ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

プレゼント

2014年01月24日 | ノンジャンル
今日は51度目の誕生日。

長寿でもなく、中途半端な年なので
目出度くもないが、ともあれ母親の命のプレゼントを
もらって、生まれ出た日である。

苦しい事の方が多い人生かもしれないが、母親には
感謝したいと思う。

生まれた当時は38豪雪ということで、各地で記録的な
積雪があった年である。
雪と共に生まれてきたわけで、そのせいか、
乾いた寒風が吹きすさぶところは閉口するが、
吹雪だとか、雪の積もったところはあまり苦にならない。

身体の芯まで冷えながら、どこか、雪に暖かみを
感じさえするのである。

母親が亡くなったのが55歳。自分の中ではこの年を
ひとつの大きな節目としている。
息子も巣立って社会人になっているはずのその時に、
石にかじりついてでも為すべきと誓ったことが
為されているはずである。

その後のことはよくわからないが、ともかくも、
この先4年を何としても生き抜こうと、改めて覚悟を
心に刻む日が、私にとっての今日という日なのである。

寒さも少しゆるんで、暖かい日となった。






シェイプアップ

2014年01月23日 | ノンジャンル
弛んだネクタイをキリリと締め直すことを
シェイプアップという。
身を引き締めるには、姿勢が最も重要だと感じる。

立居振舞に凛とした美しさがあって、それが常日頃の
自然なものとして身についていれば、おそらく
ダイエットなど必要ないかと思う。

もう一つ大切なのが、キリッと肛門を引き締める
ことである。
それを意識すれば、自然に身も引き締まる。

ところが、年と共にどうも弛んできた気がする。
下世話な話だが、引き締め力が衰えているようだ。
若い頃は、用を足すのも何というか、切れがあった。

その切れが、段々と悪くなってきた気がする。
それを最も感じるのが、辛いものを食べた後の、
二度目の辛さを感じる時である。

いつまでもヒリヒリ感が取れない不快さは、きれいに
ふき取れていないであろうことへの不快さでもある。

昔はウォシュレット付のトイレでもそれを使うことは
あまりなかったが、今ではもう欠かせない。
ホテルなどで付いていないと、怒りさえ覚える。

まあ、飲んでいた頃は、食べるよりも飲む方が多い分、
ほとんど常に下していた様な状態だったので、
下手に使うと呼び水となってしまい、何度もトイレに
行く羽目になるということもあったろう。

年明け早々韓国、そして中国、再び韓国とバタバタの
スタートとなったが、改めてこの発明に感謝している。

なにせ、辛い料理が多いので、用を足すのが痛いほど
なのである。おかげで気分もスッキリし、キリッと
引き締めれば、身も引き締まる。

遅ればせながら、昨年我が家にも設置し、
快適なトイレとなっている。

様々なダイエット法などの広告が喧しいが、
最も根本的なところをたどれば、そんなところに
鍵があるのかもしれない。

但し、エネルギー保存の法則は普遍であるから、
摂取・吸収したカロリー量と、消費カロリーとの
バランスが崩れているなら、痩せたり肥ったりすることは
自明なのである。





ツボ

2014年01月14日 | ノンジャンル
ぎっくり腰を幾度か経験しているので、疲れが溜まって
ちょっと危ないなと感じたときには、整骨院で
マッサージを受け、筋肉の疲労をほぐすようにしている。

この時に、下手な整体師にあたると、ツボをことごとく
外され、余計にイライラ感が募り、身も心も疲れ果てる。

会議であれ、交渉であれ、このツボを外した話に限って、
長々と結論も出せぬまま続けられる。
私の最も忌み嫌うことである。

自分の子か、他人の子かなどという家庭内の話を経緯は
どうあれ、その後にわざわざ自ら公の場に出して、周りを
巻き込んでいる様は理解に苦しむばかりでなく、笑止である。

