ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

日本の翼

2010年01月30日 | ノンジャンル
JALの会社更生手続きについては様々な論議があるが、
民間で言えば事実として倒産であり、破産である。

だが、この企業は国営であった頃の体質を抜け出すことは
ついにできなかった。
いや、JALだけではない。そもそも国が経営するという
事業自体、何もかもが特別で、一般的な常識からは
かけ離れた体質と意識が根強い。

旧国鉄然り、電電公社然り、郵便局然りである。
唯一、物を売るという商売に即していた専売公社のみが
その特異な体質から一線を画したというべき
かもしれないが、これはそもそも物品の販売という
民間により近いものであったから当然といえば
当然である。

昔から国営でうまくいった事業というのはない。

さて、前置きはいいとして、再生案において、JALは
ジャンボを持たず、効率の良い機種による運航で
コストを抑え、利益を上げる方向としている。

これは私などの年代で、古くから航空機を利用してきた
者にとっては、言い表せない淋しさがある。
JALと言えば、国営だろうと民間企業であろうと、
世界に確たる名声を持つ、日本を代表する翼である。

そのJALが、ジャンボを持たないとは、何たることか。
名よりも実を取る現実は別にして、コストがかかると
いって、看板を小さくすれば、その威信にかかわる。
アメリカや他の国における航空会社とJALとでは、
まるでその立場も意義も異なるのである。

いずれにしろ、理屈はともかくJALのジャンボが
なくなるというのは本当に淋しい。

あの鶴のマークがなくなったとき以上の淋しさを
覚えるのである。

今は亡き、城達也さんのナレーションと共に旅立つ
あの感慨も、遠いノスタルジーになってしまった
かのようである。


~ 光と影の境に消えていった 遥かな地平線も

 まぶたに 浮かんでまいります。 ~

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産声

2010年01月28日 | ノンジャンル
いつも不思議に思うことがある。

赤ちゃんは生まれてきたときに、なぜ泣くのか。

胎内にいるときの安らぎ。やさしい音。温もり。

生まれるということは、その安らぎの場所から苦しい
思いをして、外の世界へ出るということである。

そこはとんでもない世界である。寒くて、うるさくて、
不安定で、自ら呼吸をしなくてはいけなくて、いきなり
冷たい空気が肺に入ってくる。

これほどの驚きと、不安と不快が他にあるだろうか。
だが、不思議なのは、その驚きと、不安と、不快の
表現として、なぜ泣くということを知っているのか
ということである。

誰に教えられたわけでもないのに。。。

唇の横を指でつつくと、口を指に向けて、吸い付こうとする。

これも誰に教えられたわけでもない。

娘がおなかにいるときは、暇さえあれば話しかけていた。
声をかけると、ボンとおなかを蹴るようになった事も
よく覚えている。
生まれて落ち着いてから、抱いて同じように声をかけると、
にこっと笑った。

私の声を覚えているんだなと思うと、涙があふれた。
拭うこともできずに、流れるままの涙を横で見た
看護士さんがもらい泣きをしていた。

本能といえばそれまでかもしれない。しかし、本能と
いえども伝えられてきた記憶ではないのか。

泣いて助けを呼び、乳房に吸い付き、満足して笑う。
これは、生きようとしているということだ。

生命は常に前へ進もうとしている。生きようと考えて、
生きているわけではない。本然は、いかなる状態に
自身があろうと、生きようという方向に向いている。

人は、生まれた時が始まりで、死ぬ時が終わりという
わけではないらしい。人の誕生を見るにつけ、
人の死を見るにつけ、そこに何がしかの連続性を認めない
わけにはいかないのである。

夜、眠りにつく。朝、目覚める。泣きながら目覚める
ときもあれば、清々しく目覚めるときもある。
夢にうなされて苦しみながら目覚めるときもあれば、
穏やかに目覚めるときもある。

