ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

忍の一字

2015年01月30日 | ノンジャンル
この病気は、「否認の病気」と言われる。
これが一番、他の病気と異なる点だと思うのだが、
要するに、病気であることを認めようとしないのである。

風邪をひけば、喉の痛み、咳や鼻水、発熱など自覚症状が
如実にあらわれ、誰もが自分が風邪という病気にかかった
ことを素直に認め、薬を飲んだり、病院へ行ったりする。

アルコール依存症の場合は、自覚症状どころか、他人から
見ても明らかに異常な状態にあっても、本人は頑として
自身がその病気であることを認めようとしない。

それはつまり、認めればお酒を飲めなくなってしまう
という恐怖が、否認の根本にあるのだが、家族も周りも
巻き込んで酒害をまき散らしている状態よりも、
飲めなくなることの恐怖の方が大きいという時点で
すでに立派な罹患者なのである。

かろうじて残されている理性が、飲まずにはいられない
自分自身を微力ながらも責め続ける。
その責めから逃れるためにまた飲むというケースも
多いだろう。

否認は自己憐憫を伴う。それは自分の周り全てに対する
否定となり、同時に自分自身をも否定することになる。

ようやく病気であることを認め、その病気をよく識る
という段階になって、一見、否認から脱却したかに
見えたとしても、実はその否認が、否定へと移行している
ことも多い。

お酒を飲めなくなるという恐怖からは解放されたかに見えて、
理性の働きが強まってくると、過去の記憶から新たな恐怖が
生じる。自分自身の存在意義ともいうべき恐怖感である。

この世に自分は必要とされているのか、いてもいなくても
同じではないのか、いや、むしろいない方がいいのではないか。
この恐怖は、むしろお酒を飲めなくなると思った時に
感じた恐怖よりも、理性的、客観的な面がある分、より大きい。

よって、その恐怖感を刺激される場面、具体的には自身に
対する批評、非難、中傷に対しては過度の反応をする。

あるいは思い出したくもない過去の自分を見せつけられる
ような場面においても同様である。

その恐怖心は、ともかく自分自身を否定されないように
防御する方向に異常なまでのエネルギーを費やす。

外的な攻撃に対して身を守るのは当然かもしれないが、
その攻撃に対する恐怖心があまりに大きいと、
窮鼠猫をかむ式の、先制攻撃を仕掛ける。

断酒をしている本人の家族が、その本人を腫物のように
扱うケースは、その典型例であろう。

自分が批判される前に他を批判し、
自分が非難される前に他を非難するのは、相変わらず
根付いている恐怖心に駆り立てられているのだ。

家族が、こんなことなら飲んだくれていた方がましと
思うのもこのパターンである。

これは本人の根本的な問題であるがゆえに、断酒している
していないは、極論すれば関係がない。
否認にせよ、自己憐憫にせよ、否定にせよ、その根本が
恐怖であるなら、それを様々な場面でひとつひとつ
克服していくしかない。

本人にとっては、最も苦しく、辛い事なのだが、
ありのままの自分を認めて、そこから、何をどうして
いくのかを決め、勇気を奮い起こして行動に移す。
これを繰り返していくしかない。

そこには、本人にとっては想像を絶する忍耐がいるが、
その積み重ねの中で、消えることはなくとも恐怖は
小さくなっていく。

認めるという字にも忍の一字が含まれている。

認める、識るという苦しみを避けることのない、忍耐の
勇気をもってまた日々を重ねていきたい。
そこにこそ、真の意味での肯定ということが可能であろうし、
何よりそれは大きな喜びとなるのである。



立ち位置

2015年01月29日 | ノンジャンル
日本語には敬語というものがあって、
これが日本語を学ぶ外国人にとっては
非常に厄介である。

それは、尊敬語、丁寧語、謙譲語と大分され、
自身と相手との立ち位置や、場面によって
使い分けられる。

日本人といえど、誤った敬語を使っている例は
枚挙にいとまがない。

さて、立ち位置という話なのだが、尊敬は無論、
相手を上に置く。謙譲は自身を下に置く。
丁寧は立ち位置に関係なく、いわばマナーとも
いうべきものとなる。

相手を下に見れば上から目線、自分を上に置けば傲慢、
対等という名のぞんざいさ。

人としての自身の成長を期するのであれば、相手を
上に置くか、自身を下に置いて、自らの努力を促して
いくしかない。

対等であれば仲間として、あるいは友人として相手を
尊重するのが丁寧ということである。

相手を下げて自身を上に見せても、そこに自身の成長は
一歩たりともない事を知るべきか。

「あの人よりはまし」、「あの人はすごい」も、
感想や論評だけで終われば同じことである。

要するに核心は、自身が一歩でも成長しているのか
どうかである。

例え一歩でも成長していこうとするなら、そしてその
気概を持ち続けるなら、現在の自身の立ち位置など
もはや何の問題にもならないのである。

年齢に関係なく、常に今から、ここから、自分からと
行動していく人を、私は最も尊敬するのである。
そして、自身もそうありたいと願うものである。



現場主義

2015年01月19日 | ノンジャンル
これから教育者となる娘に、常に言い聞かせている
ことがある。
子供たちと接するにあたり、一人一人に対して、
おかしな先入観、色眼鏡を持たないということだ。

