ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

累卵

2020年09月28日 | ノンジャンル
過敏な神経の持ち主というのは、ある意味
自己防衛の感覚が研ぎ澄まされているのだろうが、
それはつまり、累卵のような傷つきやすさを
持っているからである。

人から見れば、ある種の神経症とも映るその
過敏さは、持って生まれたものである以上、
生涯付き合っていく外ない。

物事を悲観的に捉え、人の顔色ばかりを窺い、
察し、先行きの不安に圧し潰されそうに
なりながら、そういう自身の過敏さに対する
嫌悪感に苛まれる。

こうして書いているだけで苦しくなってくるが、
私もまたその一人である。

飲んでいた頃は、お酒に酔って、自らを鈍磨させる
ことによって、一時的にその過敏さから解放された
ような錯覚に陥っていた。

確かに、アルコールによる麻痺作用で、
その過敏さも鈍化させられるのだが、別の感覚が
研ぎ澄まされることにもなる。

酩酊の中で、普段は見えていなかったものが見え、
それがさらに自身を傷つけるという事も
ままああった。

その研ぎ澄まされた神経は、離脱症状の時の幻視や
幻聴も冷徹に客観視し、聖域か、死地かの選択を
自身に迫った。

紙一重のところでクリニックに飛び込み、
いずれでもなく、生き辛い現実生活をやり直す
こととなった。

苦悩のどん底にあえぐとき、そこから逃れようと
死を思うのは、いわば普通であろう。
過敏な者は、幸せと喜びの絶頂にある時に、
尚、死を思う。

酩酊が、鈍磨とは成り得ないことを覚知し、
身体がアルコールを渇望するのは、
依存症という病気である事を認識して、
断酒を継続し、早や15年となった。

15年経っても、過敏さという事においては、
何も変わっていない。
変わったのは、その過敏さを誤魔化すのではなく、
受け入れる生き方を心がけてきたことである。

いや、むしろその過敏さをうまく使っていこう
という生き方と言うべきか。

15年経っても、変わらない事の方が多い。
だが、変わったことは、それを遥かに凌駕する
ほどの大きなものであると感じる。

それは、それ以上でもそれ以下でもない
ありのままの自身で、生き方を問い続けながら
今を、未来を生きていくという事に尽きる。

問い続けるという事においては、自身の卑下も
なければ、驕りもないのである。





生活行動

2020年09月23日 | ノンジャンル
生活行動を略して活動というのかは、
確かでないが、さもありなんと思う。

生きるを活かす行い、動きをしていくという
意においてである。

日々、自身の生を活かす行動をしているかという
問いかけは心がけてきたつもりであるが、今年ほど
この活動を制限された年はない。

動きを止められる事ばかりで、もう早や10月を
目前にし、一年の終わりさえ実感するまでに
至っている。

普通は、多忙な中で時間の短さを痛感する
ものだが、動きの制限が続いた上の緩慢さに
よって逆に時間の短さをより痛感させられている。

何かと節目となるはずだった2020年という年は、
なかった年の様に過ぎ去ってしまうだろう。
一年を棒に振ったとは思わないが、恐らく後年、
コロナの年という記憶しか残らないのではないか。

それでも、できることを精一杯に変わりはなかった
ようにも思える。
いやまだ過ぎ去ったわけではない。
まだその年の活動の中にある。

日々の積み重ねという意味では、節目も暦も
関係はない。
止まることのない日々の生活において、
自身がどう行動していくのか。

如何なる制限があろうと、そこに停滞は
あり得ない。
あるとすれば、自身の心の停滞なのである。

心だけは停滞させてはならない。
それはつまり、生活行動の停滞となって
しまうからである。

活かして生きる、動いて行う。
状況がどうであれ、ここに何ら変わりはないし、
これからも変わらない事だけは確かなようだ。





命みじかし

2020年09月17日 | ノンジャンル
恋せよ乙女と連想した人は、かなり年配かと
思われる

私もその一人だが、時空を超えた悠久の
営みの中で、今を生きる自身の短い時間を
考えるにつけ、如何にを問う事になる。

これは、永遠不変に生き続けるとすれば、
無用の問いなのである。

限られていることは動かしようのない
事実であり、それがどの程度に限られて
いるのかもわからない。

だからこそ、人は如何にを問うのである。

過去はどうであれ、今を生きている私は、
今を問い、それによって描く未来を夢見る。

それはそのまま、今の自身の行動によって
未来がどうなるかという事に他ならない。

未来は創るものであって、座して待つ
ものではない。
それは、成り行きというものである。

今を問わずに生きれば、楽かもしれない。

先行きの不安に苛まれながら生きるよりも、
今を楽しく生きる方が、人としては
幸いであろう。

だが、未来への希望と不安を併せ持ちながら、
今を問い続け、行動していく中に、
限りある命を生きる醍醐味があるのではないか。

悩み続け、望み続け、願い続け、動き続けて、
これからも生きていく。





嵐の週末

2020年09月07日 | ノンジャンル
9月の台風と言えば、一昨年の21号が予想外に
大きな被害をもたらした記憶が新しい。

近畿、なかんずく大阪に来る台風は、
直撃と予想されていても、直前で逸れることが多く、
過ぎてみれば、何という事はなかったということが
多かった。

そんな何の根拠もない楽観と、舐めた意識を
吹き飛ばすかのような、猛烈な台風だった。

もう2年になるというのに、未だに修復がなされて
いないところも多い。

今回の台風10号は、進路こそ西に外れている
とはいえ、その気象衛星の画像に慄然とした。

くっきりとした台風の目は、まさしく21号の時を
思い出させるものだった。
進路にしても、あくまでも予測であり、どこで
どうなるかはわからない。

様々に、不測の事態に対応できるように
準備した人も多かったのではないか。

実際のところは、風や雨が強まっただけで、
台風らしさもなく過ぎ去ってしまった。

いや、しまったというのは、おかしい。
何事もなく、過ぎてくれたというべきである。

おかしなもので、想定していた状況よりも
遥かに軽微で、拍子抜けしてしまうと、
何だか損をしたような気になるのが大阪人である。

拍子抜けというのは、つまりは良かったのであり、
手ごたえ十分であれば、大きな被害が出たであろう。

万全を期して、拍子抜けする。
災害大国においては、結果としてはこれが
最高のものであろう。

最悪を想定し、できる限りの準備をして、
いざその時に、なんやそれと拍子抜けするのが、
いわば、幸せというものなのである。