ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

わかっちゃいるけど

2008年02月27日 | ノンジャンル
昔の歌ではないが、わかっていてもやめられない事は
往々にしてある。

頭では理解していて、どちらが善策か判断できていたとしても、
実際の行動というものはなかなかその判断どおりにはいかない。
こうした方が良いという事をどんどん実行していけばよいのだが、
そこに心情的なものや、衝動的なものが作用して、実行できな
かったり、まったく異なる行動へと駆り立てられたりする。

ましてや、お酒となるとその判断自体が狂わされてしまうの
だから性質が悪い。
ついつい飲みすぎ、そのときがよければ後のことはどうでもよく
なってしまうという事を繰り返して、この病気に至った人も
多いであろう。

そのわかっちゃいるけどやめられない、最たるものをやめようと
いうのが断酒である。
素面でもなかなか思うとおりにいつも動けるわけではないのに、
アルコールで害された頭で、思うとおりにいくわけがない。
それでは断酒など到底無理ではないかということになるが、
現実は無理であると言っても過言ではない。

依存症者の何割かが専門医療につながり、その内の何割かが
断酒継続に成功するのだが、再飲酒することなくそのまま
死ぬまで継続していく人は、全体から見れば微々たる割合に
過ぎないのである。

私の初診の頃に一緒だった若い人は、当時すでに再飲酒で
苦しんだ後、病院へまたつながったようであったが、
私の知る限りにおいてもこの3年足らずの間に幾度か
スリップをしている。

彼は、こと依存症に関する知識は豊富で、断酒に関する
心構えも誠実かつ実直で、通院、自助グループ、抗酒剤の
3本柱はもとより、4本5本と、自らの断酒の柱を積極的に
模索し、構築していこうとしているかに見えた。

つい最近、彼を見かけたときは、病院の処置室で抗酒剤を
飲むのに、手は振るえ、目はうつろで、処置も点滴を必要と
していたところから、スリップしてしまったことは
明らかであった。

これほどの人がどうしてと疑問に思う人も多いのであろうが、
私は至極当然のこととして受け止めている。

彼は、わかりすぎるほどわかってはいるのだ。でも、問題は、
わかることだけではなく、わかっていて止められない事をどう
自分自身で受け止めるかなのである。

この病気のことを、ハイわかりましたといって、そのとおりに
断酒できるなら、何も苦労はない。
では、彼と断酒を継続している人との間の決定的な違いは何か?
それは、欲張らないことである。
お酒をやめて、清く正しく生きていかねばならないなどと、
初めからできもしないことを頭だけで考えて、「ねばならない」
の我慢の断酒であれば、先の破綻は目に見えている。

人間、「これだけは」と心に固く決意し、何がどうであれ、
それを守り抜くというものは、一つでいいのである。
それを2つも3つもと欲張るから、それぞれが希薄になって
しまって、ちょっとした綻びから全部が破綻することになる。

いくら頭でわかっていても、何ともできないのが人の心と
悟れば、自分のそんな頼りない心を当てにしたところで詮がない。
一つでいいから、そんな心をも律するぐらいの決定されたことを
自分自身に課すべきである。

やがて、その決せられたことが、「これだけは」から、
ごく普通の、自身にとって自然なこととなる。
そのときに、新たに「これだけは」を課していけばよい。

いくら欲張ったところで、いっぺんに頬張れるわけではない。
一口一口食べることしかできないではないか。
我々の歩みも、一歩一歩であり、一日一日であり、一つ一つ
なのである。
お酒を飲んで豹変する人は数多く見かけるが、お酒をやめて、
生まれ変わったように善人になったという人を見たことがない。

断酒して、変身するわけではない。
断酒を継続して、徐々に変わっていくのである。

そのために、断酒というものが自身にとっての「これだけは」
でなければならない。

「ねばならない」の断酒は、どこかに我慢があって、
なかなか続かないものである。


断酒疲れ

2008年02月23日 | ノンジャンル
年が明けて一月は、まあローギアでゆっくりとスタートと考えて
いたのだが、実際は韓国への慰安旅行という大きな山を越えてから
このかた、娘の受験というこれまた大きな山を挟んで、接待、
出張がひっきりなしで、2月を終えようとしている。

まだ残り1週間ほどあるが、これも同じ様な忙しい週となりそうだ。
こう立て続けに緊張と安堵の極端な繰り返しが重なると、
一々飲まない気合をいれること自体が疲れてくる。

気合をいれてはお酒の場に臨み、無事に過ごしてはホッと安堵する。
これをひっきりなしに繰り返していると、疲れが蓄積されてしまう。
ある意味、断酒疲れともいえる状況の中で感じた事は、取り立てて
気合をいれながら断酒、断酒と意識せずとも、飲まない事が普通と
いうか、あたかも、もともと飲めない体質であるかのようになって
きたという事である。

万が一という事故だけは気を付けなければならないが、断酒という、
何となく気負ったものから、飲めないから普通に飲まないという、
どちらかといえば自然な感覚になってきている。

これは、ある意味、断酒の原点の風化かとも疑ってみたが、どうやら
そうではないようだ。

うまく言えないが、例えば、亡くなった母親のことを一日たりとも
忘れる事は無いし、毎日仏前で香をあげる。
だが、この頃では殆んど母親の事を夢で見る事はなくなった。

一日断酒はもちろんの事であるのだが、日々気合をいれるという
ことは無い。抗酒剤も、家では服用していないし、それを服用して、
今日も一日飲まずに過ごそうと、気合を入れることも無い。

