この病気は、「否認の病気」と言われる。
これが一番、他の病気と異なる点だと思うのだが、
要するに、病気であることを認めようとしないのである。
風邪をひけば、喉の痛み、咳や鼻水、発熱など自覚症状が
如実にあらわれ、誰もが自分が風邪という病気にかかった
ことを素直に認め、薬を飲んだり、病院へ行ったりする。
アルコール依存症の場合は、自覚症状どころか、他人から
見ても明らかに異常な状態にあっても、本人は頑として
自身がその病気であることを認めようとしない。
それはつまり、認めればお酒を飲めなくなってしまう
という恐怖が、否認の根本にあるのだが、家族も周りも
巻き込んで酒害をまき散らしている状態よりも、
飲めなくなることの恐怖の方が大きいという時点で
すでに立派な罹患者なのである。
かろうじて残されている理性が、飲まずにはいられない
自分自身を微力ながらも責め続ける。
その責めから逃れるためにまた飲むというケースも
多いだろう。
否認は自己憐憫を伴う。それは自分の周り全てに対する
否定となり、同時に自分自身をも否定することになる。
ようやく病気であることを認め、その病気をよく識る
という段階になって、一見、否認から脱却したかに
見えたとしても、実はその否認が、否定へと移行している
ことも多い。
お酒を飲めなくなるという恐怖からは解放されたかに見えて、
理性の働きが強まってくると、過去の記憶から新たな恐怖が
生じる。自分自身の存在意義ともいうべき恐怖感である。
この世に自分は必要とされているのか、いてもいなくても
同じではないのか、いや、むしろいない方がいいのではないか。
この恐怖は、むしろお酒を飲めなくなると思った時に
感じた恐怖よりも、理性的、客観的な面がある分、より大きい。
よって、その恐怖感を刺激される場面、具体的には自身に
対する批評、非難、中傷に対しては過度の反応をする。
あるいは思い出したくもない過去の自分を見せつけられる
ような場面においても同様である。
その恐怖心は、ともかく自分自身を否定されないように
防御する方向に異常なまでのエネルギーを費やす。
外的な攻撃に対して身を守るのは当然かもしれないが、
その攻撃に対する恐怖心があまりに大きいと、
窮鼠猫をかむ式の、先制攻撃を仕掛ける。
断酒をしている本人の家族が、その本人を腫物のように
扱うケースは、その典型例であろう。
自分が批判される前に他を批判し、
自分が非難される前に他を非難するのは、相変わらず
根付いている恐怖心に駆り立てられているのだ。
家族が、こんなことなら飲んだくれていた方がましと
思うのもこのパターンである。
これは本人の根本的な問題であるがゆえに、断酒している
していないは、極論すれば関係がない。
否認にせよ、自己憐憫にせよ、否定にせよ、その根本が
恐怖であるなら、それを様々な場面でひとつひとつ
克服していくしかない。
本人にとっては、最も苦しく、辛い事なのだが、
ありのままの自分を認めて、そこから、何をどうして
いくのかを決め、勇気を奮い起こして行動に移す。
これを繰り返していくしかない。
そこには、本人にとっては想像を絶する忍耐がいるが、
その積み重ねの中で、消えることはなくとも恐怖は
小さくなっていく。
認めるという字にも忍の一字が含まれている。
認める、識るという苦しみを避けることのない、忍耐の
勇気をもってまた日々を重ねていきたい。
そこにこそ、真の意味での肯定ということが可能であろうし、
何よりそれは大きな喜びとなるのである。
これが一番、他の病気と異なる点だと思うのだが、
要するに、病気であることを認めようとしないのである。
風邪をひけば、喉の痛み、咳や鼻水、発熱など自覚症状が
如実にあらわれ、誰もが自分が風邪という病気にかかった
ことを素直に認め、薬を飲んだり、病院へ行ったりする。
アルコール依存症の場合は、自覚症状どころか、他人から
見ても明らかに異常な状態にあっても、本人は頑として
自身がその病気であることを認めようとしない。
それはつまり、認めればお酒を飲めなくなってしまう
という恐怖が、否認の根本にあるのだが、家族も周りも
巻き込んで酒害をまき散らしている状態よりも、
飲めなくなることの恐怖の方が大きいという時点で
すでに立派な罹患者なのである。
かろうじて残されている理性が、飲まずにはいられない
自分自身を微力ながらも責め続ける。
その責めから逃れるためにまた飲むというケースも
多いだろう。
否認は自己憐憫を伴う。それは自分の周り全てに対する
否定となり、同時に自分自身をも否定することになる。
ようやく病気であることを認め、その病気をよく識る
という段階になって、一見、否認から脱却したかに
見えたとしても、実はその否認が、否定へと移行している
ことも多い。
お酒を飲めなくなるという恐怖からは解放されたかに見えて、
理性の働きが強まってくると、過去の記憶から新たな恐怖が
生じる。自分自身の存在意義ともいうべき恐怖感である。
この世に自分は必要とされているのか、いてもいなくても
同じではないのか、いや、むしろいない方がいいのではないか。
この恐怖は、むしろお酒を飲めなくなると思った時に
感じた恐怖よりも、理性的、客観的な面がある分、より大きい。
よって、その恐怖感を刺激される場面、具体的には自身に
対する批評、非難、中傷に対しては過度の反応をする。
あるいは思い出したくもない過去の自分を見せつけられる
ような場面においても同様である。
その恐怖心は、ともかく自分自身を否定されないように
防御する方向に異常なまでのエネルギーを費やす。
外的な攻撃に対して身を守るのは当然かもしれないが、
その攻撃に対する恐怖心があまりに大きいと、
窮鼠猫をかむ式の、先制攻撃を仕掛ける。
断酒をしている本人の家族が、その本人を腫物のように
扱うケースは、その典型例であろう。
自分が批判される前に他を批判し、
自分が非難される前に他を非難するのは、相変わらず
根付いている恐怖心に駆り立てられているのだ。
家族が、こんなことなら飲んだくれていた方がましと
思うのもこのパターンである。
これは本人の根本的な問題であるがゆえに、断酒している
していないは、極論すれば関係がない。
否認にせよ、自己憐憫にせよ、否定にせよ、その根本が
恐怖であるなら、それを様々な場面でひとつひとつ
克服していくしかない。
本人にとっては、最も苦しく、辛い事なのだが、
ありのままの自分を認めて、そこから、何をどうして
いくのかを決め、勇気を奮い起こして行動に移す。
これを繰り返していくしかない。
そこには、本人にとっては想像を絶する忍耐がいるが、
その積み重ねの中で、消えることはなくとも恐怖は
小さくなっていく。
認めるという字にも忍の一字が含まれている。
認める、識るという苦しみを避けることのない、忍耐の
勇気をもってまた日々を重ねていきたい。
そこにこそ、真の意味での肯定ということが可能であろうし、
何よりそれは大きな喜びとなるのである。