ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

限りある命

2008年06月28日 | ノンジャンル
この世に生まれて、たかだか100年足らずの間、同じ時代を
生きる全ての人に出会えるわけでもなく、悠久の時の中では
ほんの一瞬に過ぎない時を人は、泣いて笑って生きている。

なにもないことを、退屈と考えるのか、穏やかな日々に
感謝して生きるのか。

何気ないことを、あたりまえのこととして見送るのか、
それを特別なことと、幸せを感じるのか。

いつの世も人は豊かさを求め、不老長寿を願う。
得られない心の豊かさの代わりに、物の豊かさでごまかす
遠回りを繰り返しながら、限りある命を嘆くのか。

限りがあるからこそ崇高な命と、心の尊さを知るべきか。
人として生まれた歓びは、一瞬の心が永遠の時の流れの中に
渾然と一体であることを観ずる事にある。

限りある命を生きながら、限りない時を知るのである。





ガネーシャ

2008年06月27日 | ノンジャンル
出版業界は、「ゾウさん」ブームらしい。

書店でも、ネットのランキングでも、ゾウさんがらみの書籍や
絵本が並んでいる。
「○をかなえるゾウ」という本が評判なので、パラパラとページを
繰ると、確かに面白そうである。買おうかとも思ったが、高いのと、
文庫本サイズではないので、やめておいた。

大体、通勤や休憩時間に本は読むので、あまり嵩張るものは
持たない。大抵、文庫本で再版されるのを待つ。

と、珍しくカミサンが本を買ってきたようで、テーブルに書店の
包みが載っている。彼女と私では好みのジャンルがまるで違うので、
普段は気にも留めないのだが、ふと、今度は何を買ったのかと
見ると、その「○をかなえるゾウ」であった。

ああ、買わなくて良かったという話をすると、私に、先に読めば?
とのこと。
読みたいとは思ったものの、買わなかった本だけに、
一気に読み進めた。

ガネーシャという、頭がゾウの神様が、自分を変えたいと願う
若者に、次々と課題を出していき、その若者の成長を見守る
内容なのだが、ともかく面白い。
このガネーシャという神様、なぜか関西弁を話し、その理論の
展開たるや実に澱みがない。
しかも、神様というには程遠い俗っぽさや、可愛げがある。

あまりネタバレとなるような事は書けないが、要するに、
このガネーシャが出す課題は、行動の課題である。
もちろん考える事は大切なのだが、それ以上に、行動する事に
課題の重点がある。
なるほどと唸らされる事が盛り沢山なのである。

で、今回の記事の主旨は、思考と行動についてである。
と書くと、またまた硬い事をと思われるだろうが、
簡単に言ってしまえば、私とカミサンの違いについてである。

私は、本を一通り読んで、その中から心に留まった事を
改めて確認し、それから出来るだけ行動に移そうと努力する
タイプである。

彼女は違う。
本の中にはいくつもの課題が出てくるのだが、彼女自身が
納得した課題であれば、即座に実行に移す。
もちろん、本を読んでいる途中である。
つまり、一通り読む前に、これは良いと思えばそれをすぐに
実行するのである。

例えば、少し披露すると、朝一番にトイレ掃除をする
というのがある。本を読み始めた次の日の朝から、彼女は
トイレ掃除を始める。
仕事をする人間を支える靴を、綺麗に磨いて手入れをしておく
という課題がある。
またまた、次の朝から、私の出勤前に靴を磨いている。
冗談で出掛けに100円玉を駄賃で渡してからというもの、
毎朝100円を渡す羽目となってしまった。

とまれ、私が一通り読んでから行動に移す事を、彼女は
読みながら行動に移していける。
これは、なかなか真似の出来る事ではない。
もちろん、本の中でも、このなかなか行動に移せない事が
そもそもの問題であるとの指摘があるが、彼女の場合は、
ごく自然に身体が動くようであり、動かないと逆に気持ちが
悪いようである。

なんでも実際に自分でやってみて、判断するという点では
同じだが、そのやってみる早さがまるで違う。
見習いたいと思いながらも、現実にはなかなか彼女のようには
いかない。

思考派の私と、行動派の彼女。
それぞれがそれぞれの弱点というか、欠け気味となる面を
補い合う事で、うまくいくのかもしれない。
似たもの同士でうまくいく場合もあれば、まったく異なる
タイプである事が、1+1=2よりも大きな結果をもたらす
場合もあるだろう。

