ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

ターニングポイント

2009年02月28日 | ノンジャンル
飲んで死ねたら本望だ。

飲めないなら死んだ方がましだ。

本気でそう考えていた時がある。

周りから見れば、このまま飲み続ければ死んでしまう事は
明らかなのに、本人にすれば、生きるために飲み続けている。
飲まなければ生きていけないと、本気で信じている。

ターニングポイント。言い換えれば底つき。
これは人それぞれであるが、要するにこのまま飲み続ければ
死ぬという事を本人が自覚する時である。
それは肉体的死のみではない。家庭内での死、社会での死、
精神の死、理性の死と、様々である。

早期に自覚し、対応する事はどんな病気でも大切であるが、
自覚できるのはかなりひどくなってからでないと難しい。
我慢強い肝臓のおかげで、自覚症状など殆んどないからである。

いずれにせよ、転換点を迎え病気を認識したなら、生きるために
飲まない、飲んで死にたくはないという自覚に変わる。

生きるために飲んでいたのが、飲まずには生きられなくなった。
飲めば死ぬ事がわかって、飲み続けて死ぬか、飲まずに
生きるかのギリギリの選択に迫られた時、生きる事を選んだ。

飲まずに生きる事の難しさ、辛さ、苦しさと一つ一つ
向き合いながら、それでも生きる事を選んだ軸はぶれていない。

苦しさ、辛さから酩酊の世界へと逃れ、虚構の楽しさの中で
現実を忘却してはまた現実に引き戻される事を繰り返していた
地点から脱却し、今は苦しさの中にこそ楽しさがあり、
辛さの中に喜びと嬉しさがあることが少しずつわかるように
なってきた。

苦しい時は苦しいまま、楽しい時は楽しいまま、苦も楽も
あわせて受け容れる、そんな心境に至るにはまだまだかも
しれないが、一歩一歩でも近づいて行きたいものである。


裁判員制度

2009年02月23日 | ノンジャンル
今年の5月から実施される裁判員制度。裁判員として
名簿登録されたことを公表することは禁じられているが、
登録されていないことを公表しても問題はないであろう。
どうやら今回はこの責任を免れたようである。

人が人を裁くなど、初めから無理があるのだが、
司法がなければ社会秩序の安定は望めない。
間違いを犯す人間による裁判はそれ自体不完全ではあっても、
必要不可欠なものでもある。

その最低限の知識と資格と判断力を有す者に委ねてきたものを、
広く一般に開き、裁判に参画させることで実際の
社会生活通念を反映させ、判決に至るまでの時間を
短縮させることが大きな狙いである。

本音を言えば、他人の人生に関わる重大な責任を、
その方面に関してど素人の私が負うなど、
真っ平御免である。
同時に、日常生活においてまったく関わりのない司法の場で、
これまでは考えられなかった経験ができるというのは
大いに興味深い。

つまり、負わなくてもよい責任を負いたくはないという
気持ちと、自身にとっては斬新な経験をしてみたいという
好奇心とが半々である。

性格的に、万一この経験をすることとなった場合、
とことんのめりこんで、悩みの闇に陥ることは目に
見えている。
自分の事として見た場合、他人の事として見た場合、
被害者の立場、加害者の立場と自己の中で検証をしていく
ことは半端な考えでできることではない。
懊悩に近い状態に自らを追いやることになりそうで、
できればやはり避けたいものである。

人は完全を目指すことはできるけれども、完全とは
なり得ないし、間違いを犯すものである。
つまり、俗に言う「冤罪」というものは、最少化はして
いけるであろうが、ゼロにはなりえない。
それを思えば、逡巡せざるを得ないのである。

だが、自身が生活をしている社会において必要なことは、
自身にとって必要なことである。
誰しも、権利と自由のみを主張して生きていけるわけでは
ないし、社会生活はそれを許さない。
権利と自由には不可分として、義務と責任が表裏一体と
なっている。

現実の真っ只中に飛び込んで懊悩することを避け、
外から眺めながら批判や中傷をするだけの無責任な
立場は取るべきではない。
それが社会生活をする成人の心得でもある。
裁判員として選ばれたなら、その責任を全うすべく、
精一杯の努力をするのみである。



