ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

闘う意志

2010年03月27日 | ノンジャンル
自分ひとりではやめられない病気である。
医療も根本的な解決にはならない。
抗酒剤も、本人が飲まなければ何の意味もない。

歴史的に見て、AA、断酒会など、自助グループのもととなる、
二人のアル中の出会いが、この病気の回復の糸口となり、
現在に至っている。

自助グループによって断酒ができ、その継続を実行している
例には枚挙に暇がない。
医療がさじを投げた病気である。自助グループの果たす役割は
根本的に重大である。

ただ、自助とは、やはり主体は自分自身であることを意味する。
一人では到底やめられなかった者同志が、少なくともその問題を
自覚し、何とかしたいという思いがあったからこそ、
互いに次に会うときまでは飲まずに会おうという約束を
したのである。

この、次に会うときまでという約束を同じ病気の者同志が
交わしたことが、いわゆる二人の「きっかけ」となったに違いない。
互いに飲まずに、再び会った時の互いの喜びは如何ばかりで
あったろう。

それまで、飲まずに過ごすことがどれほど大変で、苦しかったかを
再会のときに互いにわかちあったに違いない。
そして、また、次に会うときまでは飲まずにという約束を新たに
交わしたはずである。

やめたくてもやめられない、だがなんとかしたい、
なんとかしよう。
この思いがある限り、いつかそのきっかけは来るだろう。
そのときまで、命が続くかどうかは、その人による。

お酒をやめている人が集まるのが自助グループではない。
なんとかしたい、やめたい、お酒の害から解放されたい。
その思いがあれば誰でも参加できる場である。

残念ながら、自ら自助グループに参加する人は少ない。
家族の勧めや、保健所、医療の勧めにより自助グループに
繋がったというケースが多い。

やめられないお酒をやめる場であり、やめ続ける場である。
そこには、どんな状況であれ、自らの「やめたい」がなければ
断酒も継続もかなわない。

無理矢理に本人を連れて行ったところで、本人にその気が
なければまるで意味がない。
けれども、たとえ無理矢理でも、その中で「気付き」を得る
場合もある。やめられない病気であることの認識である。
そして、やめることができるという実感である。

ひとりではやめられない病気であるけれども、回復の鍵は
本人のやめたい、やめようという意志であるという点が
非常に矛盾しているかのようで難しい。
病気であることがわかっても、それを治そうという意志が
本人になければ、回復への道はありえない。

私は病気であることを自ら知って、限界ぎりぎりのところで
病院へ駆け込んだ。そこで病識を深め、自ら断酒を決意した。
自助グループには参加していないが、私なりの認識と覚悟を
新たにする行動と、対処を講じ続けて今のところ継続できている。

だが、それもやはり私の場合という一例であって、
一例に過ぎない。
断酒仲間、医療、自助グループなど、自分のやめたい意志を
具体化していくきっかけとなる繋がりが、そこにあればよい。
そのきっかけや、気付きがどういう時期にどういう形で現れる
かは、やはりその人それぞれなのである。

一年以上の断酒へと軌道に乗っていく人は、
全体の二割未満である。
あくまでも本人次第であることがよくわかる。
早くそのきっかけや、気付きがあれよと願うのは
人情だが、こればかりはやはりその人次第である。

周りや家族に病識がなければ、その人のためと思って
していることがかえってその病気を進行させて
しまうことにもなる。
看病すればするほど、病気が悪くなるという厄介な
ものなのである。

自身の病気を知り、その病気と闘う意志を維持、
持続させてきた中で、内へ向けていた視点を、
外に向けることも経験することができた。

結論はやはり、本人次第であり、本人に病気と闘う
意志がなければ、たとえ家族であろうと、医療であろうと、
自助グループであろうと、できることは何もない
ということである。

私自身、今後そういった依存症であることが明らかな人に
関わることがあれば、専門病院を紹介し、自助グループを
紹介し、最低でも病気であるということと、その知識を
提供することぐらいしかできないし、それで十分とも
考えている。

そこからは、その人自身の問題であり、私や周りがどうこう
することでも、できることでもない。
もちろん、やめる意志があって、やめようとしていく中での
苦しみや、闘う辛さをわけあうことはできる。
自分の経験が役に立つ場合もあるだろう。

共に闘うなら、いつでも手を差し延べよう。
そして時には手を貸して欲しい。

闘う意志のないものをどうにかできる力はない。
やめているか、やめられないでいるかの問題ではない。
闘うのか、諦めるのかの問題なのである。