彼女の暴走を私が制御し、私の停滞を彼女が打ち破る。
まあ、ある意味、良いバランス関係なのかもしれないと改めて
認識できた、日常のひとコマであった。



徒然に

2008年06月25日 | ノンジャンル
どうもいろいろと思考が散漫になり、ごちゃごちゃとしていて、
なかなか整理がつかない。

記事を書くときはある程度思考を整理して、まとめる意味で
文書にしているが、それすらもままならない。

精神的に不安定だとも思えないので、どうやら少しずつ
様々な視点で物事を見ることができるようになってきたの
かもしれない。

それぞれの視点から見て考えることがごちゃ混ぜになって、
どうにも整理ができないのである。

それもひとつの暫定的な状態であろうと思われるので、
散漫ながら書いておくことにする。


依存症真っ只中の時にはとにかく、何でもかんでも
周りのせいにしていた。
他人のせい、仕事のせい、世間のせい、社会のせい。。。
なんということはない、すべては自分のせいであることを
知りながらそれを認めたくなくて、お酒を飲んでは周りの
せいにしていた。自分は周りのために必死に頑張っている。
それで物事がうまくいかないなら、周りのせいにするしか
なかった。

こんなに生き辛い世の中で、自分だけじゃない、守って
いくべき家族も、会社もいつしか負担となって、飲まずには
生きていけなかった。

弱い。弱すぎる。なんと弱い人間であろうか。
常に自分を人に対して貸しがある立場、つまり滑稽にも、
人より上の立場においておかないと安心できない、
狭小な精神の持ち主である。
今、断酒しているからといって、その精神がガラッと
変わったわけでもない。
ただ、その狭小さ、弱さを自覚しているだけである。

そうして、どんどん狭小な精神の中に埋没していく私を、
繰り返し引き上げようと手を差し伸べてくれたのは
カミサンである。
何度も期待し、何度も裏切られ、何度も悩んだあげく、
自分だけならともかく、子供達まで共々に地獄へ引きずり
込むことは何があってもできないと覚悟を決め、
自分ひとりででも、子供たちは守り抜くという一点で、
私に離婚を迫った。

彼女が強い人間だからではない。崖っぷちまで私が
追い込んだ結果、彼女が他にはもうどうしようもない上での
決断であった。

自分でも自分をどうしようもなかった私が、その必死の
覚悟に触れて、正気を取り戻した。
追い詰められて、初めて自分が本当に望んでいることを
はっきりと気づかされた。
酔った頭で、消えてしまいたいと思っていた自分は、
本当は、家族の一人として、皆の笑顔の中で暮らして
いきたいと望んでいることに気づかされた。

昔のこと、過去のこと、済んでしまったことは取り返せない。
償いなどと、口にするのもおこがましいが、家族の笑顔、
楽しい家庭という、自分の本当に望んだものを実現して
守っていくこと、そして、次の世代、また次の世代へと、
その恵みの連鎖を繋げて行く事。
今を生きるのはそのためであり、これからもそれに
変わりはない。

私が病気だと知ったとき、家族はそれぞれの出来る限りの
ことで私を助け、支えてくれた。
私が病気と闘い、立ち直って家族を守っていく決断を
したからこそ、同時に家族に守られた。
人は、一人では生きていけない。だが、一人立つ、自立の
覚悟がなければ、支えてくれるものはいない。
支えあって生きていくのであって、互いに依りかかって
生きるのではない。
片方が倒れたとしても、もう片方はしっかりと立って
いなければならない。
共に倒れたなら、その家族は成り立たなくなってしまう。

カミサンがある時、私に言った事がある。
「本当にどうしようもなかったけれど、もう済んだこと。
 今が大事。これからが大事。」
どれほど救われたことか知れない。

断酒が償いとは、彼女にすれば笑止であろう。私自身、
それほど図々しい人間ではない。

今を生きる、これからを生きる、未来を生きる。

償いということは、私にとっては、次の世代、その次の世代を
見守って、家族の恵みの継承を実感できた時のことであると
思っている。

人間は、自分のためだけに生きていけるほど強くはない。
生きていく手段である断酒も、自分のためだけであれば
続かない。
いかに生きるのか、生きて何をなすべきなのかを考え、
行動していく中では、断酒は取り立てて考えることではなく、
必然であり当然なのである。

本音を言えば、断酒継続は、褒められることでも、
誇れることでもないと思っている。
それでも、継続できていること、節目を迎えられることは、
自身にとっての励みともなり、それが同じく断酒によって
今を生きる人たちへの励みとなるのであれば、
本当に嬉しい事である。

誰のせいでもない、自分のせいでなった病気である。
過去は消せないが経験も消えない。
弱いながらも、支えられながらも、過去を抱きしめて、
経験を昇華させながら、今を生きる。これからを生きる。
そして未来を生きる。

思考はごちゃごちゃで散漫ではあるけれど、3年を過ぎて、
ありのままの自分を受け留め、ひとつ積み重ねるごとに、
ひとつ前へ進む、成長していく日々でありたいと、心静かに
願うのである。



スイッチオン

2008年06月22日 | ノンジャンル
普段飲まずに過ごしていると、つい忘れがちなのだが、私は
決して消す事の出来ない回路を頭に持っている。

アルコールに対し、全く無力となる、いわゆる制御不能
回路である。
この回路を閉じる事、すなわちスイッチをオンにする事は、自ら
制御を失わしめることを意味する。
そしてその回路を閉じるには、たった一杯のお酒で十分なのである。

