ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

手を取る

2020年04月30日 | ノンジャンル
昨年、美容室の会社を辞めた家内だが、その後は
まつ毛のエクステに熱中している。

美容関係の仕事は、いずれも相手の手を取るように
接する仕事である。

現在の状況では、最も自粛せねばならない仕事の
ひとつであろう。

その意味では、昨年のうちに辞めたのは、
幸いであった。

さて、自粛だからといって、じっとはして
いられない彼女の事。
美容関係がだめならと、スーパーのベーカリー
部門に応募して、今月よりパートに出ている。

以前は、人の頭が仕事の対象だったが、今回は
パン生地が対象である。

そんな家内が、面白いことを言っていた。
人の頭というのは、いわば小宇宙であって、
それぞれに個性があるのと同様、それぞれの
心の状態が手から伝わるのだそうだ。

元気をもらう場合もあれば、逆に吸い取られる
場合もある。
一日に何十人と接客する中で、その「伝わる」を
何十回も感じると、仕事終わりには精も魂も
尽き果てるのだそうである。

実際、疲れ果てて帰宅して、そのまま寝てしまう
事も少なくなかった。
それでもなんとか、近くのスーパー銭湯に行っては、
自身の心身のリセットをするよう、努力していた。

それが今では、人の頭ではなく、パン生地である。
ある意味力仕事でもあるが、そんなことは全く
気にならないほど、手が気持ちいいという。

小麦粉をこねていると、それまで感じたことのない、
大地の恵みともいうべきものを感じて、還って
癒されているのだそうだ。

事実、仕事が終わって帰って来る顔は、何かすごく
楽しい事をしてきたような明るい顔である。

人間の神経というのは、手、特に指先にかなりの
割合で集中している。

外出自粛、人に会わない、人と距離を置く。
今必要とされていることは、人と手を取り合う
事をやめるという事である。

感染の拡大よりも、むしろこの手を取り合わない
ということの弊害の方が、将来的には大きくなる
気がしている。

顔を見る、声を聴く、言葉を交わすことよりも、
手を取り合う事で通じることというのは、
あまりにも大きいからである。

私達は、この手を取り合うという最大の
コミュニケーションを喪失してはならない。
大げさな言い方だが、その喪失はつまり、
人が人であることの喪失につながると
危惧するからである。





ソーシャルディスタンス

2020年04月28日 | ノンジャンル
中国の春節、1月の終わり。
これほどの事態になるとは予想していなかったが、
一応の対策準備はしてきた。

社内消毒、マスク確保。

その後は時差出勤、テレビ会議、在宅勤務等。

社内から感染者が出れば大きな影響が出る。
それは心して警戒しなければならないが、
その要は通勤リスクと、各家庭での対策。

社員の家庭にも消毒液、マスク支給により、
感染予防の徹底。

接客販売営業ではないので、物流に対する影響で
事業実績にマイナスはあるものの、明日をも知れぬ
状況ではない。

マスクも、屋外と社内での使用のみなので、
殺菌の上繰り返し使用。

ウォシュレットがあれば、家庭内で用を足せば
仮にトイレットペーパーやティッシュがなくとも
何とでもなる。

テレワークも業種的に定着しているので、さほど
余分な費用も必要ではなく、スムーズに
移行できている。

但し、郵送物、ファックス、貨物の集配等の
必要から、全員在宅とはいかず、市内在住で
車通勤できる私が、常時出勤している。

運動不足になりがちなので、休日は淀川の
堤防をひたすら歩く。

連休など、ここ何年かまともに休んだことは
ないので、もとより予定もなければ、出かける
つもりもない。

出張もなければ、来客もないので、接待もない。
いや、飲食店や飲み屋そのものが閉まっているので
規則正しい、健全な日々を過ごしている。

連日のコロナニュースには辟易していて、
その分、映画や読書に充てる時間が多くなった。

買い物に出れば、一定の距離を空けてレジに並ぶ、
いわゆるソーシャルディスタンスがどこでも
意識されている。

2メートル以上の間を空けてという事らしいが、
これ自体はあまり意味がない。

前にいる人の位置に移動すれば、その距離は
ゼロとなる。仮に感染者がいれば、わざわざ
その位置に自分の身を置くことになる。
自分が感染していれば、その場所に後ろの人が
わざわざ来ることになるのである。

