ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

変わり目

2012年09月27日 | ノンジャンル
日は沈み、日はまた昇る。

それが当たり前のように、意識することすらないほど
忙しい日々に追われている間は、余計なことは
考えなくて済むのだが、絶え間ない変動を嫌でも
気づかされるのが、季節の変わり目であろう。

夏の終わり、秋の初めは、特にその感が強まる。
一日たりとも忘れたことはないが、ふと、もういないのか
という実感でもないような不思議な淋しさを覚える。

これが秋の感傷というやつだろうか。

毎年、お盆が過ぎ、秋のお彼岸が過ぎる頃、亡くなった
方々に想いを馳せることが多いのだが、心の片隅に
残る悔しさが拭いきれずにいる。

感傷でもなく、自責でもなく、憐憫でもない。
本当の意味で、生きる力になってやれなかった
己の不甲斐なさである。

泣きながら生きるのと、泣きながら逝くのとでは
天地の差がある。

縁あって関わりを持った以上、その関わり自体が
互いに益するものであるのが理想だが、現実は
そううまくはいかない。

時には互いを害し、共倒れということもままある。
他に害されながら、他を害することだけはしまいと、
自身を害することになったのかもしれない。

今となっては是非もないが、自らの心情としては、
この悔しさを抱きながら、これからも生きていく。

私には私なりの為すべきことがあるだろうし、
最後の時を迎えようと、それを為そうと前を向いた
姿でいたいと思う。

生きる姿を子に示すのが親であるなら、何があろうと
示しはつけたいと願うものなのである。




がんばろう

2012年09月18日 | ノンジャンル
この連休前、ふと大学時代の友人のことを想いだした。

卒業後一度も会っていないが、故郷の宮城に帰って
いることだけは知っていた。
宮城県石巻市である。

昨年の大震災、津波の折、連絡を取って、それから
折々に手紙などのやり取りをしていた。

この連休に、思い切って、訪ねてみようと決めた。
突然決めたことなので、新幹線で仙台へ、バスで石巻へ。

友人は本当に驚いていたが、約30年ぶりの再会であった。

彼の実家は割と高い場所にあり、津波の難は逃れたが、
友人はあの日、仕事で漁港にいた。
津波警報で、車に乗り込み、逃げようとしたが、途中で
渋滞にはまり、動けなくなった。

咄嗟に、左手に見えたコンビニの駐車場に入ったが、
もうその時は津波が押し寄せていた。

駐車場内をあちらへ流され、こちらへぶつかりしている中、
車の左側がコンビニの外壁に乗り上げる形で止まった。
車内は水浸しである。

助手席のドアが何とか開いたので、車から這い出た。
コンビニの平屋の上に避難していた店員たちが彼を
引っ張り上げてくれた。

渋滞していた車も、駐車場にあった車もすべて押し流された。
コンビニの上といっても低い。 水は腰まで上がり、胸元まで
迫るときもあった。

波である以上、寄せては引きを繰り返す。
一旦水位が下がり、隣の高いビルに避難しようとしたが、
またすぐに水かさが増し、思うようにならない。

全身ずぶ濡れでとにかく寒い。夜には雪も降ってきた。
隙を見て、他の人たちと隣のビルに移った。
この後、飲まず食わずで2日間ほどなすすべもなく
過ごしたらしい。

頼んだわけでもないのに、私を車に乗せて、あちらこちらと
案内してくれた。
一年半の月日は、それなりの復興の気配を期待させたが、
現実は想像を絶する厳しさだった。

津波が押し寄せ、到達したところを境に、くっきりと
住宅街と何もない荒れ地が分かたれていた。

その当時のままの建物も多く、凄まじい津波の爪痕が
生々しく残っていた。

かろうじて道路は通れるようにはなっているが、両脇には
瓦礫やスクラップ車の山、山、山である。
復興などという言葉が虚しく感じられるほどの惨状である。

そんな中、「がんばろう石巻」の看板が見えた。
一つずつ、一歩ずつ。
悲惨な現実を前にしながら、それでも一歩前へと
皆ががんばっている。

この言葉自体が辛い人も多いだろうと思うが、それでも
やっぱり、「がんばろう」、「がんばっぺ」なのである。

今回、思い切って友人を訪ねて、本当に良かったと思う。
語りつくせない想いを固い、固い握手でもって交わす
ことができた。

今も頭の中を巡るのは、「がんばろう」という、
被災者の心の底の声の響きなのである。






反日というスライド

2012年09月18日 | ノンジャンル
韓国、中国において、反日デモなどのニュースで
喧しいが、何のことはない、反日ではなくて、それぞれの
国内の事情が根っこで、反日はそれをスライドさせる
スケープゴートでしかない。

韓国の歴代大統領は、個人的なスキャンダルや、
支持率の低下の折には決まって「反日」をカンフル剤と
してきたし、中国に至っては国内の格差に対する内的不満の
緊張度が高まると、これも決まって「反日」の方向付けに
よってその放出先を政府から逸らしてきた。

今回の一連の件について、台湾の友人は「馬鹿げている。」
の一言。 韓国の友人は、「でも独島は韓国領。」と
譲らない。
アメリカの友人は、「関係無いデモなら、
よそでやってくれ。」
日本に住む中国の友人は、「恥ずかしい。」

