ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

ヒーロー

2010年03月07日 | ノンジャンル
子供の頃にあこがれたヒーローというのは、公明正大で、
誠実で優しく、何よりも強かった。
非の打ち所のない絶対の存在であり、それを否定するものは
全て敵であった。

今でも当時の様々なヒーローの中で一際輝くのが
ウルトラセブンである。
悪の侵略者を倒してめでたしめでたしということだけ
ではなく、今思い出しても、現代に通じる様々な社会問題を
提起していたように思える。

軍拡競争、共存共栄の問題、環境問題、地球上の生物である
ことに変わりない人間のエゴと横暴と傲慢。
子供心に「考えさせられる」秀逸な内容であった。
音楽も今尚高い評価を受けている。

ただ強い、カッコいいだけではなく、苦悩し、悲しみ、迷い、
そして困難を乗り越えていく姿に学んだことは多い。

正義の決まり文句であった、強気をくじき、弱きを助ける
という単純な概念とはかけ離れた、「問いかけ」ともいうべき
ものが常にあった。
テレビを見たあとで、その問いかけに対する自分なりの
答えを探そうと考えさせられたのはこの作品だけであった。

ここでいう「強き」は悪者であり、「弱き」は、それに
蹂躙される一般大衆である。
権力者と市井の民という対比だったかもしれない。

しかしながら、強きと弱きは相対であって、善と悪に
分けられるものではない。
自分を基準にしても、自分より強きはいくらでもいるし、
自分より弱きもいくらでもいる。

強きをくじくのは、自身の弱きをくじく、つまり挑戦で
あるという見方をし、弱きを助けるのは自身の弁解である
という見方をすれば、そもそもの意味自体が逆転してしまう。

また、弱きを助けることが、その人の自立を妨げるならば、
これも悪となってしまう。
常にヒーローに頼り、ヒーローに助けてもらうばかりで、
自ら困難に立ち向かおうとしないなら、これはある意味
依存症である。

作品では、ヒーローとともに協力し、時にはヒーローを
助けて困難を打開していくものも多かった。
最終回では、瀕死のヒーローを守り、自らが住む地球は、
自らの手で守らねばならぬという強い意志の表示と
なっていた。

これは、ヒーローによって守られ続けてきたものが、
ヒーローと共に協力し、ついには自らの強い意志で
真の闘いを開始するという、ひとつの自立を示して
くれていたように思える。
それは、「弱き」ものの自立である。

敵は強きものではなく、弱き己なのである。その闘いを
開始せずして、自立はありえない。
いつまでも弱きものを助け、その自立を妨げるならば、
それはもはやヒーローではない。