なかなか今の心境を表現するのは難しいのだが、飲まない事は、
仏前で香をあげることに近く、断酒という事については、夢を
見なくなった事に近くなっている。

取り立てて断酒、断酒ということではなくて、飲まないのが普通で
あり、自分の自然体であるかのような心境なのである。

これでもかというくらい、お酒の場、危険な状況に置かれ続けて、
重なる疲労の中で感じた事なので、逆にいえばその中で苦しみ
抜いてきた後の心境の変化かとも考えている。

3年という節目は、こういう変化をもたらすのかも知れない。
いかなる場で、いかなる状況においても、「飲みたい」は無く、
「飲めたらなぁ」も影薄くなり、飲まないのが本来の自分のような、
繕わない自然な心境になってきているようである。

やはり、言葉で表すには難しい心境のようである。


 

家族の顔

2008年02月16日 | ノンジャンル
毎週土曜日は、院内での家族ミーティングがある。

殆んどが酒害者本人の奥様達なのだが、ミーティングが終わって
会場から出てこられる姿は、皆明るくて、陽気である。

普通の人には想像もつかないような辛酸をなめてきたはずで
あるが、今、ご主人と自身の回復の途上にある中、
ミーティングを終えられた後は、清々しい表情をされている。

それでも、やはり酒害の傷跡はその表情に深く刻まれている。
永年に渡り、繰り返し繰り返し味わった苦労、絶望、あきらめ、
虚無感は、しっかりと積み重ねられて、表情に浮かんでいる。

そんな過去の疲れが刻まれた表情を目にするたびに、申し訳ない
事ではあるが、カミサンや子供達に暗い傷痕を残す事が無かった
ことに、心から安堵するのである。

弾けるような家族の明るい表情に、本当に心癒される毎日を
感謝してやまない。
暗い傷痕は、それを毎日見る本人にとっても、辛く、
居たたまれないものであろう事を考えると、よくぞあの時期に
断酒へと向かう事が出来たものと、改めて不思議に思うと
同時に、その向かわせてくれたもの全てに感謝しているのである。




疲れの怖さ

2008年02月14日 | ノンジャンル
魔が差すというのは、危険な状況におかれた時よりも、安堵した時、
嬉しさに包まれた時の方が危ない。

それを解っているつもりで、気持を引き締めていたのだが、すぐに
今度は危険な状態に突入した。

この極端な状況の変化はあまり経験の無い疲労を感じさせた。
それぞれが別々なり、間にある程度の時間差があるといいのだが、
連続している中での状況の激変はかなり厳しい。

受験もおわり、吉報を得て、やれやれと思っているのもつかの間、
早朝の移動、込み入った会議、しかも海外のお客様とあって、
通訳する分、普段の倍以上忙しくなる。
長い一日を終えると、深夜まで接待。
またあくる日は早朝からの移動。。。と、細切れにしか眠れず、
疲労困憊であった。

こういった激変と、心身共の疲れは、正常な思考に時折
支障をきたす。
これは、結構危ない状況だなと改めて認識した。
規則正しい生活リズムは、健全?な断酒継続には非常に重要で
ある事を痛感した。

時には不規則となる場合もあるだろうが、基本の生活が規則的で
あれば一時的なものとして、さほど影響は無い。しかし、今回の
ように、短期的、集中的に疲れを蓄積させるような場合は、
特に警戒が必要であろう。

ということで、今日はゆっくり寝みます。



桜舞う

2008年02月11日 | ノンジャンル
今日、結果発表でした。

昨日、気を揉みながらも忙しい一日を過ごし、疲れて
いたのですがなんとなく寝付けずに夜更かしをして
しまいました。

娘もあまり眠れなかったようです。
朝早くから起きて、合否通知の到着を今か今かと待って
いましたが、お昼近くになってようやく到着。
自分でまず開封して、確認していましたが、見事合格でした。

本人は希望する進路でしたので、大喜びです。私はというと、
嬉しいのもさることながら、正直、ほっと安堵したというのが
本音です。

将来は体育の教師になりたいと望む娘に、中学で体育の教師
でもある担任の先生が、是非ともこの高校にと勧めてくださった
ところなのですが、私立なので学費も嵩み、難色を呈して
いたところ、特待生扱いで公立並みの学費で済むからと、
なおも強く勧めて頂き、今回の受験となりました。

本当にお世話になったことを、娘もしっかりと胸に刻んで
欲しいと思います。

合格したことで十分なのですが、通知の中身をよく見ると、
成績優秀故、学費の全額免除が決定したとのこと。
当初は、公立並みに減額ということだったのですが、思いも
かけないことに驚きました。親孝行な娘です。

わが子の自慢は、自分の胸に留めておくべきで、わざわざ
人に対してすることではないと今でも思いますが、今日だけは
この場で自慢したいと思います。

決してずば抜けて成績が良いわけではありません。
素直にまっすぐ成長してきてくれたその姿を、人に認めて
もらえることは本当に嬉しく、ありがたいことなのです。

以前なら、すぐに祝杯をとなるところですが、いやいや、
飲まずに来たからこそ、今日の良き日を迎えることが出来た
という喜びがひしひしと胸に迫るようです。

今日をまたスタートとして、一日一日を精一杯頑張っていって
もらいたいと思うと同時に、自分自身もそのつもりで、
気持ちも新たに頑張りたいと思います。

3年間、よく頑張ってきたと思います。
桜舞う中で、また新たな一歩を踏み出す娘の笑顔が
目に浮かびます。

おめでとう。よく頑張りました。そして、ありがとう。