デモが暴動になり、略奪になり破壊となっていくなかで、
「反日」が「人権」になり、「民主化」となっている
ところを見ても、これは中国の国内の問題である。

根本的なことを言えば、社会主義の政府と商工業に
おける資本主義の台頭によって生み出された
想像を絶する格差社会の構図がそもそもの
根っこなのである。

よって、韓国の感情的、思想的なものとは全く違う
形で拡大していくのも当然と言えば当然である。

天安門事件以降、この広大な国の発展は、いわば
沿岸部に集中し、内陸部はさほど変わらない。
日本でいう格差社会など、毛ほどでもないに等しい
巨大な格差がこの国にもたらす憤懣のエネルギーは
もはやスライドなどで収まるものでは
なくなってきている。

民主主義であれ、共産主義であれ、この国に
主義主張はありえない。情報が検閲され、
偏った教育しかなされていない環境では、
致し方ない事である。

仮に国外で正しい認識を得た人が、国内で反政府的な
言動、主張をすれば、たちまちに逮捕となってしまう。

要するに、大多数の国民にとっての問題は、政府が
人民を十分に食わせられるかどうかなのである。
かたや、草の根を掘って命をつないでいる者がいる
一方、贅沢な食事を残しながら肥る者がいるのは、
社会主義の根本義から極端に外れている。

主義主張や大義のない運動は、いずれ沈静し、
大きな波とはなっていかない。
ただ、いくら検閲しても世界中をリアルタイムで
流れている情報が国内の人々にもリークしやすく
なってきている。
そこから、最も根本的な主張や大義が生まれる
かもしれない。

今回のことは、一つの小さな波に過ぎないかもしれないが、
この波が、やがてこの大国を揺さぶる大きな波へと発達して
いく可能性が高いのではないかとも思える。

そして、それは人間の本然的なものを鑑みれば、
至極当然な流れであるのだが、あまりにもその流れが
遅きに失してきたために、他国との感覚のずれが
甚だ大きいということなのである。



バベルの塔

2012年09月11日 | ノンジャンル
南向きのベランダから見える風景に、遠く高くそびえる
ビルが見えるようになってきた。

300メートルという、日本一の高さとなる
「ハルカス」である。

夜に臨むと、まるでバベルの塔のような錯覚を起こす。

当初は航空路線上、西日本一ということだったのが、
その問題が払拭されて、日本一ということに計画が
変更されたそうな。

阿倍野というより、天王寺といった方が知名度は高い
かもしれないが、此処はもともと神社仏閣の地である。

大阪の中心にありながら、古くからあまり開発の
対象地とはならなかったのもそのせいである。

ところがここ数年、急速な開発が進められている。
その中でも極めつけがこのハルカスである。

道路拡張など交通整備もその一貫であるが、
路面電車も残すようなので、現在の慢性的な渋滞が
どれほど緩和されるのかは、予測できない。

大阪では、メインが難波と梅田となるので、
仮に阿倍野が新たなスポットとなれば、交通量は
倍増する。

雑踏と騒音の渦巻く地としてはあまりふさわしくない。
忽然とその姿を現したかのようなこのハルカスは、
私には四天王への挑戦のようにも映る。

つまりは、バベルの塔のように見えるのである。

それは、神によって崩されたのか、自ら崩れたのか
知らないが、この日本一のビルが建つことで、
何かが崩れるような気がしているのである。





禁と断

2012年09月06日 | ノンジャンル
禁断症状というのは、要するにそれまで摂取していた
ものが身体から抜ける際に起こる。

つまり、この症状が出るということは、
その摂取してきたものに軽重の差はあっても
依存性が生じていることになる。

さて、禁と断についてであるが、禁については
時間や場所においての限定というニュアンスが強い。
これに対し、断というのは絶対的に断ち切るという
ことであり、まるで意味が異なる。

一言でいえば、禁は暫定的、断は絶対的ということである。

タバコは禁煙とはいっても断煙とは言わない。
依存性もあり、身体的にも害ではあるが、
タバコの吸い過ぎで頭がおかしくなることはない。

仮に禁煙していて、また喫煙をしだしたとしても、
それが直接的にその人の生命に関わることはない。

アルコール依存症に対し、アルコールはもはや
薬物であり、毒物である。
それは直接的に、その人の命に関わることとなる。

故に、断薬と同じく、断酒という絶対的な措置が
取られるのであって、禁酒とはまるで意味が
違うのである。

例えが悪いが、腕の骨を折ってギプスをはめれば、
これは禁酒の状態である。
つまり、治癒と、ギプスから解放される時が来る
希望がある。

これに対し、腕が切断されたなら、その失った腕を
取り戻す希望はない。 つまり絶望である。

断酒は絶望か。 腕を失ったことをいつまでも悔いて
嘆いているなら絶望である。

我々は、失った腕を諦める。その上で、いかに生きて
いくかに心労を尽くし、希望を見出していく。
それを我々は再生と呼ぶのである。

過去を諦める。そして、現在と未来を決して諦めない。
それが断ということであり、断酒ということなのである。

禁じられたなら、何がどうしてもそれをやりたいと
思うのが人情というものだ。
自ら再生を望み、断じるということが原点なのである。

「覚せい剤やめますか、人間やめますか」

まったく同じ次元で、

「お酒やめますか、命を諦めますか」

が、今後一生に渡って自身に問い続けるべき
ことなのである。

そして、お酒を飲まず、生きられるだけ、輝けるだけと、
前を向くのが、再生ということなのである。