いずれにせよ、目覚めるということは、生きようと
していることに違いない。

できるなら、毎朝の目覚めを新しい一日の産声と捉えて、
その日一日を精一杯生きたいものである。





約束

2010年01月27日 | ノンジャンル
失う病気とされるアルコール依存症。

その失うことの始まりは、些細なことでも、約束を守れない
ことかもしれない。

時間を守れない。やるべきことをやれない。口にしたことを
やり遂げられない。

誰にでもあることなのだが、これが常に続くと信用を失う。
信用を失うことは、お金を失う、仕事を失うことに繋がる。
つまり、人間関係を損ね、失うのである。

家族という人間関係は、互いを最も大目に見てくれる
場でもあるが、社会的信用を失い、お金を失い、仕事を
失えば、その直接的影響に曝される。

家族を失えば、ある意味心のタガが外れてしまい、
自暴自棄に陥りやすい。
結果、自身の健康も失い、最悪の場合、命をも失う。

こうしてみれば、失う連鎖は密接に関係しており、
なかなかその連鎖の途中で根本原因のお酒を断つことは
難しい。

それでも、お酒の問題に対する気付きと自覚が早ければ
早いほど、失うものも少なくて済む。
断酒している者においても、もっと早く気付いていれば
という後悔の話も多いのだが、それはもともと無理である。

残念ながら、失ってみて初めて気付くことの方が
実際は多い。
この病気の患者が若年化しているのには胸が痛いが、
失うものの大きさという点では中高年の患者の
比ではない。
命さえ失わなければ、文字通り裸一貫でやり直しがきく。

しかしながら、まだまだ若い時代を謳歌したい、いや、
謳歌できるものにとって、断酒するということの大変さは、
同じく中高年のそれとは比すべくもない。

若ければ若いほど、生きる力に溢れているので、
それがより難しくなるのである。
20年、30年と飲み続けて、断酒せざるを
得なくなったものと、5年、10年でそうなってしまった
ものとでは、その意味するところには雲泥の差がある。

中高年にとっては、回復の道というのは、残された人生を
人としていかに生きていくかということであり、
若いものにおいては、文字通り回復の軌道に乗って、
生きる喜びを見出していくことである。

いずれにせよ、回復ということを考えるなら、
事の発端である約束ということを考えねばならない。

失う発端は、病気とはいえ、この人との約束を
ないがしろにしてきたことにある。
ならば、回復の一歩は、この約束をしっかりと守り、
為すために行動する事である。

それは信用を回復させることに繋がり、今度は反対に
正の連鎖へと転じて行く。中高年であっても、仕事も
家族も取り戻し、あるいは、新たに得ることに繋がった
人達も決して少なくはない。

些細なことであろうと、重大なことであろうと、約束は
約束である。まずはここからということを、肝に銘じて
おきたい。それが、初心に返るということでもある。






メッセージ

2010年01月25日 | ノンジャンル
ある方へのメッセージとして送った内容である。

自身の、振り返りの機会ともなったので、
抜粋、掲載しておく。

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まず、お酒を断ってから、いわゆる禁断症状が出始め、
一睡もできない不眠、シャツが絞れるほどの寝汗、
手足の振るえ、全身の痺れ、その後、幻覚、幻聴が出ました。

事ここに至って、自分が精神的にサンクチュアリに
行ってしまうぎりぎりのところだと自覚し、
死んでも飲まない覚悟で戦いを始めましたが、
仕事にも出る中で3日3晩不眠不休の戦いに、
気力も体力も疲弊し、それとは反比例に幻覚、幻聴は
パワーアップし、狡猾になっていきました。

幻聴と幻覚はシンクロし、それと判断している理性を
ときに惑わせます。
幻聴は、潜在意識の下にあるもう一人の自分として、
私と話しをし始めました。

彼の目的はただひとつ、私にもう一度アルコールを
摂取させることです。
ある意味、彼はこの世でただ一人、自分の全てを知り、
理解している存在です。

たかが新皮質の前頭葉のみに頼っている理性が、
彼に勝てるわけがありません。
彼は、それ以外の全脳なのです。

ただ、彼が直接私を動かすことはできません。
私の行動は、私の理性がかろうじてコントロールを
執っていました。

限界を感じたとき、行動のコントロールを持っているうちに、
自分を消そうと、飛び降りることも考えました。
それをとどめたのは、家族の存在でした。

私は、この勝ち目のない戦いに勝つために、
自ら病院へ行きました。
今のところ、何とか勝ち続けてはいます。
そしてもう今では薬の処方は一切ありません。

さて、本題ですか、強烈な欲求の時には、他の欲求を
満足させることでそれを軽減した面もあります。
食欲、物質欲、性欲、睡眠欲などなどを十二分に
満足させるのもひとつの回避方法です。