その一杯が自分の意志であろうと、事故であろうと、スイッチを
オンにする事には変わりが無い。

どうもこの辺に、おかしな自信の様なものが出てきている気がする。
接待や酒席で、目の前に一杯のお酒があっても、それに手をつける
気は毛頭無いが、仮に知らずに飲んでしまったというような、
不測の事態であれば、自らが飲みたいと思って飲むのとは違うの
だからという、厳しく言えば油断があるように思える。

そういった事故が無いように注意はしているものの、万が一
そうなったとしても、事故として割り切り、その後はまた
変わらずに飲まないで過ごせるという、誤った自信がどこかに
あるのではないかと、反省をした。

一杯のお酒がスイッチを入れる以上、それがどういう事になって
いくのかは、予想できない。だからこそ、万が一にも一杯のお酒に
手をつけてはならない。必然であろうと偶然であろうと、
この一点は絶対にはずせない根本的な事なのである。

今一度謙虚に、真摯に、そして素直にこの点を自身の内に確認し、
刻み直しておくべき時かも知れない。
何が何でもその一杯に手をつけない、その一杯から身を守る
という原点を、改めて肝に銘ずるべきなのである。

昨夜の酒席で、目の前にビールの注がれたグラスを置かれ、
そのグラスを眺めながらそんな事を考えていた。
今の自分の余裕は、これまでの経験の積み重ねで出来てきたもの
であるけれども、その余裕が、油断へと質を変える時が、最も
警戒心を高めておくべき時なのである。

勝つために兜の緒を締め、勝てばさらに締め直すという事を
これからも繰り返していかねばならない。
大丈夫と、たかをくくる時が油断の時なのである。




走り続ける

2008年06月21日 | ノンジャンル
新卒で就職してからというもの、これまでに転職の
経験はない。
どちらかといえば飽き性な私が、長年に渡ってひとつところで
頑張ってこれたのは、その多様な仕事内容と、自由な環境に
負うところが多い。

決まった業務を繰り返し行う仕事であれば、こうは
いかなかったであろう。

良く言えば、常に新規営業の企画、立案をしながら、
あらゆる分野の人とのつながりを構築し、自身も勉強をして
事業化に向け努力するという事を行ってきた。
悪く言えば、なんでもやります課にいるようなものである。

一つの事業はやはり3年、5年というスパンで移り変わって
いくものだが、この10年を振り返ると、殆んど毎年、
立ち上げ、中断、終息という事が多く、もう少し長期安定継続
というものがないのかと、嘆息している状況である。

立案、企画、折衝、人事、経理、広報、提携、供与、調査、
審査、検証、監査、交渉、出張、視察、研究、開発、プレゼン、
立会い、接待、斡旋、受注、業務、貿易実務、契約草案、締結、
更改、合弁、投資、特許、経営、統括、管理。。。

業務内容を挙げていくときりがない。大手の会社ならきっちりと
部門が別れて、専門的に機能しているだろうが、一人が何役も
こなさなければならない現状は、少数精鋭の人材群とはいえ、
個々にかかる負担は過大なものとなる。

それでもやり甲斐は非常に大きいので、それが個々の支えとも
なっているとは思うのだが。

与えられる業務を着実に遂行していく事は、日々の継続的
安定感と規則性をもたらすが、同時に倦怠も知らず知らずの
うちに蓄積される。
常に新鮮な仕事の機会は、活性化と向上心を生み出すが、
その新規事業が安定継続に至らなければ、なかなか達成感が
得られず、危機感に曝される事が常態化してしまう事になる。

いずれの場合も、偏りが問題となっていく事は間違いない。
事業の拡大、新たな展開にエネルギーを注ぐ者が、
その後一定期間、継続的安定感に身を置くというのが最も
理想的なのだが、現実はなかなかそううまくは行かない。

本音を言えば、せめて3年ほどの安定期間が欲しいものだが、
現実は毎年波乱の繰り返しとなるであろう。
性分としては、波乱の方が合っているのかもしれないが、
いい加減、少しは落着いた年がないものかと、精魂尽き果てた
ような感に襲われる事がある。

このところ月日の経つのが加速度的に早く感じるのも、
ここのあたりが深く関係しているようである。
こうして、落着きのない日々を重ねて年を取っていくのかと
思えば、淋しくもあるが、同時に年を重ねる毎に、その役割
というか、成すべき事があるはずなので淋しくもない。

走っているうちは、どれほどの汗をかいて、どこまで来たのか
をあまり意識していない。
止まった時に吹き出る汗と、感じる渇きと、振り返って見る
道の遠さで、初めて気付くものであり、いつかその時が
来るまでは、やはり走り続けるのである。

人生とはそんなものであるかもしれない。