ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

バイキンマン

2010年09月29日 | ノンジャンル
子供達が幼い頃、アンパンマンが大人気であった。

当然、子供達は、テレビは欠かさず見ていたし、
様々なキャラクターグッズを買わされたものである。

愛と、勇気と、正義と。。。子供向けにわかりやすい
内容であった。

さて、悪役キャラのバイキンマン。

いつもアンパンマンにやられて、バイバイキ~ンと
どこかへ飛んでいってしまうのだが、なかなか
可愛気があって、憎めないキャラである。

意外と子供たちにも人気があった。

無粋な見方をすれば、メロンパンナちゃんに叶わぬ恋心を
抱きながら、同じ仲間のドキンちゃんのわがままを
かなえるために日夜奮闘している。

ところが、当のドキンちゃんは、食パンマンに夢中という、
何とも滑稽な設定になっている。

アンパンマンは、ピンチとなれば様々な人達の助けを借りて、
新しいアンパンの顔と交換して勇気も元気も百倍になるのだが、
バイキンマンはその身一つである。

ロボットや機械を設計、開発し、それを作ってアンパンマンに
挑むも、最後にはやられて、傷だらけで飛んでいってしまう。

それでも、ドキンちゃんの為に、新たな努力を
やめようとしない。諦めないのである。
ドキンちゃんに感謝されることなど滅多にないというのに。

私はむしろ、バイキンマンに好感を持つ。
方向性は誤っていても、へこたれない、諦めない、
どんどん前へ進もうとするそのタフさは、子供達にも
見習って欲しいと感じたほどである。

いつもいつも負けて、自分は駄目な奴だとか、情けないとか
内向きに思い悩む暇もなく、今度こそ、今度こそと
前を向いて行動するところは、見習うべきである。

アンパンマンの絵を描いてくれとよくせがまれ、
お絵かき帳に何度も描いたものだが、幼いながら、
アンパンマンのぬるさがわかるのか、あるいは
バイキンマンの底抜けに明るく面白いキャラに惹かれるのか、
だんだんとせがまれるのは、バイキンマンとドキンちゃんに
変わっていった様に思う。

他愛のない話だが、どうやらバイキンマンを自分自身に重ね、
ドキンちゃんを、家のカミサンに重ねているのかもしれないと
気がついて、内心、なるほどと苦笑しているのである。






基本ということ

2010年09月28日 | ノンジャンル
この土日は、お彼岸ということもあって、
お墓参りに行ってきた。

いつまで続くのだろうと思っていた残暑も、
夜明け前の嵐の後は打って変わって肌寒さまで感じるほど
秋めいてきた。

行楽日和となったが、私の母親の墓地公園は遠いので、
家族そろって出掛けて、食事も楽しめ、ちょっとした
ドライブ気分であった。

お墓参りというのは、実際に亡くなった人の遺骨の前で
手を合わせることで、粛々たる想いと祈りに包まれる
ひと時であるせいか、気分がすっきりする。

家族も皆、お墓参りの後は清々しい表情をしている。
多少のことは、大目に見る余裕も心に生まれる。

とはいえ、休日の道路は、頭まで休日のドライバーで
あふれる。
ふらふらと挙動のおかしい車。危ないので追い越すと、
携帯電話で話しながらの運転。

左折で優先道路に進入しようとする車。 
明らかにこちらを見ているのに、お構いなしに目前で進入。

右指示器を点滅させ、横をすり抜けようとすれば、
左に曲がってくる。

高速で、意味もなくブレーキを踏む人。
追い越し車線をマイペースでのんきに走る人。
方向指示無しで車線変更を繰り返す人。
トンネルで点灯しない人。
合流で加速しないでふらふら進入する人。
ハイビームのままで走行する人。

運転の上手い下手の問題ではない。
交通ルールやマナーというものは、安全に直結している。

心に余裕を持つ。つまりは疲れたら休むというのは、
事故を未然に防ぐ心構えである。
私が言う資格はないが、飲酒運転など論外である。

基本的な事が、安全につながる。
上手い下手ではなく、基本に忠実かどうかである。

事故を起こせば、失うのは自分だけではない。
取り返しのつかないことになる。
自分が事故を起こさない保証はどこにもない。

こればかりは命に関わることである以上、
常に基本をしっかりと押さえておかねばならない。
断酒にしても、同じ事だなと考えていた。

実際、命に関わることであり、周りを巻き込む
ものなのである。

油断、弛緩、横着、適当、惰性、散漫、過労は、
運転、断酒、いずれにおいても大敵なのである。






減点法

2010年09月26日 | ノンジャンル
現在と未来をよりよく生きるために、過去を振り返る必要が
あるときは、基本的に減点法であってはならないと考えている。

済んでしまったことをいくら取り返そうとしても詮がない。
それをどう現在と未来に生かしていくのかが肝心なことである。

もちろん、お酒を飲んで周りに迷惑をかけてきたことが、
現在断酒しているからといってすべて帳消しになるわけではない。
それはあまりに自分に都合が良すぎることではあるが、
生きていく以上、過去に囚われていても仕方がない。

過去にマイナスを感じるなら、現在と未来にプラスを
積み重ねていけばよい。

往々にして、減点法で過去を振り返る人が多い。

家族に迷惑をかけた、健康を失った、信用を失った、
お金を失った、仕事を失った、家庭を失ったなどなど。

それに囚われていれば、今を生きることは苦しい。
同じ苦しむなら、加点法、つまりプラス思考で行こう。

食事がおいしくなった、元気になった、まともに仕事が
できるようになった、家族と楽しい時間を一緒に持てるように
なった、腹から笑えるようになった、よく眠れるように
なった・・・。

