ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

人として

2017年04月30日 | ノンジャンル
一人の校長先生がいた。

幼い頃から奉公に出て、勉学に励んだ彼は、
学問に対しての渇望を、教育への熱情に
昇華させていった。

「教育は子供達の幸福のためにこそある。」

生涯、その信念がぶれることはなかった。

家庭の事情で学校に来れない子供たちの家を訪問し、
子供を学校に来させるよう、親を説得して歩いた。

いかなる権威をも教育に干渉、介入させなかった
ことから左遷され続けたが、その信念にはなんら
揺らぎはなかった。

記念写真などでは、にこりともしない表情だが、
子供達には柔和であった。

しらみで痒い身体では勉強などできないと、
始業前に子供たちと共に風呂に入った。

机上だけでは、せっかくの創造力を損なうとして、
遠足を初めて行った。

弁当も持ってこれない貧しい子供たちが多かった。
腹が減っては勉強などできないと、学校で昼食を
準備した。最初の学校給食である。

子供たちの見せる心からの笑顔。
それが彼の無上の喜びであった。

現代の教育や教育者を云々するつもりはない。

ただ、常に彼の言葉が現実生活の上で、自身の
行動の規範の一つとなっている。

「良いことをしないのは、結果として
       悪いことをするのと変わらない。」

人との関わりから離れたなら「個」、
人の中にいれば「衆」。

人として生きるということは、衆として生きる
ということであろう。

自身の徒然日記も、こうしてブログ記事とすれば、
個ではなく衆ということになる。

これからも衆の中で生きていく。
それは、無関心との終わりなき闘いでもある。





雑感

2017年04月28日 | ノンジャンル
「類は友を呼ぶ」に成長はない。

互いに謙虚でありながらの「切磋琢磨」にこそ
成長はある。

「批判・中傷」に成長はない。

正面、反面を問わず、「触発・行動」にこそ
成長はある。


「幸せ」というものに定義はない。

それは論ずるものではなく、感じるものであり、
その人の感性の問題でもある。

より大きな幸せを感じるには、やはり艱難辛苦という
条件が不可欠となる。

人の成長も生き方も、その艱難辛苦の中でこそ
育まれ、確立されていくのである。

そして、品格とは、その艱難辛苦を乗り越えた
結果が、驕りとなれば下品となり、人に寄り添う
優しさとなれば上品となる。

世法上の事ではなく、この上品か下品かを、
自身に問い続けることが、最も大切なのである。





泣かぬ涙

2017年04月27日 | ノンジャンル
生まれてきたときは、ともかく自分の生命を守る
本能で母親を呼ぶために泣く。
自分では何もできなくて、泣くことで人の助けを
ひたすら求める時期である。

やがて、自ら痛い思い、悲しい思い、苦しい思い、
辛い思い、悔しい思い、淋しい思い、怒りの思いを
経験し、またそれをどうしようもなくて泣く。

泣くことは悪い事ではない。むしろ抑えることの方が
心身共によほど悪い影響を及ぼす。

だが、一つ忘れてはいけないのは、それは自分の
ために泣いているという事だ。

自分を癒すためであれ、人に助けを求めるためであれ、
つまりは自分のためである。
その意味では赤ん坊と変わらない。

昔、泣いているのに少しも涙の出ないアイドルが
いたが、歳をとって、経験を積むとその分、心の
琴線が増えてゆく。

経験を豊かにしてきた分、人の喜びや悲しみに
敏感に共鳴することができる。

若い時にはあまりできなかった、人の喜びを
自分の喜びと感じ、人の苦しみや悲しみを、
自分の苦しみや悲しみと感じることができるように
なっていく。

それは、自分のために泣いているのではなく、
人と共に泣いている。

心の中で、人に寄り添い、共鳴して泣いている者の
涙は美しい。

自分のために、顔をしわくちゃにして泣くのは、
赤ん坊のときだけで良い。

喜びも、悲しみも、淋しさも、苦しさも、怒りも、
共に分けあって、心で泣く人があふれさせる涙。

そういう涙を流せるようになることを、
成長というのである。





情報統制

2017年04月25日 | ノンジャンル
ここは中国である。

喫煙室にいるような大気汚染の中で感じる息苦しさと
同じように感じる閉塞感は、その情報統制にある。

LINE、GMAIL、FB、YouTubeはもとより、
国外サービスのSNS、掲示板も統制下で使用できない。

それは即ち、各個人の表現の自由が制限され、
ばかりか、監視下にあるということだ。
いきなり公安に踏み込まれるということも少なくない。

他国の異なる主義によるものというだけでは
済まされぬ。

日本で進められている共謀罪法案なるものに、
この閉塞感を自国でも味わうことになるのではないかと
薄ら寒い思いがするのである。



ネクタイアル中

2017年04月23日 | ノンジャンル
アル中のイメージは、朝から晩まで飲んだくれている
ホームレスのような容貌かもしれない。

私自身も昔はそんなイメージを持っていた。
それとはかけ離れた自身の姿を、いわゆるアル中の
否認の主要な根拠にしていたと思う。

朝ネクタイを締め、出勤し、夜に飲むことを楽しみに
仕事に励み、翌日は二日酔いでお酒の抜けないまま
出勤前にむかつきを抑えるのに胃薬を飲み、
夜になればまたお酒を飲むということを
繰り返していた。

休日前は深酒、休日は昼過ぎまで寝て、また夕方から
飲み始める。

二日酔いがひどくて、昼から出勤、欠勤が多く
なっていったが、それでも夜には飲んでいた。

当時を振り返れば、完全にお酒に支配された
生活だったのだが、その時は夢にも自分がアル中とは
思っていなかった。

それを自覚させたのは、たった一晩お酒を抜いた
だけで出た幻覚症状であった。

人により様々な経緯と形態はあるだろうが、要するに
アルコールの支配下に置かれ、自身のコントロールを
失えばアル中であることを知った。

スリップの経験なくこれまで断酒継続出来てきたのは、
他の支配下に置かれ、自身のコントロールを失う
ことの恐怖がよほど大きかったからだと思う。

それは底付きであったかもしれないが、生死の境の
ギリギリのところであったことは間違いない。

お酒を飲む人が皆アル中になるわけではないが、
誰もがアル中になる可能性はある。

そして、アル中となってしまった時に、回復の
道へと進める人は残念ながら限られている。

幸いにもあの時、その道へ一歩を踏みだせたことを
今は感謝するのみなのである。