ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

なんでやねん

2020年10月27日 | ノンジャンル
大阪で「なんでやねん」というと、ボケに対する
ツッコみの常套句となるが、これはいわば
”WHY”である。

これは、物事の本質を見極める意味では、商人の街
大阪気質に通じている。

いくらおしゃれな店構えだろうと、そこで出される
ものが不味ければはやらないし、路地裏の汚い
店でも、美味ければはやる。

商売も、御託はええから、結局なんぼ儲かるん?
というのが大原則である。

様々な問題に直面した時、大抵の人はまず”WHY”
ではなく、”HOW”を考える。
どういう解決方法があるかを考えるのだ。

緊急を要することについては、方策というのは
暫定的に必要となることもある。
しかし、なんでやねんがなければ、抜本的かつ
恒常的な解決とはならない。

悪臭がするからといって、その消臭をするのは
”HOW”であり、悪臭のもとを探って、
それを断つのが、「なんでやねん」つまり、
”WHY”となる。

どうしよう、ではなく、なんでやねんが、問題の
本質を突く事に繋がる。

その場しのぎの、どうしようではなく、
なんでやねんと常に問いかけていきたい
ものである。





遺影

2020年10月20日 | ノンジャンル
正面の遺影は、本当にあの子らしい、
可愛い笑顔だった。

一通りの儀が終わるまで、ずっとその遺影を
見ていた。

父親は、息子のSOSに気づいてやれなかったことを
悔しがった。

子を持つ親としては、その悔恨は痛いほどわかる。

だが、どれほど悔やみ、嘆き、悲しみに
もがこうと、あの子は帰ってこない。

最後のお別れに、顔を見るのが怖かった。

痛みや苦しみ、ましてや傷がそこに見えたなら、
堪え難いと思ったからだ。

声を掛けたら、起きるかと思うほど、穏やかな、
安らかな顔で、その子は眠っていた。

生きているものは、それぞれの立場で、
どうとでも言うだろうが、ああ、この子は
苦しみから解放されたのだと感じた。

そして、その顔に、私は救われる思いが
した。

この花を見るといつも彼を思い出していた。
彼の心そのままのような、可愛い花である。





散りぬ

2020年10月18日 | ノンジャンル
友人の息子さんが飛び降りた。
今年中学に上がったばかりの
若い命である。

今時珍しく自然体で素直な、可愛らしい
男の子だった。

小学生の時代から、英語を教えたり
様々に関わってきた子だ。

何をどう悩み、苦しんでいたのかも
定かではない。
気づいてやれなかったことを
悔しがる父親の気持ちは、
痛いほどわかる。

あの純粋さで生きるには、この現実世界は
あまりにも過酷なものだったかもしれない。

それにしても、飛び降りる一歩を
踏み出すのはよほどの恐怖だったに
違いないのに、それをさせるほど
追い詰められていたのだとすれば、
胸を締め付けられる。

今となっては、言葉はいらない。
この締め付けられる胸の痛みと
苦しみを、生きている私は忘れては
ならない。

いや、忘れることはないだろうが、
それがどう生きるかを決める規範と
なることは間違いない。

彼の笑顔を胸に、また今日を共に生きる。





診断

2020年10月14日 | ノンジャンル
依存症の診断は、何も身体的な依存を診断する
わけではない。
むしろ精神的な依存を、その人の日頃の生活習慣や
問題となっている状況、あるいは、その背景に
至るまでの調査とスクリーニングによって、
診断される。

とはいえ、人によっては依存症と診断されても、
後にコントロールを取り戻し、普通に
飲めるようになる人もいるだろう。

要するにコントロールを失う病気ではあるが、
コントロールを取り戻せる場合もある
という事だろう。

だが、殆どの場合、アルコール中心の生活に
よって、普通の生活はおろか、仕事にも、
家庭にも継続的な問題と実害を生じているなら、
依存症と診断されるべきであり、断酒を
決意させる指導性が不可欠となる。

それが仮に「誤診」だとしても、誤診による
実害は何もない。

断酒を強要され、楽しく飲む機会を奪われた
などと言う訴訟は聞いたことがないし、
お酒によって、それまで継続的に被害を
受けてきた周りと、誰より本人が、断酒による
日常の正常化を実感するからである。

診断には、断の字が付く。
依存症であると断じてもらう事で、救われた
患者も、家族も多いだろう。

突き詰めれば、依存症と診断されようが
されまいが、断酒を決意するのは
自分自身である。

自身の飲酒の問題で、仕事や生活、家族に
弊害が出ているのを承知で飲み続けるなら、
コントロールを喪失しているのであり、
そこから抜け出すには、断酒しかない。

その前には、コントロールを失っている状況の
客観的な認識が必要であるから、病識という
ものが必要となるのである。

私は診察以前に離脱症状を客観的に観察していた
経緯があったので、依存症と診断された時は、
至極当然の事として受け止められた。

そして、好きなだけ飲んで死ぬか、飲まずに
己の為すべきことを為すかの選択をしたまでだ。

それは、いわば自身の生き方の診断である。
自らの診断である以上、再び弊害しかない
コントロール喪失に戻る事はないのである。





名誉棄損

2020年10月07日 | ノンジャンル
名もなく、貧しくはなくとも大金持ちでもなく、
美しくもなくという自身にとっての名誉とは
何であろう。

名誉棄損というのは、損という言葉が付いて
いる以上、実害を伴う立場の人においてのみ
有効であろう。

いわゆる、政治家であれ、著名人であれ、
芸能人であれ、人気商売の人達である。

そういう人達にとっては、名誉を傷つけられる
ことは、生活に直結した実害となる。

それなりの社会的立場にはあっても、
そういう人気商売ではないから、私などに
名誉棄損という事は多分あり得ない。

ハゲジジイと悪口されても、無礼だとは思うが、
ハゲ自体は事実であるから、ハゲじゃないとも
言い返せない。

これは名誉棄損になるのか?

小さな子供たちは素直なので、ハゲおじさんと
言いながら寄ってくる。
「なんやてえ?」と言って追いかけると笑いながら
逃げ回る。

人に笑われることに傷つく事はあっても、そこに
何ら実害はない。傷つく事が実害だとしても、
実損は何もないのである。

有名でもなく、栄誉があるわけでもなく、
人気商売を生業としているわけでもない
私にとって、やはり名誉というものは
ないだろう。
つまり、名誉棄損という事はないのである。

誉れという事で言えば、自身の人生を
いかに生きるかを問い続け、自身で決めた
道を歩んでいくということだけだろう。

その矜持を傷つけるもの、あるいは棄損する
ものはあり得ないし、やはり実害や実損という
ものもあり得ない。

我が道を行くというのは、そういう事だろうと
思うのである。