日は沈み、日はまた昇る。
それが当たり前のように、意識することすらないほど
忙しい日々に追われている間は、余計なことは
考えなくて済むのだが、絶え間ない変動を嫌でも
気づかされるのが、季節の変わり目であろう。
夏の終わり、秋の初めは、特にその感が強まる。
一日たりとも忘れたことはないが、ふと、もういないのか
という実感でもないような不思議な淋しさを覚える。
これが秋の感傷というやつだろうか。
毎年、お盆が過ぎ、秋のお彼岸が過ぎる頃、亡くなった
方々に想いを馳せることが多いのだが、心の片隅に
残る悔しさが拭いきれずにいる。
感傷でもなく、自責でもなく、憐憫でもない。
本当の意味で、生きる力になってやれなかった
己の不甲斐なさである。
泣きながら生きるのと、泣きながら逝くのとでは
天地の差がある。
縁あって関わりを持った以上、その関わり自体が
互いに益するものであるのが理想だが、現実は
そううまくはいかない。
時には互いを害し、共倒れということもままある。
他に害されながら、他を害することだけはしまいと、
自身を害することになったのかもしれない。
今となっては是非もないが、自らの心情としては、
この悔しさを抱きながら、これからも生きていく。
私には私なりの為すべきことがあるだろうし、
最後の時を迎えようと、それを為そうと前を向いた
姿でいたいと思う。
生きる姿を子に示すのが親であるなら、何があろうと
示しはつけたいと願うものなのである。
それが当たり前のように、意識することすらないほど
忙しい日々に追われている間は、余計なことは
考えなくて済むのだが、絶え間ない変動を嫌でも
気づかされるのが、季節の変わり目であろう。
夏の終わり、秋の初めは、特にその感が強まる。
一日たりとも忘れたことはないが、ふと、もういないのか
という実感でもないような不思議な淋しさを覚える。
これが秋の感傷というやつだろうか。
毎年、お盆が過ぎ、秋のお彼岸が過ぎる頃、亡くなった
方々に想いを馳せることが多いのだが、心の片隅に
残る悔しさが拭いきれずにいる。
感傷でもなく、自責でもなく、憐憫でもない。
本当の意味で、生きる力になってやれなかった
己の不甲斐なさである。
泣きながら生きるのと、泣きながら逝くのとでは
天地の差がある。
縁あって関わりを持った以上、その関わり自体が
互いに益するものであるのが理想だが、現実は
そううまくはいかない。
時には互いを害し、共倒れということもままある。
他に害されながら、他を害することだけはしまいと、
自身を害することになったのかもしれない。
今となっては是非もないが、自らの心情としては、
この悔しさを抱きながら、これからも生きていく。
私には私なりの為すべきことがあるだろうし、
最後の時を迎えようと、それを為そうと前を向いた
姿でいたいと思う。
生きる姿を子に示すのが親であるなら、何があろうと
示しはつけたいと願うものなのである。