世間に対して何かを訴えたいわけでもなし、
注目を集めるための方便かと勘繰りたくもなる。

要するに、泥沼のような言い争いや見解の公表はともかく、
根本的なツボを外していては、何の進展もないことが
なぜわからないのだろう。

いや、それをしてしまうともうそれで収束してしまうので、
あえてそこには触れずに話題事態を引き延ばそうと
しているのかもしれない。

根本的な原因が、実子かそうではないかなら、第三者によって
親子関係のDNA鑑定を改めてすればよい事だ。

その結果がどうであれ、客観的事実に対して、どう対処して
いくのかはその当事者次第なのである。

肝心なツボを押さえずにその周りを押したり撫でたり
しているから余計におかしくなるのである。

いずれにしても、その家庭内の問題であって、世間を
巻き込んで大騒ぎすることでもなく、それに乗っかる
マスコミも品位を問われる。

初診の時、亡き院長先生は言下に仰った。
「この病気は完治はしません。お酒を断って生きるか、
 このまま死ぬかのいずれかです。」と。

なんと小気味の良い、ツボを押さえたというか、単刀直入な
結論であろうか。

今なお、私があの偉大な院長先生を尊敬してやまない
所以である。

まだ死ねない、ならば生きようと、決断をさせてくれた、
自身の原点なのである。

話を戻せば、DNA鑑定の結果が実子であろうとなかろうと、
どうでも良い事である。
父親として、自身の生涯を形はどうであれその子と
重ねていくのかどうかということなのである。

来年、息子も成人する。
この一年を、新たな覚悟を決めてまた生きていくのみである。



一年の計

2014年01月10日 | ノンジャンル
ここ数年、年末、年始という気分がまるで
感じられないでいるが、今回は仕事面ではそれなりに
スッキリとした形で正月を迎えた。

大晦日ギリギリまでとか、年明け早々ということもあったが、
それに比べれば穏やかな正月になるはずだった。

ところが友人の娘さんがアメリカ人と結婚することになり、
正月を韓国で過ごすとのこと。

友人夫妻としては様々な話を彼としたいのだが、娘さんの
通訳ではどうも肝心なことがはぐらかされてしまう
とのことで、私に通訳を依頼してきた。

3日4日と、一泊二日で友人夫妻と韓国へ飛んだ。
正月の海外旅行など、出張以外では人生初めてのことである。
もちろん、チケットは用意してくれたが、年明け早々、
またまたバタバタとした一年の始まりとなった。

かなり突っ込んだ話もできて友人は大満足で、
非常に感謝されたが、さすがに休み明けは身体がきつかった。

仕事始めの今週はやたらと長く感じたが、来週には中国
そして再び韓国出張が予定されている。

どうやら、今年もひたすら走り続けるしかないようである。
午年とはシャレにもならない。

ところで、やはり節目ということもあるのかもしれないが、
久し振りにお酒を飲む夢を見た。
そこには、少しならいいやという思いがそのまま
行動になってしまっている。

断酒も9年目に入ったが、それでも無意識下では
このざまである。

正直、多少飲んだとしてもすぐに問題となることは
ないと思う。
それだけ、身体が出来上がってきているので、
飲んで、昔のような最悪の状態にまで戻すとすれば
それなりに時間もかかるだろう。

だが、一杯のお酒が、それで止まることがない事だけは
火を見るより明らかである。
そこにおかしな自信を持つことが一番厄介なことなのである。

お酒の場にいる夢を見て、それでも飲まないでいるなら
大したものだが、何の躊躇もなく飲んでいる夢を見ることを
考えれば、一杯のお酒が転落の一歩であることは
自明なのである。

まてよ、夢だとわかっているから、安心して飲んで
いるのかもしれない。
だとしたら、私の理性が一枚上手ということになる。

現実に飲めば、優位な位置にある理性そのものが
マヒさせられてしまう
つまり、遅かれ早かれ、コントロールを失うことになる。

お酒を飲む、飲まない以前の問題として、私の最も
恐れることが、自身のコントロールを失うという
ことなのである。

飛行機が好きなので、出張自体は苦ではないが、
操縦不能の飛行機には乗りたくはない。
コントロールを失うとは、そういうことなのである。