの話である。
つまりその人のことなど理解せずともよい。
サドというのは能動である以上、人や社会に働きかけて
行かねばならない。
そのためには、その人を、社会を理解する努力が
不可欠となる。
自身を理解してもらいたければ、その相手はサドで
なければ無理である。マゾは、ありのままの自分を
受け入れてくれるように見えるが、実は自分の何も
見てはいないのである。
さて、少なくとも社会において仕事をする者について
いえば、その人のサドかマゾかという傾向は、
傍から見ていて実によくわかる。
端的に言えば、マゾは仕事を与えられることを待ち、
与えられた仕事をこなしていく。
サドは、自ら仕事を創り、艱難を覚悟の上でそれを
成し遂げていく。
自身に約せば、このサド的要素と表裏一体の
マゾ的要素を、対極として虫唾が走るほど嫌悪しながら、
それを受け入れつつも、決してマゾの傾向に凌駕される
ことのないようにと心がけている。
男として生まれた以上、その本来の役割を果たすのが
自然と考えている。それが男の幸せでもあると信じる
私は、死ぬまでサドであり続けたいと願うものである。
その内容は別として、陰と陽、善と悪と同じように、
どちらか一方ではなく本然的に併せ持っているものである。
どちらの傾向が強いかによって、サディスト、マゾヒストと
分類されるのだが、そこにはある程度の相関関係も見られる。
さて、その傾向に注目すれば、サディストは能動、
マゾヒストは受動と見て取れる面が多い。
環境に対し、それに順応していこうとするのみであれば、
これはマゾと言える。積極的に環境を変えようと
していくなら、サドと言えよう。
しかしながら、厳しい環境化にあって、それに耐え忍ぶ中で、
自らを進化させて順応していくというのは受動の中の
能動であり、その厳しい環境の中に快適な環境を
作り出していこうとするのは能動であるが、それは新たな
困難を伴い、その困難を敢えて自ら受けるという点で、
能動の中の受動とも言える。
いずれにせよ、能動と受動、サドとマゾは相関関係にあり、
どちらか一方のみがその人にあるわけではない。
要するに、その要素の強さ、傾向によって、その人が
サド的か、マゾ的かの判断がされるのみである。
この傾向の強さという点で、サドか、マゾかという
見方をすれば、女性はマゾである方が本然的に安定する
気がする。
生殖的には受動であっても、出産という特別な能動が
ある以上、その後は平和と安定を望むマゾで良い。
反対に、女子供を守る役割として創生された
男というものは、常に能動、サドでなければならない
宿命を持っている。
よって、その男の特別な性的嗜好や、性癖などは別として、
日常生活、社会生活においてマゾ的傾向の強い男というのは
私にとっては最も嫌悪する対象となる。
環境に甘んじて、受動的な生き方しかできないなら、
男などやめてしまえば良い。
事実、男をやめているものいる。
男女平等などと声高に唱える者を私は蔑視する。
性差というのは役割の違いである。初めから違うものを、
どうしたって同じにはできない。
女性が社会に出て、その能力や才能を存分に発揮できる
ための自由と権利を保障するのが、ジェンダーフリーの
概念である。フリーであって、イコールではない。
男女平等という概念には違和感を禁じえない。
結論から言えば、役割というものを男女間でどう
分担しようが、当人が幸せであればよい。
男性以上の社会的責任を持ち、その能力を遺憾なく
発揮している女性が、不幸であるとしたら意味がない。
女性よりもきめ細やかに家庭を守り、子育てに身を
尽くすことに無上の喜びと幸せを感じるなら、それが
男性であっても一向差し支えない。
しばしば勘違いされているようだが、マゾというのは
受身である以上、人のことなどどうでもよい。
まず自分ありきなのである。肝心なことは人任せなので、
その人に準じていれば良いだけの話である。
つまりその人のことなど理解せずともよい。
サドというのは能動である以上、人や社会に働きかけて
行かねばならない。
そのためには、その人を、社会を理解する努力が
不可欠となる。
自身を理解してもらいたければ、その相手はサドで
なければ無理である。マゾは、ありのままの自分を
受け入れてくれるように見えるが、実は自分の何も
見てはいないのである。
さて、少なくとも社会において仕事をする者について
いえば、その人のサドかマゾかという傾向は、
傍から見ていて実によくわかる。
端的に言えば、マゾは仕事を与えられることを待ち、
与えられた仕事をこなしていく。
サドは、自ら仕事を創り、艱難を覚悟の上でそれを
成し遂げていく。
自身に約せば、このサド的要素と表裏一体の
マゾ的要素を、対極として虫唾が走るほど嫌悪しながら、
それを受け入れつつも、決してマゾの傾向に凌駕される
ことのないようにと心がけている。
男として生まれた以上、その本来の役割を果たすのが
自然と考えている。それが男の幸せでもあると信じる
私は、死ぬまでサドであり続けたいと願うものである。