ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

サクラ咲く

2014年09月29日 | ノンジャンル
季節外れのタイトルだが、娘が無事に
教員採用試験に合格した。

彼女の長年の夢に向かって、具体的な
一歩を踏み出したことになる。

受験と違って、この合格は喜ばしい事では
あっても、これまで経験したことのない
困難に挑戦していくという点で、
まさに新たなスタートとなる。

その仕事は、教育という、人の成長に
直結したものである以上、想像を絶する
苦難を伴うに違いない。

親としては、ともかくも、教育者となる
娘に対しては、心身ともに健全であり続ける
ことを祈るような想いで願っている。

若さとは、挑戦する情熱と意志の力である。

ならば私自身も、父親として挑戦し続ける
姿を見せねばなるまい。

冬の寒さが厳しければ厳しいほど、
春に咲く花は美しい。
そしてその花の命は短い。

あと何度、自分なりの花を咲かせられるか。
生きることは挑戦である以上、それは
死を迎えるまで続けていくことなのであろう。





初めと終わり

2014年09月26日 | ノンジャンル
断酒初期の頃を、飛行機の離陸に譬えたことがあるが、
出張で搭乗するたびにそのことを思い出す。

航空機は統計上、最も安全な乗り物とされる。
事故が起きれば、被害は甚大となることが多く、
そのせいで危険なイメージが伴うが、実際上は
事故に遭う確率は自動車や電車に比べてはるかに低い。

航空機事故の起きやすい時というのは、
離陸時と着陸時である。
地上から離れて飛び立つとき、そして、地上へと
舞い降りる時に最も大きなリスクが伴う。

離陸時は最もエネルギーを要するし、上昇して
巡航高度に達するまでが断酒の初期と同じように
苦しく不安定な時であろう。

まして雲の中であれば、何も見えない迷いの
最中にいるようで、肉体的というよりは
精神的にかなりの負担を伴う。

まず最初の一年と言われるのがその所以である。
無論、初めのひと月、3ヶ月、半年というのは
肉体的にも、精神的にも過酷な時期である。

ともあれ、飲まずに四季を過ごし終えたときに、
随分と楽になった記憶がある。
最低限のエネルギーで済む、巡航高度に
近づいたということだろう。

そして、時に乱気流に巻き込まれることはあっても、
体勢を立て直すのにそれほどのエネルギーを
要さなくなれば、もうすでに安定飛行に入ったと
いうことかもしれない。

今の自分は、断酒という点では安定飛行にあると思う。
素面で現実に立ち向かう力も、本当に徐々にではあるが
ついてきた実感もある。

さて、忘れてはならないのが、いつか迎えねばならない
着陸である。

その終着点に向かうとき、自分は飲まないで
いられるのかどうかはわからない。
もう最期を迎えるのだからという気にならない
とも限らない。

だが、せっかくの最期なら、無残なクラッシュではなく、
美しいランディングの姿で飾りたいとも思うのである。






自己中

2014年09月18日 | ノンジャンル
以前に、アル中は自己中と述べたが、行動面で言うと、
要するに自身のまいた種を人に刈らせておいて、
それを何とも思わない状態と言える。

もちろんこの病気は、肉体的依存が始まれば、
いわゆる内科的に悪い方向に行き、まともに歩けない、
動けない状況にまで陥ることはよくある。


それでも、他の病気と違うのは、こと、お酒を手に入れ、
飲むということについては、火事場のくそ力的な
力を発揮し、動くことができるということである。

本来、自分のことは自分でするのが自立であり、
それを自分ができない時に人にしてもらえたなら
感謝なのである。

ところがアル中は、感謝どころか、反省もない。
自己中というのは、何も病気の最中だけではない。
回復の過程にあってもそれは引きずられる。

先にも述べたが、回復とはこの自己中の状態から
どれだけ反省と感謝という、人としての根本を
取り戻していけるかなのである。

要するに、その人が回復していってるかどうかを
判断する手っ取り早い方法は、その人の口から
「ありがとう」「ごめんなさい」の言葉が
どれだけ出るようになったかを観れば良い。

そして、その言葉の本意を裏付ける行動が
伴っているかどうかなのである。

一言でいえば、回復度とは、自己憐憫からの
脱却度ということになるであろう。






懐の狭い社会

2014年09月12日 | ノンジャンル
気づけば朝晩が涼しくなり、空も秋めいてきた。

毎年、いや、毎回慌ただしい毎日の中で「気付けば」
ということが多い。

そういえば、たまにクリニックへ行くと、なんだか
女性の患者さんが増えていることに気が付いた。

昔は、それこそいかにもアル中といった風貌の年配の
おじさん達の中で、本当にちらほら見かけるぐらい
だったが、今では結構な人数の女性がいる。

女性の社会進出が奨励されて、政界にも昔に
比べればそれなりに女性議員の数が増えてきている。

結構なことなのだろうが、その分、女性にかかる
ストレスも質の異なる、重いものとなってきて
いるのだろう。

体格、体質共に、女性はアルコールに対して耐性が
低い。男性と同じようなストレス下で、お酒の場にも
出て、飲む機会が多ければ、さもありなんという
ことだろう。

残業で帰りが遅い時など、足元が危ない女性に
出くわすことも多くなった。

この国は、いつからか篩い分け、つまり
スクリーニングとクラス分けの社会を作ってきた。
その中で女性の進出というのは、非常に難しい
面がある。

むしろ、体感ストレスは男性以上のものがあるだろう。

役に立つか立たないか、できるかできないか。
要するに、平等を謳いながら、それと反する
クラス分けを当然とする矛盾は、極端に懐の狭い
生きにくい社会を作ってきたということだ。

母親というのは、どんな子供であれ、大きな懐に
包んで育むものである。
それを理想とした社会を作るはずではなかったのか。

これだけ女性の尊重が謳われている社会で、
女性患者が増えている現実に、どうしようもない
違和感を覚える。

それはそのまま、今の社会が寛容の社会ではなく、
ノアの方舟の様な社会であることの証左でもある。