ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

絵に描いた餅

2014年10月29日 | ノンジャンル
真理というものは、それ自体に価値はない。

あくまでも普遍的かつ不変的であるというだけで、
たとえそれを覚知したとしても、覚知しただけでは
絵に描いた餅と変わらない。

その覚知を知識とすれば、知識自体には何の価値も
ないのである。

おそらくは、地球上の生命で森羅万象を認識し、
その真理を探究し、そこから様々な想像、創造を
為していけるものは、人間しかいない。

それを知恵と呼び、知識と密接でありながら、
それとは隔絶されるものを人間は得た。

知恵とは応用であり、行為であり、行動である。
そこに初めて価値というものが生じるのである。

病気も同じで、それが病気と認識し、その病気の
原因や症状、経過などを詳しく知ることは大切だが、
それは要するに病識ということである。

病識を持っているからと言って、それが直接病気を
治すことにはならない。
その病識に基づいて、生活習慣の改善や、対症療法、
あるいは投薬治療などの具体的な行為に及ぶときに、
初めて治療が可能となる。

薬物依存などの病気の厄介さは、そもそも病識を
持たせまいとし、むしろ病気であることを認めさせまいと
するところにある。

普通なら、病気かもしれないと思えば、すぐに
診察を受けて確認するものだが、この病気は、
脳自体が、それより下の肉体など問題視しなくなる。

薬物による陶酔状態を至上の快楽として、
その陶酔状態を常に維持しようとすることだけに
支配された脳は、肉体のことなどどうでも良いのである。

肉体的には限界を超え、もう薬物を摂取することなど
自殺行為に等しい状況にあっても、脳はそれを摂取する
指令しか出さない。

身動きもできないほど衰弱した肉体であっても、
薬物入手のためだけには、何とか動ける、いや、動かされる
というのも、この狂った脳の強制なのである。

普通は本人だけの問題なのだが、この病気は伝染病のように
身近な周りをも巻き込む。

そしてその周りの者は、当事者ではないがゆえに、まさか
自身も感染しているとは思わない。
つまり、周りも病識を持たない状態であることが
多いのである。

非常に根の深い問題と言わざるを得ないが、ともかくも
恒常的な陶酔から離脱して、病識をまず得ることが
肝心かなめである。

そこでようやくスタート地点に立ったことになる。
かといって、そこで立ち止まれば、絵に描いた餅に等しい。
具体的な行動をスタートさせるかどうかが、
薬物の呪縛からの解放を可能にするか否かの分かれ目である。

願わくは、絵に描いた餅を眺め続けて、ため息を
つき続けるよりも、現実の持ちを口に運んで味わい、
お腹をふくらませて、幸せを感じていきたいものである。

それは、肉体と精神の解放というものは、やはり実践的、
具体的行動によって、初めてもたらされる
ということなのである。





一方通行

2014年10月23日 | ノンジャンル
時の流れは止められない。それは森羅万象が
常に変化していくということである。

時を戻すことも、過去に戻ることもできない以上、
人生は一方通行である。

立ち止まるか、前へ進むか、方向転換をするかの
いずれかしかできない。

過去の経験は、良いものであれ、悪いものであれ、
現在の自身を形成してきた履歴である。

それを引きずって進んで行くのは大変だし、
進むこと自体が苦しい。

過去を振り返るばかりでも、生きづらい。
後ろを向いて歩いてみればよくわかる。
歩きづらいし、目に見えるものは瞬間瞬間に
過去となったことだけである。

だから余計に不安が付きまとい、前へ進むのが
怖くなる。
何のことはない、人は前を向いて進むように
できている。

自分の過去を、あるいは経験したことを整理して、
良かったことも悪かったことも受け入れて、
その上で、今の立ち位置にスタートラインを
引くことは、いつでもできる。

早いも遅いもないのである。そのラインを引く
ごとに、過去に引いたラインよりは確実に前に
進んでいるからである。

それでなくとも生きづらい世の中を生きていくのに、
わざわざさらに生きづらくさせる必要はない。

今のありのままの自分を受け入れて、新たな
スタートラインを引き、また前へ進んで行けばよい。

そして、最後の時に、それをゴールラインではなく、
また新たな旅立ちのスタートラインと見ることが
できれば、自身の生き方に多少の自信を得ることが
できるかもしれない。

