ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

赦しの国

2017年05月31日 | ノンジャンル
台湾の事である。

正確には、独立国家としては認められていないのだが、
この国の人々は、懐の深さが半端ではない。

日本の統治下にあった国の中でも特に親日国で
あるのも不思議なのだが、その背景に人々の
底知れぬ優しさがある。

一例をあげると、商売をしていて、客先からは
支払いを受けているのに、仕入れ先には決済せずに
支払を引き延ばし、挙句には夜逃げして雲隠れ
という事件が度々あった。

何のことはない、どこででも聞く話だが、普通、
支払を踏み倒して、とんずらするような人は、
余所ではともかく、およそ同じ場所には戻って
これない。

戻っても当然ながら、どの面さげてとなり、
誰も相手にしないから商売など成り立たない。
まして債権のあったものなら、下手をすれば
あらためて意趣返しという事も起こりうる。

ところが、台湾では、しばらくほとぼりを冷ませて
当の本人が元の場所に戻ってくる。
ばかりか、周りがそれを受け容れる。

そして、その人がまた商売ができるようにと
協力できることは協力する。

信じがたい事ではあるが、これまで多くの例を
見てきた。
他の国、特に日本においては考えられない
ことである。

私たちは契約社会の中で生きている。
だがしかし、人との関係や繋がりにおいて、
それを契約化しすぎているきらいがある。

本来、契約などというもので構築できるほど
人と人との関係は単純ではない。

そうして、私たちも民族風土として持っていた
豊かな内面性を、契約という狭小で陳腐な
規約によって喪ってきたのかもしれない。

台湾の様々な友人に会うたびに、相手本位の
心豊かさにいつも感銘を受ける。

そう、つまり、感銘を受けるという事は、私自身、
懐の浅きを露呈していることになる。

仕事上はともかく、人との関わりの中で、何かが
欠落してしまっていることに気付かされるのである。





つぐない

2017年05月29日 | ノンジャンル
人間、罪を犯せば、それを償わなければならない。

法律によれば、服役などの懲罰がそれにあたるが、
それですべてが償えるわけではない。

世法は別であるから、社会的不遇は服役後も
ついて回るだろう。

まして自身に刻まれた罪の傷は、その人を一生苛む
事になるかもしれない。

人を殺せば、間違いなく懲役となり、出所しても
世間では殺人者であることに変わりはない。

自身もまた、贖う事の出来ない罪の傷を負って
生きていかねばならない。

その罪の傷を意識しようが、しまいが関係ない。
それが消えることはないのである。

たとえ神や仏であってもそれを肩代わりすることは
できない。他者の代わりにトイレに行っても
仕方がないではないか。

酒害で家族を巻き込み、長年に渡って悩ませ
続けてきたことを、ひとつひとつ振り返るのは、
断酒によるしかない。
酩酊の中では、記憶もなければ罪の意識すらない。

断酒初期には、失ったものを取り戻そうとする。
収入が途絶えることはなかったが、貯蓄はゼロに
近かった。 自身の借金もあった。

ともかく、家計を立て直すことが優先だったが、
それは同時に罪を贖う意味もあった。
つまり、罪の赦しを、お金で買おうとしていた。

それは、現実の生活においては大事なことでは
あるが、人の集まりである家族というものに
とっては、二次的なものであることに
やがて気が付いた。

それからは、日々の生活の些細なことに感謝できる
ようになっていった。
家族そろっての食事、お出かけ、団らん、談笑など
当たり前のことが決して当たり前ではない、
特別なことなのだと実感していけた。

それがゼロからであろうと、いや、マイナスからで
あろうと、ひとつひとつの感謝の積み重ねが、
ひとつひとつの幸せの積み重ねでもあると信ずる。

罪の山を償いによって削っていくのではなく、
罪の穴を埋めていき、やがては感謝の山と
していくことである。

償いとは、他者の喜びの積み重ねに他ならない。





6月1日

2017年05月25日 | ノンジャンル
断酒12年となる6月1日が目前となった。

初夏の暑い日だった。

半袖のワイシャツ姿で、幻覚と闘いながら会社から
クリニックへと足を運んだ。

もう後戻りはできない。仕事も家庭も失い、
命さえも失うか、ともかくも命を拾って、ゼロから、
いや、マイナスからまた始めるか。

結局、ギリギリのところで全てを失わずに済んだ。
失ったのはお金だけであるが、それも二人の
子供たちを大学にやった後にまだ蓄えがある
ほどになった。

12年と言えば長いようであっという間では
あったが、毎年毎年、何もかも投げ出して消えて
しまいたくなる局面も多かった。

それでも、過去を背負い、未来を心配することよりも
ともかく今を、この一瞬を、一日を、できること
精一杯で生きてきた。

それが良かったかどうかは正直分からない。
それでも、これからもそうして生きていく。

生きられるだけ、許されるだけ、限られた命を
自分なりに生きていく。

その原点の地が、ここにあるのだ。





シロツメクサ

2017年05月24日 | ノンジャンル
この花が咲き始めると、梅雨も近い。

どんよりと暗い、じめじめした季節は気分的にも
ブルーになりがちで、好ましくはないが、
それは人間様の勝手である。

この時期に大地は貯められるだけの水を蓄えて、
生命が夏を乗り越えるのを助ける。

むしろ、一年で最も必要不可欠な季節といえる
だろう。

年を取り、ページをめくるのも苦労する乾燥した
身体には、かえって良い季節かもしれない。
自然の潤いに、感謝するべきであろう。

日照りが続けば飢饉となる。
古代より雨乞いは盛んにおこなわれてきた。

シロツメクサが咲くのは、潤いの季節の到来を
告げているのである。

とはいえ、またまた勝手なことを言えば、
洗濯物が乾かないことだけは閉口する。
部屋干しを工夫せねばなるまい。





ひたむきに

2017年05月23日 | ノンジャンル
社内は禁煙である。

嫌煙者からの要望でもなく、会社の方針でもなく、
喫煙者が率先して取り決めたことだ。

海外出張などの折には、丸一日吸えないことも
多いし、禁煙できそうなものなのだが、どうも
仕事の区切りで一服して切り替えるという癖が
ついてしまっている。

まあ、煙草の吸い過ぎで記憶が無くなったり、
頭がおかしくなって罪を犯したという話も
ないので、せめて節煙をと心がけている
程度である。

と、煙草の話ではない。

一服しにテラスへ出ると、街路に立つ電柱の
ボックス脇に、毎年巣作りをして、春から
ヒナを育てる鳥がいる。

スズメより一回り大きいが何という鳥か
わからない。
余談だが、友人に鳥博士がいる。何百種という鳥を
その鳴き声だけで識別できる、いわばバードマン
である。

話を戻すと、その鳥は日が昇り、日が沈むまで
半日、ほとんど休む暇もなく、ヒナにえさを
与え続けている。

親鳥が戻ると、けたたましいほどの鳴き声が
聞こえる。
恐らく4-5羽はいるだろう。

えさを与えてはすぐに飛び立ち、またえさを
咥えて巣に戻る。
本能とはいえ、何とも健気なものである。

自身の種の保存、継承という未来に対する
ひたむきな姿に、感動すら覚える。

中には、子育てを放棄したり、他の鳥の巣で
代わりに育ててもらうものもいるようだが、
人間と変わりないことに失笑を禁じ得ない。

育児だけの人生を否定する者、肯定する者、
いずれでも良いが、この親鳥のひたむきさには
学ぶべきである。

中途半端だから幸せを感じられない。
ひたむきさの中にこそ、幸せというものが
感じられるのである。