また、その一杯を口にするのは、やはり自分自身ですから、
グラスを口に持ってきたときに、子供たちの顔を思い出す
というイメージを持つ癖もつけました。

本来は避けなければならないことも、天邪鬼な
性格ですので、敢えてしてきました。
お酒を目の前に置く。さあ、飲むのか、飲まないのか。

酒席に出る。お酒の入ったグラスがずらりと並ぶ。
自分の周りで皆が飲む。
その中で、一人ウーロン茶を飲む。
自虐的且つマゾ的な状況に身を置いて、それに耐える
ことに満足を覚えるということもしていました。

おかげで、今はどんな場にいても、飲めたらいいだろうな
という思いはあっても、飲むことはありません。

ただ、言えることは、その場にいることよりも危険なのは、
言わばその修羅場を無事に乗り越えた後に来る
安堵感、達成感、充実感の時です。
緊張の後の緩和の時がもっとも危険だということです。
ここで再飲酒に陥る人が非常に多い。

普段においては、やはり飲むことが趣味のような
ものでしたから、それに代わるものが必ず必要です。
休み前のひと時、休みの暇な時間というのが非常に
問題となります。

私は、考察をまとめたり、体験を整理したりということを
始めて、まだ助かっていました。
でも、最も有効なのは、身体を動かすことです。
ジムでもよし、スイミングでもよし、趣味のスポーツ
でもよし、ウォーキングでもいい。

ホッとして、部屋でのんびりリラックスできる時が、
最も危険な魔の時とも認識しています。
夜であれば、映画を見るとか、読書をするとか、
もう床について、音楽を聴きながら眠りにつくとか、
そういうことで魔の時をやり過ごしたように思います。

私としては、弱っていく理性に対し、強まっていく本能とも
言える相手に勝つことは無理だというのが本音でした。
かろうじて残っている理性を強化するために、病院へと
足を運んだのです。

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節目の日に、具体的な振り返りができる機会を頂いたことに
感謝しつつ。。。



天王星

2010年01月24日 | ノンジャンル
私の支配星は、天王星らしい。

太陽系第7惑星は、天空の孤高の存在で、言わば地上の
俗世間を離れ、大局を俯瞰している。
群衆の中で、開けぬ視野のままに流れに呑まれて
しまうことを最も嫌い、そこから意識は天に上がり、
その流れを俯瞰する。

良く言えば、自身を含め、物事を客観的に観る視点を
常に持つことになるが、それは孤独の覚悟もまた持たねば
ならない。
悪く言えば、地上の蠢きが醜悪に観え、人の馬鹿さ加減
ばかりが観えて仕方がない。

理性と感情ということで言えば、理性の塊のようにも
見えるが、実は常に溢れる感情との葛藤に苛まれている。

人の悪い面ばかり見れば、愚癡になる。
必ず良い面があるのだから、それを良く見て、悪い面は
大目に見るか、目をつぶれば、愚癡がなくなる。

「他人のことをどうこう言っている間は駄目。」
亡くなった母親の言葉。

「他人を悪く言ったところで、自分の成長にはならない。」
恩師の言葉。

俯瞰と言うのは、日常における視点とは全く異なる
視点ともいえる。

地上の視点、人間の中での視点、そして、天空よりの
視点をもって、それを批判に繋げたところで詮がない。

人の気付かぬ、いや、本人でさえ気付かぬ面を観て、
それを本人が伸ばしていける励ましができれば、
理性と言うも、客観視と言うも、俯瞰と言うも真の意味を
為すであろう。

今日という日に、私が最も心せねばならないこと
かもしれない。