YES WE CAN

2009年02月22日 | ノンジャンル
オバマ大統領の就任演説が反響を呼んでいる。

その演説集などの書籍もかなりの売上を上げている。

私も就任演説の特集を買ったが、そこにはオバマ大統領は勿論、
リンカーン、ケネディ、キング牧師の演説も収録されている。

歴史的には浅い国家ではあるが、その特異性は殆んどが
移民であり、土着のインディアンは少数民族となり、殆んど
世界の全ての民族がひしめき合って成り立っている点である。

国家、国民と言えば、少なくとも共通の言語、文化、習慣を持つ
ある民族によって形成される場合が殆んどであるが、
この新大陸は様々な紆余曲折があったにせよ、その懐の大きさで
多様な民族を受け容れてきた。

それぞれの民族は当然ながら同じ言語や文化の中で安息を
感じるので、その地域にコミュニティーを形成する。
同一国家内の民族分布を見れば、見事なパッチワークの
模様となるであろう。

これがひとたび世界の中で国家としての緊張状態に入ると、
不思議にも見事な結束力を発揮する。9.11のテロの折に
見せた国家としての結束は記憶に新しい。

この国の大統領の演説は、国内に向けて訴えると同時に
世界に向けて常に発信されている。
世界のあらゆる民族によって形成されているこの国において
国内に向く事は既に世界へ向いている事となるのである。

翻って日本に目を向けると、この国も決して単一民族によって
形成されているわけではないが、国内に向けて訴える事は、
日本と言う一国家、国民に向けられたもので、狭小な印象を
免れない。首相演説を聞いても、いわゆるこの国独特の口上を
聞いているようで、ピンとこないし感動も無い。

合衆国大統領のように、世界に向けた普遍的な発信が
できないものかと思うが、これはまるで置かれた状況が異なる
中で比較するのは酷というものだ。

「合衆国」と「日本」の根本的な違いは、端的に言えば
「カッコイイ」大統領演説と、「棒読み」の首相演説に如実に
現れている。向いている方向と目線がまるで異なって
いるのである。

戦争へと突入して行った過去を否定的に見るばかりではなく、
「大日本帝国」の構想の建前として掲げたアジア圏の
欧米支配からの解放と言う発想が、現在よりも遥かに国際
社会への感性の高さを示していた事実にも目を向けるべきである。

独自の歴史、伝統、文化を継承して行きながらも、未来の
この国の形は、単に「日本」で済まされるべきではないし、
済まされるはずも無いと思うのである。

「私」が家庭生活、「公」が国家という時代から、
「私」が国家、「公」が世界という時代となって久しい。
「公」に尽くすことが畢竟「私」の幸福につながる事を認識し、
行動していくことが、現在の難局を抜本的に打開することに
なると考えるのである。

一人一人に約せば、その人ができる事を精一杯やっていく事に
尽きるのである。

「YES WE CAN」とは、そういう意味である。




廃棄処分

2009年02月21日 | ノンジャンル
人間を機械に例えるのは良くないのかもしれないが、理性という
制御のもと、思考と意志に従って行動するという点において、
制御装置と機構になぞらえると解りやすいので敢えて例える。

制御装置が狂って、機構が暴走すれば、これはもはや、
本来の望まれる機能を満足できないばかりか大きな事故に繋がる。

逆に、制御装置が正常でも、機構に故障があれば同じく
機能しない。
いずれにせよ、機械であれば、制御装置、或いは機構の
修理となり、人間であれば心療、治療、療養となる。

問題は、人間の場合、部品交換、装置交換による制御装置修理が
できない点にある。肉体的、つまり機構的にはかなりの範囲で
部品交換ができるようにはなってきている。

だが制御装置だけは、ほんの部分的な交換も不可能である。

機構に故障があり、制御通りに動けないのも、制御に問題があり、
機構をうまく動かせないのも共に不幸ではあるが、機構も正常で、
制御も機能している中で、制御装置内の支障を同時に認識している
というのは非常に危険な状態である。

