ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

サムライ

2010年02月28日 | ノンジャンル
ドイツのお客様と各地の取引先を回っていたときは、
会議の連続で、言葉が中心の交流であったが、その後は
一転して、韓国のお客様と共に、現場で機械設備の
輸出手配の段取りを行っていた。

スーツ姿で、ほとんど会議室で過ごした今月前半。
後半は、作業着で現場指揮。
韓国の技術営業の人は、ほとんど日本語も英語も話せない。
図面や現物を前にして、もっぱら身振り手振り、
図解などによるコミュニケーション。

いわば言葉による交流と、現場での行動による交流という、
全く色合いの異なる仕事を連続して行ったわけであるが、
やはり会議よりも、現場の方が私は好きなようである。

事前の現物確認と、打合せのために初めて会った彼が
私に対して持った印象は、信頼に足る人物であるという
ことであったらしい。
照れ臭いが、私の目を非常に気に入ってくれたらしい。

大きな問題をクリアした日の夜、韓国クラブで飲んで
いるときに、お店の女の子を通訳として多くのことを
私に話してくれた。

現場で起こる様々な問題に、彼に対しては常に笑顔で
接しながら、現場での指揮は厳しく、解決策を次々に打って
試行錯誤しながら、最終的に解決していくその姿に非常な
感銘を受けたこと。

あれこれと愚癡や文句や弁解や無為な言葉を弄せず、
寡黙に対応策を熟慮し、案が出れば即座に実行に移し、
それが駄目ならまた別の案をと、間髪入れない対応に
学ぶところが大であったと話しをしてくれた。

私も初めから、彼の韓国人にしては珍しいともいえる
謙虚さと、忍耐強さと、寛大さ、物腰の柔らかさに好感を
抱いていた。その夜、彼の想いを聞いて、ますます
仲間としての意識が共に高まった。

一時はスケジュール自体を白紙に戻さねばならないほどの
危機に直面したが、共に死に物狂いでの努力で何とか
予定通りに事が進むこととなった。

彼が今回私を通じて覚えた日本語で、最もお気に入りは
「いろいろ」である。
いろいろ考えて、いろいろとやってみて、それが駄目なら、
またいろいろ考える。つまり諦めないということである。

今回の仕事で、非常に多くのことを謙虚さを持つ彼は学び、
韓国に持ち帰ったことであろう。
私もまた、やはり大切なのは人であることを改めて
学ばせてもらった。

私の現場での仕事ぶりを常に見てきた彼が私に贈った言葉は、
「サムライ」であった。過分な言葉ではあるが、光栄である。

士は己を知る者のためにこそ死す。

文字通り、危険な現場、昼も夜もなく神経を研ぎ澄ました
業務、対策、実行、対応。。。
本当に死に物狂いであったが、全てが無事に終わったあと、
二人の間には真の信頼関係が出来上がっていた。

本当に嬉しいことであり、痺れるような疲れが全身に
満ちている中、何ともいえぬ爽快感に包まれた。

「たくさんの、カムサハムニダ」

彼は、満面の笑顔で私に言った。
こちらこそ、本当に、たくさんのありがとう。

別れの時、彼は再び私に言った。
「こんど、いつ、あえますか ?」
まるで長年の親しい友人との別れのようである。

「次は、私が韓国へ行きます。韓国でお会いしましょう。」
彼の最高の笑顔が返ってきた。
固く両手を握り締めながら、最後の挨拶をして
彼を見送った。

男たるもの同士のかかわりは、こうありたいものである。
そこに爽やかな風が吹き抜けるような、
そんな交わりでありたいと思うのである。






勝負の世界

2010年02月27日 | ノンジャンル
勝負の世界というのは厳しい。

いかに努力し、どんな想いで、その勝負の時を迎えたかを
百万言を尽くしたところで負ければそれまでである。
勝つか負けるか。結果がすべてなのである。

これは何も競技や武道、戦闘の世界だけの話ではない。
日常のごくありふれた生活の中にも、勝負という
ものはある。

朝起きて、仕事に行く気がしない。一日休もうか、
いや、しっかりと自分の為すべき事をしようと
無理にでも起き出す。これは勝ちである。

勝って、一日を終えた人には、充実感と爽快感がある。
負けて一日を無為に過ごせば、他でもない、自身を
苦しめることになる。

この、自分との闘いの結果というものは、誰を
ごまかせても、自分自身をごまかすことも
偽ることもできない。

勝ったのか負けたのかは、非情なまでに自身のうちに
明らかなのである。

どれほど周りに慰められようと、自分に弁解しようと、
勝ったのか、負けたのかは自分自身が一番わかっている。
勝負事には、時の運もある。だが、赤裸々な自分自身の
勝負に勝ったのなら、そこには爽快感があるのである。

