断酒例会というのは、言いっ放しの聞きっ放し、
つまり良い意味でのクローズドな場である。
そこには意見交換も主張も必要なく、体験という
事実を自ら語り、それを共有できるものは共有する
という、いわば共感の場である。
同じ病気で、似たような体験をしたものが集まり、
共感することで自身の回復、つまりは復元を
図る場である。
あれ程ひどくはないと思うなら、そこまで行か
なかったことに感謝しつつ、そこまで行っていても
おかしくなかったと反省し、その程度かと思うなら、
そのあたりで気付けなかった事を自身のこれからの
戒めとする。
良い意味での閉鎖的な場であるがゆえに、
共有できるものは多い。
他の体験に意見を述べたり、病気の苦しみを共有する
ことから外れた主張をする者がいれば、その場の
本来の意義はなくなる。
同じ病気に苦しむ者にとっては開かれた場であるが、
そうでないものには閉ざされた場なのである。
そこにわざわざ押し入って、自身の意見を
主張するならそれは共感ではなく凶漢である。
昔、米国大統領が来日した折に、蹴鞠を見て
自らその輪に入り、サッカーのリフティングで
その輪を搔き乱していたことを思い出す。
体験した者でなければ分からない苦しみを
共有しようとする場において、その苦しみを
知らないものが土足で踏み込むなら、
それは凶漢である。
嘆かわしきは、凶漢は常に自身が凶漢であることを
知らないし、排除によって自身を省みることも
しないのである。
クローズドな世界に入るには、少なくとも
その世界の人を理解しようとする心が必要であるし
それが無ければ、そこに入る必要は毛頭ない。
クローズは、閉ざされた意味のほかに、密接に
近しいという意味があるのである。
つまり良い意味でのクローズドな場である。
そこには意見交換も主張も必要なく、体験という
事実を自ら語り、それを共有できるものは共有する
という、いわば共感の場である。
同じ病気で、似たような体験をしたものが集まり、
共感することで自身の回復、つまりは復元を
図る場である。
あれ程ひどくはないと思うなら、そこまで行か
なかったことに感謝しつつ、そこまで行っていても
おかしくなかったと反省し、その程度かと思うなら、
そのあたりで気付けなかった事を自身のこれからの
戒めとする。
良い意味での閉鎖的な場であるがゆえに、
共有できるものは多い。
他の体験に意見を述べたり、病気の苦しみを共有する
ことから外れた主張をする者がいれば、その場の
本来の意義はなくなる。
同じ病気に苦しむ者にとっては開かれた場であるが、
そうでないものには閉ざされた場なのである。
そこにわざわざ押し入って、自身の意見を
主張するならそれは共感ではなく凶漢である。
昔、米国大統領が来日した折に、蹴鞠を見て
自らその輪に入り、サッカーのリフティングで
その輪を搔き乱していたことを思い出す。
体験した者でなければ分からない苦しみを
共有しようとする場において、その苦しみを
知らないものが土足で踏み込むなら、
それは凶漢である。
嘆かわしきは、凶漢は常に自身が凶漢であることを
知らないし、排除によって自身を省みることも
しないのである。
クローズドな世界に入るには、少なくとも
その世界の人を理解しようとする心が必要であるし
それが無ければ、そこに入る必要は毛頭ない。
クローズは、閉ざされた意味のほかに、密接に
近しいという意味があるのである。