外から見れば正常な動きに見えているが、制御装置自体が、その
異常な状態を認識している以上、制御可能な間に対策を施そうと
するのである。

離脱症状のさなかにある時、それが一過性のものであるとは
自覚しながら、三日に渡り、四六時中の幻覚と幻聴と闘う中で
その異常さが度を増していくなか、これは完全にコントロールを
失い、自分の行動を制御できなくなってしまう前に廃棄処分と
したほうが良いかと、何度も思った。

事実、処分しかけた局面もあった。
あまり想像したくは無いが、再びこの状況に陥ったと
したなら、淡々と廃棄処分とするつもりでいる。

つまりこの点において自分の日常に死を意識しているのである。
断酒が終わる時は死ぬ時であると見れば、制御を失うことは
廃棄に直結すると端的に考えてもいる。

虚勢でも気負いでもなく、なんとなく静かな心得として
腹に沈んでいることなのである。
これから、年を追う毎に、より深く沈んで、心底で固まって
いくのであろう。



雑感

2009年02月19日 | ノンジャンル
「歯医者」

昔から嫌いだったが、何より治療費が高いというのが、
家計に負担をかけると気にしていた。
長年、虫歯や歯痛には悩まされた。

自分で稼ぐようになってから、治療を受けてきれいに治した。
それから定期的に検診を受けて、メンテしている。

食べるという事は基本だから、しっかり噛めることは
大切であると本当に実感している。
噛めない歯で食事を楽しむことはできない。

今や食事が大切な楽しみの一つである以上、これからも
大事に歯の手入れをしていきたい。


「MとW」

人生、良い事も悪いことも半々といわれるが、M型か、
W型かどちらが良いか?
上昇、下降、上昇、下降のM型か、
下降、上昇、下降、上昇のW型か。

肉体的にはM型が普通なのだろうが、精神的にはW型で、
上昇の気魂の中で逝きたいと思う。


「胎内記憶」

始めから終わりまで陰鬱とした曲には滅入るが、どんなに
明るい曲でも、どこかに哀愁を感じることができれば、
その人の感性が成熟してきている証左だろう。

生まれた頃の曲は、その後聴き覚えがあるから懐かしく
感じるのだろうが、自分の生まれた年の頃の曲を聴いて
みると、何となく母親のおなかの中で聴いていたような
気がする。

これも珍しいフランスの曲だが、ひょっとすると母親が
好きで聴いていたかもしれないと思うのである。

</object>

ところで、胎内の安心から一転、産道を通って苦しみながら
生まれ出た嬰児が不安や不快、空腹で泣くのはわかるのだが、
耳も良く聞こえない、目もまだ開かない時期に笑うのが
不思議で仕方がなかった。

何が嬉しいのか楽しいのかさえわからない時期で
あるはずだのに、笑うということは、何か記憶を持って
生まれてきたのではないかと、飽きもせずにその顔を
眺めていることも多かった。

そして、言葉も話せない幼児が、幼児同士で確かに何らかの
コミュニケーションを取り、仲良くしていたり、
わかりあっている様子は、これまた不思議であった。

五感の発達と成長とともに、そのもともと備わっていた
感性というか能力が退行していくのであろう。

不謹慎ながら、五感のいずれかに障害を持つ人は、
それを補って余りある潜在能力を開花させているの
かもしれない。


「自分の目で見る」

情報技術の発達により、座していて様々な情報を簡易に
得ることができるようになったが、実際に現場を見て
状況を確かめるという基本的なことが徐々に蔑ろに
されてきている。

これは、ひとつ情報が誤っていれば、その影響する
ところは甚大で、致命的な弊害をもたらす可能性もある
ということを認識した上でないと、非常に危険である。

空理空論で机上の議論を繰り返すよりも、実際に現場を
見て確かめ、その上で判断、決定をする原則を見直すべき
時期に来ていると思われる。

もちろん、全ての現場を訪れて確かめるというのは物理的に
不可能ではあるが、それでも、大切なことは自分の目で見て
確かめるという原則に変わりはない。

氾濫する情報に蠢動されている自身に気がついたなら、
現実を直視して、実際を確かめるほかはないのである。

全ての情報に懐疑的になる必要はないが、疑問を感じる
ものには自らの行動で確認し、判断する姿勢を常に
持ち続けたいと考えている。