今を生きるということは、そういうことなのである。






告知

2014年10月20日 | ノンジャンル
ガンで、余命何年と告知される方がいいか、
知らずに最期を迎えるのがいいか。

これはその人それぞれであろう。

私は無論、告知してほしい方だが、かといって
それを周りに押し付けるつもりは毛頭ない。

アルコール依存症と診断された時は、正直言って
ガンの告知と同じくらいの衝撃があった。
同時に、なんだかホッとしたのも事実である。

このまま飲み続ければ、余命は一年もない。

確かに衝撃的な診断だが、決定的に違うのは、
断酒をすれば、少なくとも余命を延ばすことが
確実にできるという点である。

その診断を待たずとも、自分自身の実感として、
このままではそう長くは生きられないという
自覚はあった。

それでも、もうお酒を飲めなくなることの恐怖の方が
強かった。 恐るべき脳の暴走である。

まともな人なら、余命一年を宣告され、それを
断酒によって延ばすことができると知れば、
是非もなく、断酒するに決まっている。

まともでないから、飲めなくなることへの恐怖が
勝って、飲み続ける、あるいは断酒しても続かない
こととなる。

振り返れば、断酒を開始した2-3年ごろまでは、
まだまだ、まともな頭ではなかったように思う。
それ以前の飲んでいた頃は、もはや論外である。

偉いわけでも、意志が強いわけでもない。
そのまま死ぬか、余命を延ばすかという選択肢に
おいて、子供たちのためにも、余命を延ばすことを
選んだに過ぎない。

ごく当たり前の選択なのである。

それを、何か特別なことと思い、周りの人にも
そう評価してほしいと思うなら、まだまだまともな
頭ではない。

いずれにせよ、選択の余地がある以上、この病気に
関しては、率直な告知が大前提なのである。

秋の夕暮の空を眺めて、そろそろ一杯飲みたいと思うのか、
きれいな空だと写真を撮ろうと思うのか、穏やかに
眺め続けているのか。

まともか、まともでないかは瞭然なのである。





大掃除

2014年10月14日 | ノンジャンル
三連休は台風で何も出来ないだろうということで、
部屋の模様替えと大掃除をすることにした。

基準は3年以上使っていないものを対象にどんどん
処分して、書棚を追加し、あちこちに置いてあるものを
ひと所に整理した。

家具などの移動のついでに、日頃掃除できないところを
徹底的に掃除して、気分もスッキリできた。

家事というのは、仕事と違ってやればやるだけの成果が
目に見え実感できる。

土曜日の晴れた日にベランダを掃除し、一斉に布団を干し、
シーツ類を洗濯した。

気分がスッキリすると、他の場所が気になってくる。
台所、洗面、風呂、洗濯機回りなど、気の済むまで
掃除するとどっと疲れが出た。

疲れを取るには、やっぱり野菜、トマトなんかだろうと
考えて、ハッシュドビーフを作ることにした。
水の代わりに無塩のトマトジュースを使い、想定していた
通りの味にできた。

皆喜んで、6合も炊いたご飯がすぐになくなってしまった。

気分がスッキリすると、勉強の意欲もわく。
なかなか読めないでいた書籍を読むこともでき、充実した
連休とはなったが、ゆっくりごろごろする暇がなかった。

基本的に何も考えない、何もしない時間の必要な人間なので、
休み明けはひどく疲れていることに気が付いた。

台風もさほど大きな影響はなく、深夜には過ぎ去っていった。

大掃除と言えば年末だが、寒くなって汚れも落ちにくくなった
ところを、寒さで動きにくい身体で無理をして掃除するより、
まだ暖かい時期にやっておく方がいいとは思う。

最高に充実した連休ではあったが、最高に疲れた連休でも
あった。

台風一過。また空気が研ぎ澄まされてきたようだ。






けじめ

2014年10月02日 | ノンジャンル
一年を通じて、様々な節目があり、その折に自身のけじめを
付けていくことは大切なことである。

5年、10年という長い年月の中でも、大きな節目はあり、
その節目を漫然と迎えるか、新たな決意と覚悟で、
自身の成長の契機とするかで、その後は大きく変わる。

ただし、これはまともな頭と理性に負うものであって、
本能的なものはこのけじめをつけることを欲しない。

つまり、現状が楽で心地よければ、その状態を限りなく
維持しようとする。

依存症患者は、アルコールによって、理性が
正常ではない状態である。

つまり、けじめがつけられないということになる。
むしろ、このけじめというものを逆手にとって、
断酒すると言いながらそれを先延ばしにしてしまう。

この節目を期に断酒しよう。今の問題が片付いたら
断酒しよう。最後に飲むだけ飲んで終わりにしよう。

素面で考えればすぐわかるのだが、これは言い訳に
よって断酒を避けているに過ぎない。

いわゆる最後の祭りを設定して、現実にそれを最後に
したためしは滅多にないし、それが最後になったのは
その人の人生の最期となってしまった例も少なくない。

口で言うのは簡単だが、節目も切りも関係なく、
断酒はたった今、思い切って開始するしかないのである。
その思い切りがなかなかつかないところに、
厄介な問題がある。

思いきらざるを得ないところまでいかないと、
なかなかそれができない。
それが、いわゆる底をつくということでもある。

少なからず理性が残っているなら、断酒はいつでもない、
たった今から始めるしかないのである。
そして、その決断をせざるを得ない時に、
命だけは取り留められんことを願うのみである。