ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

キャンプラル

2011年09月22日 | ノンジャンル
抗酒剤ならぬ、嫌酒剤があればいいのにと患者にせよ、
家族にせよ話をされるのをよく耳にした。

まだ認可はされていないが、飲酒欲求を抑える薬が
あるらしい。

商品名をキャンプラル、薬品名をアカンプロセートと
いうそうな。

欧米では認可され、精神療法と併用で一定の効果を
上げているらしい。

飲酒欲求は、初期において渇望に近い頂点期があるので、
その苦しい時期を乗り越える意味で有用されたらいい。

離脱症状が苦しくて、スリップを繰り返す人と同じで、
そのピーク時を乗り越える手段としては良いと思う。

また、断酒継続において起こる様々な弊害を軽減するのに
その人に応じて眠剤、安定剤が処方されるように、
対症療法として有用されるのもいいだろう。

ただ、我々の回復には、完治はないけれども、だからこそ
再生ということが重要な課題となる。

自身の生き方というものを改めて考え、決め、そして
行動していく。
そのもっとも大切な面に対して、弊害となることを
軽減するために様々な支援があると言っても過言ではない。

医療にせよ、処方にせよ、行政にせよ、自助グループにせよ
然りである。

健康な身体を取り戻し、処方も必要なく、自立の生活を
送れるようになって、医療、自助グループは人との関わり、
人との対話をメインとするなら、それが一つの回復の
指標でもあるだろう。

薬物で飲酒欲求を抑えるのと、自身の決めた生き方で、
欲求をコントロールするのとでは、やはり違いがあると
思うのである。

私の原点は、やはり院長先生の仰っていた言葉にある。

「いつでもどこでも手に入る、飲めるという環境に
 ありながら、飲まずに通院する。 
 そこに断酒継続の要諦がある。」

処方もない、自助グループへの参加もしていない私が
何とか断酒を継続しているのは、この原点がぶれていない
おかげであると感謝している。




クールルース

2011年09月20日 | ノンジャンル
この夏は、暑さを感じる間も少なく、あっという間に
終わってしまった感があるが、出張、現場の仕事が
多かったせいか、あまりネクタイを絞めなかった。

どれほど暑くても、例年はネクタイを締める。
仕事とプライベートのけじめというか、メリハリを
気分的につける意味でそうしてきたのだが、
今年はネクタイが邪魔になることが多く、節電で
クールビズ推奨の流れもあって、殆ど絞めることはなかった。

おかしなもので、涼しくなって、出張も落ち着いてきた
ところで、久し振りにネクタイを締めてみると
なんだか違和感がある。

何となく首回りが締め付けられるようで、
苦しい感じがする。
普段絞め慣れていない人が窮屈だという感覚を
初めて味わった。

それまでは、キリッと絞めないと気分的にもシャキッと
しなかったのが、わずか数ヶ月の間絞めないだけで、
もう窮屈な感覚となってしまっていることに驚いた。

人間、楽な方へ流れたなら、なかなか厳しい道には戻れない。
厳しい道に慣れてくれば、それを厳しいとも思わなくなる。

何十年と、このネクタイを絞める、外すで、公私の
オンオフをしてきた自分でさえ、たかが数ヶ月のオフで
オンを厳しく感じてしまう。

クールビズが、ルースビズとなってしまっては意味がない。

来年は、誰が何と言おうと、夏場をしっかりとネクタイを
絞めて過ごすつもりでいる。






夜長月

2011年09月05日 | ノンジャンル
9月に入り、初秋を少しは穏やかに過ごせるかと思いきや、
バタバタと予定が手帳を埋め、どうやら秋の夜長を
楽しむ暇はなく、快適な睡眠を望むばかりのようである。

さて、日本は残念なことに自殺大国と称されている。
ここ10年以上、毎年3万人以上の自殺者がいる。

交通事故死者数が、年間1万人を割って久しいというのに、
この自殺者数だけはどうにも減少しない。

主な原因は、心の病気、身体的病気などの健康上の問題、
経済的な問題、家庭不和などである。

物質的な充足が決して幸せに直結していないことは
事実として明らかである。

心と身体の問題は、切り離して考えられないが、家庭の不和、
経済的な問題、身体的な健康の問題などが、心の問題に
直結して、最終的に自殺へと進んでしまうようである。

アルコール依存症という病気も、メンタルな部類である以上、
断酒していたとしても睡眠障害、自殺衝動に悩まされ続けて
いる人も少なくない。

特に高齢化が進み、単身者が増える中では、その問題は
深刻化している。

いずれにせよ、最も大切なのは、心の問題であることは
明らかである。

それは、世相にも、批判、中傷、喧噪、愚痴、嫉妬という
負の側面に如実に表れている。

病気をしたなら、健康のありがたみがわかるはずである。
回復に向かえば、快気祝いをするだろう。
だが、健康祝いをする人は少ない。

愚痴の中に生きれば、愚痴を呼ぶ。
他人がどれほど悪かろうが、自分が良くなるわけではない。

感謝の中で、今の自分にできることを、できる範囲で
やっていけばよい。

どうもこの中傷合戦のような負のスパイラルが、
自殺者数の減らない、根深い原因のような気がする。

単身で、孤独な寂しさの中に生きている人達には、
当たり前のことなのだが思い出して欲しい事がある。

ひとりでは生まれてはこれなかったということだ。
今、自分自身が存在しているということは、少なくとも
二人の人間が直接的に関わっている。

父と母である。 どれほど今が孤独でも、この3つの
関わりは事実であり、変わることはない。

今更ながら、母親の墓前に手を合わせていると、
そういうことがなんとなく実感される。

なんでもない、当たり前のようなことが、本当は特別な
ことなのだと、感謝できる人が、幸せを感じられる。

愚痴の中で生きるのか、感謝の中で生きるのか。

苦労多く、短い生涯ではあったが、母親は幸せで
あったと思う。

いくら思い返しても、愚痴や人の悪口を母親が口にする姿を
憶えていない。 
その母親の息子であることに誇りを感じる。

自身の生きる心を支えるのは、やはり人なのである。
人との関わりを否定してはいけない。
むしろ、その関りにこそ、感謝していくべきなのであろう。

そして、生きる心の力を蓄えていくのである。