フィギュアの銀メダル。大したものではないか。
若干19歳。まだまだ彼女のこれからの未来は明るい。

期待していた周りは、金でなければ負けも同然という
本音を押し殺して、銀を喜ぶ。よくやったと賞賛し、
未来へと期待を繋げる。

彼女にすれば、応援はありがたいであろうけれど、
今回、悔いとして残ったのは、本番での瞬間的な
自分との闘いに負けたというより、咄嗟に闘いを
避けたところにあるのかもしれない。

彼女の涙や表情を見ていて思ったのだが、
足が引っ掛かった次の瞬間、彼女は跳びたかった
はずである。
だが、その一瞬の自身との闘いを避けてしまった事に
大きな後悔があるのだと思う。

精一杯の自分を!という気持ちに溢れているはずの
彼女が、あの大きな舞台で、大きな期待を肩に
負っている中、メダルさえ取れない事態になったら
という想いが無意識に恐れとなって、跳べなかった。

つまり、あの一瞬、挑戦ではなく守ろうとした
自分がいたのである。
仮に転倒したとしても、あの一瞬に跳べたなら、
彼女の表情はまるで違うものとなっていたに違いない。

誰に言われなくとも、彼女自身があの一瞬の自身を
決して忘れないであろう。
そして、それが、今後、彼女を更に飛躍させていく
大きな原動力ともなっていく。

頂点の金がゴールとなってしまっては、何よりも
本人にとってかえってマイナスである。

金を目指し、何より自身との闘いを制する精神を鍛え、
いつか頂点に立った後も、柔ちゃんのように、浅田で金、
○○でも金、そしてママでも金と、夢を繋いでいって
もらいたい。

未来に輝く笑顔を、いつかまた見る事が出来るのを、
心から楽しみにしている。




かかわりあい

2010年02月24日 | ノンジャンル
人は、人とのかかわりの中でしか生きていけない。

そのかかわりが常に良いものであれば、無心に乳を吸う
嬰児のようにすくすくと成長できるであろうが、何につけ、
善もあれば悪もある。 

正があれば負があり、浄があれば穢があるのと同じで、
かかわりというものも、常に良い人とのものでは
あるべくもない。

頼りないものでも、しっかりとした人とかかわれば、
しっかりとしてくる。
しっかりしたものでも、いい加減なものとかかわれば
堕落する。

かかわりというものは、その人の成長に直接的に影響する。

ある面で、自分より優れている人とかかわれば、成長があり、
またある面で、自分より劣る人とかかわれば、停滞がある。
常に何かの面で目標とできる人とかかわっていくことが、
自身の成長にはもっとも有効である。

朱に交われば赤くなるとはよく言ったものである。

ところで、このかかわりというのはその人の姿勢で随分と
異なるものとなる。

例えば、自分の目標とできる人とのかかわりにおいて、
自身の努力もなく、その人と交わっていることだけで
満足していれば成長はない。

逆に、目標とされる側に立てば、プライドを満足させる
ことはできるかもしれないが、相手より得る物が少ないと
見れば、やはりその人の成長はない。

手本や目標としてかかわる場合には、自らの努力を忘れては
ならないし、目標とされるなら、相手に対し真摯な謙虚さを
もって、自身の糧とするべきである。

つまり、かかわる相手がどういう人かが問題ではなく、
自分がどうかかわっていくのか、あるいは、そのかかわり
において、自身がそれをどうとらえ、成長の糧として
いくのかが問題なのである。

