ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

師走へ

2010年11月30日 | ノンジャンル
気が付けば11月も終わり、いよいよ師走へと入る。

気候が穏やかな分、あまり実感としてはないが、一年という
月日の加速度的な流れには、今更ながら驚かされる。

10歳の子供にとって一年は人生の10パーセント。
今の私ならたった2パーセント。
早いはずである。

街路にも落ち葉が積もり、これから霜、雪の季節となる。

落ち葉に世の無常を感じ、盛者必衰とまで大袈裟では
なくとも、老いや衰えの感傷に、寂しさが増す時期である。

だが、路上の落ち葉から視点を樹に移せば、それは新しい命、
つまり新芽の萌え出るエネルギーに押し出されて枯れ葉が
落ちるのである。

そして、厳しい冬を耐え、力を蓄えた芽が、春に大きく
萌え出て、伸びるのである。

死とともに生があり、生とともに死がある。
原因は過去であり、結果は現在であり、同時に未来への
原因となる。

転生とは、生まれ変わることではなく、営々と生命が
連続していくということなのであろう。

時に適って、大きく羽ばたくべきその機を待ち、生きる力を
厳しい冬にこそ蓄えておきたいものである。

食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋、芸術の秋、思索の秋。
どれもこれも、生きる力を蓄えることではないか。

難しく考えずとも、ちゃんと本然的なリズムが
備わっているのである。






新たな始動

2010年11月27日 | ノンジャンル
今日は夏のような雲と青空で、風だけが冷たい不思議な日和。

週に一度の通院日であるが、2回目の現院長先生の診察。
相変わらず、懇切な診察であった。

前回のお約束どおり、体験記録と考察、そして写真を保存した
メモリをやっとお渡しすることができた。

何かのお役に立てるなら、存外の喜びである。

12月を前に、断酒2000日も無事に迎え、今日、記録を
お渡しできるということもあって、このブログもデザインを
リニューアルした。

変わらぬままにという思いもあったが、ひとつの大きな節目を
それなりに見える形にしたかった。

変わらないものはないが、変わらぬものは確かにある。

それを胸に、気持ちも新たに、また一日を始めていく。

ゼロからであろうと、何千日を積み重ねていようと、
今日の一日を積むことは、誰も皆同じなのである。




3-D

2010年11月26日 | ノンジャンル
物事を認識する視点としては、3つのベクトルで立体的に
捉えるのが最も効率的である。

例えば事故があった場合、その原因と責任を追及する視点、
事故による被害の復旧という視点、そして、将来的に
同じ事故を起こさないための対策という視点。

各視点により同時に認識した上で、具体的行動に
つなげるのが理想的ではあるが、現実的には難しく、
常に優先順位を考慮した上で、行動を起こさなければ
ならない。

同じ事故が続発する可能性があれば原因追究と対策を優先し、
単発的で実害が大きければ復旧を優先させる。

いずれにおいても、責任追及というのは最優先されるべき
ものではない。

起こってしまった事故は時制では過去であり、
その復旧は現在である。
対策は無論未来ということになるが、責任というものは、
まったく別枠で考えられるべきものである。

いつも不思議に思うのだが、マスコミにしろ、世論にしろ、
当事者にしろ、この責任の所在を明らかにすることを
常に最優先しているきらいがある。

その結果、責任逃れ、転嫁といったことに当事者は
労を費やし、マスコミや世論もその追求に偏執的とさえ
思えるほどの労を費やす。

私に言わせれば二重の浪費である。
責任追及など、警察に任せておけばよい。

現場ではまず実害の復旧である。 そして同じ事故を
起こさないための原因追究と、対策が常に急務である。

責任の所在など、いくらはっきりしたところで、
現場は何も進まない。
逆に、原因がはっきりすれば、責任の所在もはっきりする
ものである。

所在がはっきりすれば、その当事者に責任を
全うさせればよい。

交通事故が起きて、倒れている被害者をほったらかして、
加害者のドライバーを責め立て、賠償請求するなど
考えられない。

だが、同じようなことが日常的に行われているのを
不思議に思うのである。

3-Dとは、3次元と訳される。 
同時に3時元で物事を認識し、対応していかなければ、
ひどくポイントもピントもずれたことになってしまう。

生活においても、仕事においても、政治においても、
同じことが言えるのではないだろうか。




踏み絵

2010年11月25日 | ノンジャンル
踏み絵について考えていた。

その絵を踏まねば打ち首。 踏めば無罪放免。

己の信念と大義の上に、踏まずに死ぬものもあれば、
死んでは元も子もないと、踏むものとがいた。

どちらが正しいとかという問題ではなく、
これはその人の生き方の問題なのだと思う。

どれほど人に讃嘆されようと、自身が満足していなければ
詮がない。
どれほど人の非難を受けようと、自身が満足なら
それでよい。

自分自身が納得のいく生き方を選べばいいことなのである。

さて、目の前に一杯のお酒がある。

飲めば死ぬし、飲まなければ生き延びる。

飲んで死ぬも本望と飲むのもよし、命とは引き換えに
できないと飲まないのもよし。

これもその人の生き方の問題であり、その人次第である。

ただ異なるのは、自身の生き方を選ぶこの土壇場に、
自分自身ですらないという大問題がまずあることだ。

つまり、酩酊と麻痺の中、本来の自分自身を失い、
アルコールや他の支配下にあって、自身の納得のいく
選択ができるわけがないのである。

まずは自分自身を取り戻し、その上で、飲む飲まないを、
つまり、死ぬか生きるかを自身で決めればよいことである。

譬えが真逆なので、うまく考えをまとめられないのだが、
自身の生き方というものはあくまでも自分次第である。

どう生き、どう死ぬかは自分で決めればよい。
誰しも、己の信じる道を歩む権利を持っている。
それが周りを巻き込まない限り、自らを由とする、
自由ということなのである。

無論、自由と権利には、表裏一体として義務と責任がある。
人はしばしばこの表裏に悩むのであるが、それらを
ひっくるめた上での、自身の生き方の問題なのである。

私は、飲まずに生き、踏まずに死にたいと願っている。






キャッチボール

2010年11月21日 | ノンジャンル
今日は朝からいいお天気で、息子と二人で大掃除。

O型の二人は、やるとなったら徹底してやる。
お昼過ぎまでかかって、スッキリした。

我が家の二人のA型女性陣は、一般の血液型による傾向とは
まるで異なり、それぞれ趣味や楽しみのためにお出かけ。

せっかくの陽気なので、本当に久し振りに息子と
キャッチボールをした。

さすがに高校生。 投げ込んでくる球が重い。
少し肩が温まってきたところで、球をだんだんきつく
していってもしっかりキャッチ。

大きくなったものだと感慨深いものがあった。

休憩もせず、2時間ほどのプレイだったが、いい汗をかいた。
おかしなもので、言葉は交わさずとも、投げる球、受ける球で
なんとなく会話が成立するのである。

お酒を酌み交わすことはもうできないが、いくつになっても
たまにキャッチボールができれば幸せかもしれない。

そして、いつか孫とキャッチボールができたとしたら・・・。

考えるだけで楽しくなるのであるが、どうやら明日は
右腕が上がらないかもしれない。

日頃の運動不足をまず何とかしないと・・・。