ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

奔走

2014年02月24日 | ノンジャンル
明日からまた中国・韓国へと旅立つ。

今年は昨年にも増して年明けからバタバタしているが、
その割に実績が上がらず、焦りとなるようになるとの
開き直りと、やれるだけ精一杯という、落ち着いた心が
混在している。

果報は寝て待てというが、本当に寝ていたところで
何がどうなるわけでもない。
今の自分にできることを、精一杯。
どうやらこれまでも、これからも、これでいくしか
ないようである。

人間、短い一生の中でできることは知れている。
同時に、短い中だからこそ、できることは無限でもある。

前進をやめれば厭世、一歩でも前へと進めば創世。
それはその人の生き方の問題なのである。

ということで、私は再び一歩前へと進むことにする。





無冠

2014年02月21日 | ノンジャンル
前回、世法のことに少し触れた。

五輪も終盤だが、メダルを獲得したにせよ、
逃したにせよ、そんなことはひと月もすれば
世間の口にも上らないことになる。

その道を極めようとしてきたものが、五輪という
大きな舞台で、本人にしかわからないものを背負って、
奮闘していること、それ自体が素晴らしい。

勝たねば意味がないという人がいる。それも真だろう。
そういう人は、自身が勝てばよい。

無論、本人にとっても栄誉であるには違いないが、
国の誉れとしての意味でメダルメダルと騒いでいる。

メダルを取って、その本人が幸せになるのなら話は別である。

幼い頃から、スケート一筋に歩んできた選手がいる。
メダルは当然という重圧を背負い、最後になるかもしれない
大舞台という想いもあっただろう。

それが高転びにこけてしまった。
日本中がため息に包まれたといってよいその結果は、
本人をして、「取り返しのつかないこと」と言わしめた。

まだ若い身で、それは耐えられないほどの悔しさであったに
違いないが、ある意味、放心状態であったかもしれない。

その局面に自分が立たされたなら、逃げ出すか、
消えてしまいたいと思うだろう。
あるいは、開き直ってどうにでもなれとヤケクソに
なるかもしれない。

だが彼女は、最後の最後に自分の原点を取り戻した。
「スケートが大好き」「跳ぶのが楽しい」

誰もがもう諦めていたその最後の舞台で、彼女は
最高の舞を見せてくれた。
それは彼女自身も、そして周りの皆をも感動に包み、
幸せにしてくれる、渾身の舞であった。

まぎれもなく彼女は勝利した。
まさに無冠の女王となった。
これからの長い人生において、この勝利ほど彼女を
支え続けるものはないと思う。

そして、この舞を見た者にとっては、これまで幾度となく
見せてもらった彼女自身の勝利と共に、自分が生きていく
支えの一つとなったであろう。

無冠の女王たる彼女に、最高の敬意と、拍手喝采と、
感謝の思いを贈りたいと思うのである。





法というもの

2014年02月19日 | ノンジャンル
世法というのは、これはいわゆる評判である。

社会生活という点で、評判が良いのは大事なことでは
あるが、それを目的としてしまうのは間違いである。

社会というものに自分なりに貢献していこうと
努力している人は数えきれないが、評判というものは
移ろいやすく転じやすい。

昨日のヒーローが、今日は極悪人となってしまうケースも
また、その逆もままある。

要するに世法とは、真理や原理に対し、普遍的ではないと
いうことなのである。

国法は言うまでもなく法律である。社会生活において
最低限、遵守するべき法であり、無論それを侵せば懲罰の
対象となる。

しかしながら、世法にせよ、国法にせよ、人が考えて
作ったものである。

科学の発展により、様々な不変的かつ普遍的真理や原理が
発見されるに至り、この世界には宇宙を貫く、いや、
包括する法というものが存在すると信じられるようになった。

ただ、科学の探求は外なるものに向かっていく中で、
人間の内面に向かうようになったのはごく近代のことである。

その普遍の法を、外に求める時、人は神や仏を創ったのだろう。
無常というのは、あらゆる哲学・宗教に共通しているが、
これに相対峙して、永遠普遍の存在を創ってきたのである。

そしてその存在に対し、敬虔に仕える立場として自らを
律することが信仰となるのだが、その対象自体がわからない
まま形として表し、それに対して祈りを捧げるというのは、
どうも矛盾している。

まだ古代の太陽神のように、具体的に生命に恵みを与える
太陽の存在に対し感謝する姿勢の方が、納得がいく。

自我というものが具体化した人間は、自身の存在を個別に
捉えようとするために、外に目を向ける時も、個別的に
認識し、判断するようになっているが、自身が立つ大地も、
天の星も、この宇宙自体が自身と一体であることをなかなか
覚知できない。

自分の体を構成するものが星のそれと同じである以上、
自身も宇宙と一体であるということである。
それはつまり、永遠普遍の宇宙の法が、自身の内にも
あるということなのである。

