昔の歌ではないが、わかっていてもやめられない事は
往々にしてある。
頭では理解していて、どちらが善策か判断できていたとしても、
実際の行動というものはなかなかその判断どおりにはいかない。
こうした方が良いという事をどんどん実行していけばよいのだが、
そこに心情的なものや、衝動的なものが作用して、実行できな
かったり、まったく異なる行動へと駆り立てられたりする。
ましてや、お酒となるとその判断自体が狂わされてしまうの
だから性質が悪い。
ついつい飲みすぎ、そのときがよければ後のことはどうでもよく
なってしまうという事を繰り返して、この病気に至った人も
多いであろう。
そのわかっちゃいるけどやめられない、最たるものをやめようと
いうのが断酒である。
素面でもなかなか思うとおりにいつも動けるわけではないのに、
アルコールで害された頭で、思うとおりにいくわけがない。
それでは断酒など到底無理ではないかということになるが、
現実は無理であると言っても過言ではない。
依存症者の何割かが専門医療につながり、その内の何割かが
断酒継続に成功するのだが、再飲酒することなくそのまま
死ぬまで継続していく人は、全体から見れば微々たる割合に
過ぎないのである。
私の初診の頃に一緒だった若い人は、当時すでに再飲酒で
苦しんだ後、病院へまたつながったようであったが、
私の知る限りにおいてもこの3年足らずの間に幾度か
スリップをしている。
彼は、こと依存症に関する知識は豊富で、断酒に関する
心構えも誠実かつ実直で、通院、自助グループ、抗酒剤の
3本柱はもとより、4本5本と、自らの断酒の柱を積極的に
模索し、構築していこうとしているかに見えた。
つい最近、彼を見かけたときは、病院の処置室で抗酒剤を
飲むのに、手は振るえ、目はうつろで、処置も点滴を必要と
していたところから、スリップしてしまったことは
明らかであった。
これほどの人がどうしてと疑問に思う人も多いのであろうが、
私は至極当然のこととして受け止めている。
彼は、わかりすぎるほどわかってはいるのだ。でも、問題は、
わかることだけではなく、わかっていて止められない事をどう
自分自身で受け止めるかなのである。
この病気のことを、ハイわかりましたといって、そのとおりに
断酒できるなら、何も苦労はない。
では、彼と断酒を継続している人との間の決定的な違いは何か?
それは、欲張らないことである。
お酒をやめて、清く正しく生きていかねばならないなどと、
初めからできもしないことを頭だけで考えて、「ねばならない」
の我慢の断酒であれば、先の破綻は目に見えている。
人間、「これだけは」と心に固く決意し、何がどうであれ、
それを守り抜くというものは、一つでいいのである。
それを2つも3つもと欲張るから、それぞれが希薄になって
しまって、ちょっとした綻びから全部が破綻することになる。
いくら頭でわかっていても、何ともできないのが人の心と
悟れば、自分のそんな頼りない心を当てにしたところで詮がない。
一つでいいから、そんな心をも律するぐらいの決定されたことを
自分自身に課すべきである。
やがて、その決せられたことが、「これだけは」から、
ごく普通の、自身にとって自然なこととなる。
そのときに、新たに「これだけは」を課していけばよい。
いくら欲張ったところで、いっぺんに頬張れるわけではない。
一口一口食べることしかできないではないか。
我々の歩みも、一歩一歩であり、一日一日であり、一つ一つ
なのである。
お酒を飲んで豹変する人は数多く見かけるが、お酒をやめて、
生まれ変わったように善人になったという人を見たことがない。
断酒して、変身するわけではない。
断酒を継続して、徐々に変わっていくのである。
そのために、断酒というものが自身にとっての「これだけは」
でなければならない。
「ねばならない」の断酒は、どこかに我慢があって、
なかなか続かないものである。
往々にしてある。
頭では理解していて、どちらが善策か判断できていたとしても、
実際の行動というものはなかなかその判断どおりにはいかない。
こうした方が良いという事をどんどん実行していけばよいのだが、
そこに心情的なものや、衝動的なものが作用して、実行できな
かったり、まったく異なる行動へと駆り立てられたりする。
ましてや、お酒となるとその判断自体が狂わされてしまうの
だから性質が悪い。
ついつい飲みすぎ、そのときがよければ後のことはどうでもよく
なってしまうという事を繰り返して、この病気に至った人も
多いであろう。
そのわかっちゃいるけどやめられない、最たるものをやめようと
いうのが断酒である。
素面でもなかなか思うとおりにいつも動けるわけではないのに、
アルコールで害された頭で、思うとおりにいくわけがない。
それでは断酒など到底無理ではないかということになるが、
現実は無理であると言っても過言ではない。
依存症者の何割かが専門医療につながり、その内の何割かが
断酒継続に成功するのだが、再飲酒することなくそのまま
死ぬまで継続していく人は、全体から見れば微々たる割合に
過ぎないのである。
私の初診の頃に一緒だった若い人は、当時すでに再飲酒で
苦しんだ後、病院へまたつながったようであったが、
私の知る限りにおいてもこの3年足らずの間に幾度か
スリップをしている。
彼は、こと依存症に関する知識は豊富で、断酒に関する
心構えも誠実かつ実直で、通院、自助グループ、抗酒剤の
3本柱はもとより、4本5本と、自らの断酒の柱を積極的に
模索し、構築していこうとしているかに見えた。
つい最近、彼を見かけたときは、病院の処置室で抗酒剤を
飲むのに、手は振るえ、目はうつろで、処置も点滴を必要と
していたところから、スリップしてしまったことは
明らかであった。
これほどの人がどうしてと疑問に思う人も多いのであろうが、
私は至極当然のこととして受け止めている。
彼は、わかりすぎるほどわかってはいるのだ。でも、問題は、
わかることだけではなく、わかっていて止められない事をどう
自分自身で受け止めるかなのである。
この病気のことを、ハイわかりましたといって、そのとおりに
断酒できるなら、何も苦労はない。
では、彼と断酒を継続している人との間の決定的な違いは何か?
それは、欲張らないことである。
お酒をやめて、清く正しく生きていかねばならないなどと、
初めからできもしないことを頭だけで考えて、「ねばならない」
の我慢の断酒であれば、先の破綻は目に見えている。
人間、「これだけは」と心に固く決意し、何がどうであれ、
それを守り抜くというものは、一つでいいのである。
それを2つも3つもと欲張るから、それぞれが希薄になって
しまって、ちょっとした綻びから全部が破綻することになる。
いくら頭でわかっていても、何ともできないのが人の心と
悟れば、自分のそんな頼りない心を当てにしたところで詮がない。
一つでいいから、そんな心をも律するぐらいの決定されたことを
自分自身に課すべきである。
やがて、その決せられたことが、「これだけは」から、
ごく普通の、自身にとって自然なこととなる。
そのときに、新たに「これだけは」を課していけばよい。
いくら欲張ったところで、いっぺんに頬張れるわけではない。
一口一口食べることしかできないではないか。
我々の歩みも、一歩一歩であり、一日一日であり、一つ一つ
なのである。
お酒を飲んで豹変する人は数多く見かけるが、お酒をやめて、
生まれ変わったように善人になったという人を見たことがない。
断酒して、変身するわけではない。
断酒を継続して、徐々に変わっていくのである。
そのために、断酒というものが自身にとっての「これだけは」
でなければならない。
「ねばならない」の断酒は、どこかに我慢があって、
なかなか続かないものである。