直径4メートルのフラフープの中心にいて、
フラフープごと移動するとすれば、とても
買い物などできない。

自粛自粛とやかましいが、例えばホテルの
一室に閉じ込められ、一歩も外に出られない
というわけではない。

そんな3日と持たないような生活を思えば、
買い物に出たり、散歩にも行ける状況は
御の字である。

家の中では、家族が全員フラフープをもって
距離感の意識をするのも面白い。
いや待て、それより、部屋の中でもできる
本来のフラフープ運動をした方が良さそうである。





ビーナス

2020年04月24日 | ノンジャンル
日が沈み、暗くなった北西の空に光が点々と連なる。

普段なら、あたりまえの風景なのだが、
最近はとんと見ない。

淀川を越えた上空の東から西への航路は、伊丹空港に
着陸する飛行機の列である。

1時間に何便もあるので、上空での飛行機の
行列のような光景が繁忙時間帯は見ることができる。

しかし、もう随分長い事、そうした光の行列を
見ていない。

と、やたらに近い航路を飛ぶ飛行機があるなと
思ったら、それは金星であった。

この時期、宵の明星は最も大きく、輝いて見える。
そんなことも忘れていた。

それにしても、着陸態勢の飛行機のライトが上空に
あるような、バカでかく眩しいほどの光には
驚かされる。

金星とはよく言ったものである。

ローマ神話ではウェヌス、ギリシャ神話では
アフロディーテ、いずれも女神である。

だがそれはあくまでもこの地球から見た
イメージに過ぎない。
その美しさとは裏腹に、惑星としては凄まじい。
地表温度が460度、92気圧、雲層では、
風速毎時360キロという風が吹き荒れている。

現在の地球上の生命体は、ウイルスに至るまで
生存不可能な、死の星でもある。

宵の明星を見上げながら、その輝きに
美と死を垣間見るのである。





給付金

2020年04月22日 | ノンジャンル
コロナ禍において、二転したものの、一律給付により、
迅速な生活支援が行なわれることになった。

その前の基準付き限定給付という事に比べれば、
最もスピード感のある対策と思われる。

いわば、日々血を流し続ける人にとっては
止血となる。止血に時間がかかれば当然死に至る。

しかしながら、相変わらず勘違いをしている
政治家が多い事に辟易する。

国の給付金ということで、給付する側の
上から目線。
元はと言えば、給付される側の血税である。

この未曽有の非常事態において、国民に寄り添う
というなら、自ら血を流さないでは不可能だ。

利益の均等配分は共産主義である。
貢献度に応じた報酬は資本主義である。

そんなイデオロギーを超えた、未来の社会と
いうものを考える機会でもあるかと思う。

より利益を上げたものが、そうでなく苦しむ者と
分け合う事が至極当然の社会。

奪い合えば足りず、分け合えば余る。
その言葉に、平時いくら感動していても、有事には
奪い合ってばかりである。

困っていない人は、給付金を受け取って
寄付しましょうなどと笑止である。
まずは自らが身を切って、苦しむものと
同じ立場に立った上でなければ、上記のような
虚ろな美辞麗句にすぎない。

給付金の元は税金である。
いずれ何がしかの税の形で回収されていくことは
間違いない。

ということで、給付金は受け取り、近い将来の
追加徴収用に置いておくことにする。

意味はある。経済とは、人、モノ、金が動く
ことである。
人が動けない以上、他を動かすしかないのである。





2020年04月20日 | ノンジャンル
4月も後半に入り、今年も3分の1近くが過ぎようと
している。

年明けよりコロナウイルスに翻弄され、日ごと
月ごとにその度合いは増している。

気の早い話だが、毎年公開される今年の一字は、
五輪の「輪」か、成績によっては「金」かと
想像していたが、どうやら「冠」となりそうだ。

コロナの冠である。

コロナと言えば、太陽の光冠をまずイメージするが、
今年以降は、即ウイルスのイメージとなるだろう。

巨大な冠を持つ恒星と、目に見えない冠を持つ
ウイルス。

太陽に近づきすぎれば身を焼き尽くされる。
ウイルスに近づきすぎて感染すれば、命に係わる。

共存というのは、一定の好ましい距離なの
かもしれない。

その距離というものを測り、好ましい距離を知り、
そしてその距離をどう保つのか。

今はそういう時期なのかもしれない。
だが、その好ましい一定の距離で安定するには、
それなりの変動の時間がひつようである。

全国に拡大された緊急事態宣言は、一定の期間に
一応は設定されている。

だが、距離の安定という事になれば、それは
まだまだかなりの日数、月数が必要であると
心しておくべきである。

そのうちなんとかという無責任な楽観論は、
自身の内だけにしておくがよい。

私のような悲観論者は、すでに延期された五輪の
来年開催さえ危ぶんでいるのである。