かかわりによって、変わる自分を期待する、朱に交われば
ではなくて、かかわりをきっかけとして、成長していく
青は藍より出て藍よりも青しで生きたいものである。




リラックス

2010年02月23日 | ノンジャンル
2月に入って、わかっていたことではあるが殺人的な
忙しさに翻弄されつつある。

今日あたりが疲れも仕事の山もピークとなっているが、
何とか乗り切れそうである。

忙しい朝には、悠長に歯を磨いていられないのだが、
歯科医で繰り返し教えられたブラッシング法を、一日の
終わりの入浴時には心がけている。

ブラシを歯と歯ぐきの境目にあて、ほとんどその位置から
ブラシを動かさないように、小刻みに一本ずつという感じで
歯を磨いていく。

ゴシゴシ力を入れて磨かないとさっぱりした気がしない
私には、何とも物足りない磨き方なのだが、実際は
その方が歯垢がよく落ちているのが、磨いた後に
よくわかる。

だが、この磨き方はかなり時間がかかる。そのことにも
忍耐がいる。自分で歯の一本一本を意識しながら磨けば、
ゆうに15分はかかる。歯磨きにそんなに時間を
かけていられない。

だが、一日の終わりの入浴時、最後に歯を磨く私は、
湯船につかりながら、このブラッシング法で磨いている。
意識は歯にいっているのだが、このブラッシング法は、
口の中のマッサージともいえる。

別に急いでいるわけでもなし、温まりながら歯を
磨いていると、非常に身体がリラックスしてくるのが
わかる。当然、15分も浸かっていれば、滝のように
汗が流れ、口内も気分もすっきりする。

疲れているときでも、何とも爽快な気分となって、
寝床に着くころには、いつ寝入ったかも知れぬほど
すぐに眠れる。

この深い眠りが、さわやかな朝につながり、また一日を
頑張れるのであるから、そのリラックス効果はかなり高い。

湯船につかりながら、時間をかけて丁寧に歯を磨く。
なかなか寝付けない人、眠りの浅い人などにはお勧め
かもしれない。

是非お試しあれ。 





いつの日か

2010年02月21日 | ノンジャンル
人が本気となって断を決する時には、その人なりの
本気を引き出すきっかけが要る。

それは、他人から見れば些細なことかもしれないし、
逆に重大と思えることでも、その人にとっては
きっかけとなりえなかったケースも多いであろう。

断酒についても同じことで、人の死に直面したり、
自分の死の境を垣間見たりだとか、重大なことであれば
あるほど、大きなきっかけとなるはずだと考えがちだが、
実はそうではない。

全体の患者の二割ほどが医療につながり、そのうちの
約二割が継続の軌道に乗るという希少さである。

家族、仕事、健康と全てを失ってもそれが本気への
きっかけとならない場合もあれば、それ以前の段階で
些細なきっかけで不可能ともいえる断酒を実現している
ものもいる。

繰り返し述べてきたことだが、やはりその人その人
次第であり、その人の決断となるきっかけも様々である。

医療につながること自体が稀有であり、仮につながっても
入退院を繰り返したり、再飲酒を繰り返したりという話は
枚挙に暇がない。

それが、通院であれ、入院であれ、自助グループであれ、
その人にとってのきっかけというのは、その人によって
異なるわけであるから、通院で断酒を継続していようが、
入院経験があって初めて継続できるようになっただとか、
自助グループに通うことが本気のきっかけとなった
だとかは、むしろ問題ではない。

問題は、そのきっかけが訪れた時に、手遅れとなって
いないかどうかなのである。
現実に断酒を継続していても、その人によっては短命と
なってしまうことも多い。
まして、断酒に至らないで命を落とす人のなんと
多いことであろうか。

いつの日か、本気へとつながる自分自身のきっかけが、
手遅れとなる前に訪れることを願ってやまない。
それはその人のきっかけであって、断酒の決断に至る
過程はどうでもよい。

そのきっかけを己の原点と見るなら、それをゆるがせに
してはならない。原点復帰が継続には必須である。

とはいえ、再び繰り返すが、本人次第であることに
変わりはない。
周りにすれば、その本人にとってのきっかけが早く
訪れることを祈るのみである。

その人の代わりにトイレに行ってあげることはできない。
行ったところで意味もない。
自分で立って、用を足しにいく。そこから何かが
始まるのである。