家庭環境、生い立ちなどは、子供とはいえ
千差万別である。
そして、その環境にどう適応してきたかも千差万別だ。

自分の目と耳と肌で一人に接し、感じてあげること。
寄り添ってあげること。そこから始めること。

世間の評判というものは、いい加減なもので、
ちょっとしたきっかけで180度変わってしまうことも
珍しくはない。

世法というものはそういうものであるから、人のうわさ、
評判などに惑わされていても仕方がない。
私自身、自分の目で見て、耳で聞いて、実感した上で
物事を進めていく現場主義の立場を貫き通してきた。

教育者というのは、決してマニュアル化のできない
仕事である。なにせ、相手は日々、急な成長の変化の
真っ只中にいる子供達である。

その成長を見守る立場なら、日々相手を見直すくらいの
徹底した現場主義が要求される。
昨日と同じ今日などあり得ないのである。

これは、その人の生き方にも通じていくのだろうが、
人にせよ、物事にせよ、自身がそれを認識せずして
判断はできない。その認識は現場主義でなければ
得られないし、噂や評判で認識したつもりとなれば、
ほとんどの場合、それは誤解となる。

仕事にせよ、日々の生活にせよ、自身の認識を世評に
預けるような楽な生き方ではなく、徹底した現場主義で
自身の認識を作り上げていくという苦闘を避けることなく
生きていってほしいと願うのである。

それは、いまだ学生である息子に対しても切に願うことだ。

そして、長年の経験を積んできた自分自身だからこそ、
それを先入観としないために、これまでにも増して
現場主義であり続けたいと思うのである。



効果

2015年01月15日 | ノンジャンル
どんなことでもそうだろうが、効果というものには
2種類あって、すぐに具体的に顕れるものと、
変わりないように見えて、永い時間の中でゆっくりと
顕れてくるものがある。

頭痛がひどい時には、即効性の痛み止めが
ありがたいのだが、頭痛の原因を根本的に解決して
いくには薬の種類も違うだろうし、その効果が
顕れるにも時間がかかる。


断酒においても同じで、お酒を断ってすぐに顕れる
効果はいくつもの例がある。
だが、それは要するにすぐに日常的なものとなり、
初めに感じたほどではなくなり、常態化してしまう。

何年も継続していると、例えば一年前とさして
変わりないようにも思うのだが、心身共の健康という
点では大きな差がある。

頑張りどころで頑張れる体力、その最中で折れない心、
食事のありがたさ、一日の終わりに感じる充足感と
疲労。 そして時間の長さは別にして、ぐっすり眠れる
爽快感。

そんな健康的な日常も、いつの間にかそうなって
きたのであり、ある日を境に急に変じるわけではない。

今年、断酒10年の節目を迎えるが、10年経って
何を一番感謝しているかと言えば、自分がやろう、
やりたい、やらねばと思うことを、具体的に行動に
移すことができるということである。

お酒によって、自身の行動が束縛されていたのである。
それはつまり、生きることを束縛されていたに等しい。

その呪縛から解き放たれて、今、ようやく自身の
内なる解放を実感しているといったところか。
それはそのまま、感謝となるのである。





20年

2015年01月13日 | ノンジャンル
阪神・淡路大震災より20年。

当時息子は、生まれてまだ8ヶ月ほどだったか。

この20年、本当に様々なことがあった。
だが、息子が成人したことを思えば、今現在、
家族が皆健康で、元気に過ごせていることだけを
心から感謝したい。

そして、決してあたりまえのことなどない事を自覚して、
日々、不満よりも感謝の多い時を過ごしていきたい。

成人の記念の写真を撮影したが、はにかんだような
笑顔は、あの頃と少しも変りない。

娘同様、まっすぐに育ってくれたことにも感謝である。

凛々しいスーツ姿に、若い日の自分を重ねるが、
眩しい若さに、自身の老いを思い知らされる。

ひとつの区切りではあるが、これからは対等の男として
付き合っていくことになる。

であれば、私自身も自分の男を磨いていかざるを得ない。
あれこれ言い訳ばかりして、磨くことを怠れば、
曇る一方なのである。

男は、言葉ではなく、背中で語るものなのである。