小宇宙である自身との自覚に立てば、むしろその中にこそ
本然の法があると信じて、それを覚知する努力をするべきか。

小さな、力のない、ほんのひとしずくの存在である自身も、
どこまで広がるかわからない大海原へと飛び込めば、
海そのものとなる。

これを自身の内に求めて覚知するのは、非常に困難である。
意識下で生活をしている以上、自身の無意識下自体、
計りがたい。

同じ認識から、自己の内面を深く深く探っていったものは、
まだ浅い領域において、自身の無常を感じて絶望し、
自殺していった。

この問題は、一生をかけての問題である。
であれば、たとえもはや死の直前であっても、
その時に覚知できれば、本望である。

そして、そこに至れるかどうかは、もちろん、
いかに生きていくかということにかかっているのである。

世法でも国法でもなく、本然の法を求めて生き抜いた人々は、
おそらく世界で一番幸せな最期を遂げたのであろう。

願わくは、死のギリギリまでにその境地にまで
達したいものである。



自己責任

2014年02月12日 | ノンジャンル
最近思うのだが、マスコミの流れというのは、どうも
粗探しと責任追及に終始している。

これは、裏返せば、自由と権利を当然のこととして
享受してきた人々の中で、それを過度に拡大する人が
多くなってきたせいかもしれない。

そこには必然的に責任と義務という裏打ちがあるのだが、
これを外して自由だ権利だという人が多い。

義務教育は、国の義務だなどという親も出てくる
くらいで、何をか言わんやである。

但し、責任と義務というのは、その人自身の自覚による。
何かの問題で、記者会見という場面も多く見受けるが、
ああ、この人は自覚していないんだなと思うことがよくある。

自覚していない人にいくら責任追及しても仕方がない。
結果は、なにがしかの懲罰的なことで済んでしまう。

本人にすれば、まずい事になった、困った、ドジ踏んだ
などなど、目線は変わらず自分の利害である。
そういう人の表面的な謝罪は虚しくさえある。

ただ、自覚していても、それを果たす能力のない人もいる。
それはある一面であって、本来、その責任や義務が、その人に
適したものではない場合もある。
同じ人が、他の面で力を発揮し、十分に責任と義務を全うする
ことも多い。

嘘偽りが発端ならともかく、十分自覚して努力して、
それを果たせなかった人を責めたところで何になるのか。

自己責任という言葉も、本来は自身が自覚すべき責任であるはずが、
他人を切り捨て、非難する言葉になってしまっている気がする。
つまり、本人が自覚してもいない責任を、他人が追求し、
非難するという構図が多い気がするのである。

何が言いたいかというと、10のうちの1つの粗を探し出して
責めるような社会では、生きづらくて仕方がないということである。
9つの粗があっても、1つ輝く光を見い出し、認めていく
大らかさというか、余裕があってもいいのではないかと思う。


1つの粗が許せない夫婦、1つの良いところで何とか一緒に
暮らし続ける夫婦。
どちらが別れる夫婦であるかは人それぞれだろうが、
まあ、人間、そういうこともあるな、しょうがないという、
互いに一息つける空気が何だか極端に希薄である。

ニュースなどを見ていると、息苦しさを感じるほどである。
息がしにくい社会というのは、生きにくい社会なのである。

責める方も、責められる方も互いに息苦しい。

皆、朝一番で、少し深呼吸をしてみてはどうだろか。



反抗期

2014年02月03日 | ノンジャンル
娘も、息子も、反抗期と呼べるほど際立った時期は
無かったように思える。

どちらかというと、あれやこれやと私に話を
聞いて欲しい二人なので、あまり気にもしていなかった。

息子は相変わらず、私に話しかけてきては、冗談返しに
撃沈し続けているが、娘はどうやら、かなり遅ればせの
反抗期かもしれない。

二十歳を過ぎて反抗期というのも変だが、多感な時期に
父親を嫌悪するといったことがなかった彼女にとっては
仕方がないのだろう。

ただ、原因ははっきりしている。
大学生とはいえ、成人してからは、社会人としての目線から、
注意することが多くなった。

それまでは大目に見てきたことも、そうはいかない
ことについては、口うるさく言ってきた。

最近では口もきかないどころか、私と家で会うことを
避けているようだ。
もっとも、出張が多いので家にいることは滅多にないが、
それでもたまたま居合わせようものなら、自分の部屋に
直行である。

娘に嫌われて、淋しい想いをしている世の父親のことなど
他人事であったが、「今でしょ」じゃなく、
「今かよ」というタイミングで同じ想いを味わうことに
なるとは思ってもみなかった。

どう考えても非は向こうにある。
それをわざわざ火に油を注ぐが如くあげつらう気は
毛頭ないが、状況的に、非のある方が優位なのは
やはり父娘の微妙な関係なのであろう。

それはむしろ、夫婦の微妙さに近い。

大げさな言い方をすると、法的にはこちらが9対1で
確実に勝利であっても、夫婦的あるいは父娘的には、
4対6ぐらいの微妙な差で不利となってしまう。

何とも理不尽なのだが、それが世法、国法と、家法の
大きな違いなのである。

さてさて、このまま捨てておいて、ほとぼりがさめるのを
待つか、あえて火に油を注ぐか・・・。

性格的には一気に油を注ぎたいのであるが、殊、娘となると、
話が違ってくる。

様子を見ながら、ちびちびと注ぐかと思案している。
しかし、何とも理不尽な話ではないか。