加点法であれば、断酒は楽しくなくとも苦しくはない。

しばしば思い出すのは、楽しいお酒は、気分転換にもなり、
明日への活力となっていたが、苦しさや辛さ、憂さを晴らす
お酒は、酔いが醒めれば何も変わらない現実と、逃避の
自己嫌悪とに改めて苛まれるだけであったことである。

同じ苦しみなら、同じ辛さなら、まともに向き合って、
少しでもプラスへと進む方がよほど楽なのだ。

それをようやく実感し始めている昨今である。




魔物

2010年09月24日 | ノンジャンル
薬物依存というものは、端的に言えば自分の中に
魔物を生み出したと考えれば良い。

この魔物は、薬物を体内に入れる事がすべてであり、その結果、
身を滅ぼそうとも一向に頓着しない。

一度生み出してしまえば、それは自身が死ぬまで、
死ぬことはない。
完治がないといわれるのはそういうことである。

ただ、その魔物が自分の中にいる、自分が生き続ける限り
その魔物も生き続けるという事を自覚し、眠らせておく以外、
まともな生活を送ることは不可能である。

完治はないが、回復はあるというのは、その魔物を
眠らせ続けている状態である。

つまり、断酒を継続している限り、眠らせたままに
しておくことはできるが、飲んで起こせば、たちまちに
お酒や薬物に溺れてしまうことになる。

何年やめていようが関係ない。その魔物を起こすか、
眠らせたままにしておくかのいずれかなのである。

無論、眠らせる時間が長くなればなるほど、魔物の働きは
弱くなる。飲まない苦しさが徐々に軽減されていくのと
同期しているだけなのだが、もう魔物自体が
存在しないのではないかという勘違いが、再飲酒の
きっかけとなる事が非常に多い。

一度、脳に形成されたこの魔物の回路は、脳移植でもしない
限り、消えることはない。
スイッチを開けたままにしておくのか、再飲酒で閉じて
しまうのかの、いずれかなのである。

通院にしろ、自助グループにしろ、抗酒剤を服用するにしろ、
全てはこの消す事の出来ない魔物の存在を、自身の中に常に
確認し、自覚するためにある。

その確認、自覚の方法は、人それぞれであり、それぞれの
断酒で一向に構わない。

この魔物を眠らせるには相当の苦しさがある。
眠らせてしまえば、悩みはあろうと、本来の自身の姿で
生きていける。
再び起こしてしまえば、また眠らせるのにはより大きな
力が必要となる分、苦しみも大きい。

やめたくてもやめられないのは、この魔物に支配されて
いる状況である。魔物の活発な働きの前では、理性など
無力である。
親を捨て、子を捨て、何もかも失って、最後には
自らの命を捨ててでも薬物を身体に入れようと
するのである。

そんな、破れかぶれの働きに勝てるわけがない。
理性とは言葉を換えれば抑制、制動である。
つまりコントロールを司るものが、コントロールも
ルールもまるで無視した暴挙に、勝てるわけが
ないのである。

唯一可能なのは、その魔物をコントロール下に置くこと。
つまり、その力や働きを発動させずに、眠らせておくこと
だけである。
断酒継続とはそういうことである。
それが、魔物自体には勝てなくとも、負けないという
ことなのである。

再飲酒の後悔、罪悪感、自己憐憫、弁解、他罰的な
言い訳などは、決して魔物に勝てない理性のかけらの為す
遠吠えである。

勝てないという事を認めようではないか。
そして、理性が決して勝てない魔物が、自身の内に消えずに
住みついている事を常に認識しなおそう。

勝てないなら仕方がない。負けない努力をするべきである。
負けなければ、勝つのと変わらないようだが、勝ったと
勘違いするところに、すでに負けが決まっているのである。

10年、20年と眠らせ続けてきた人でも、ひとたび
その魔物を起こしてしまえば、今現在、眠らせようとする
苦しみの真っ只中にいる人と、何ら変わりがない。

むしろ、眠りが長ければ長いほど、再び起きた時の反動は
より強大で、活発な働きとなってしまう。
これをまた改めて眠らせようとすることは、想像を絶する
困難さとなってしまうのである。

己が生み出した魔物は、己が死ぬまで生き続けること。
その魔物には到底勝てないこと。
自身の本来の姿で生きていくには、その魔物を眠らせ
続けるしかないこと。
勝てないなら、わざわざ魔物にパワーを与えないこと。
そして、負けないことを積み重ねていくこと。

しっかりと肝に銘じて、ゆめゆめ忘れてはならない
ことである。




自転車泥棒

2010年09月23日 | ノンジャンル
前回の、自転車のタイトルで思い出した、古いイタリア映画の
題名である。

戦後の貧困の中、ポスター貼りの仕事を得た男が、質入れした
自転車を何とか取り戻し、懸命に働き、幼い息子も手伝うのだが、
その自転車を盗まれてしまう。

自転車がなければ仕事ができない。
犯人探し、自転車探しを必死で行うが結局わからないし、
自転車も出てこない。

思い余って、他人の自転車を盗むがすぐに捕まってしまう。
子供に免じて許してもらうものの、かといって仕事が
できるわけではない。

なんともリアルな、悲しい現実的な映画だった。

さて、この映画を思い出すと同時に、公と私ということを
考えていた。

家族を養うために自転車を盗んだ父親。
養われる立場の子供は、それが悪いことであると
わかっていても、警察に告発などしない。

これは「私」の立場の話である。

いかなる理由があろうと、盗みは悪いことだと、父親の罪を
告発するとすれば、それは「公」の立場の話である。

身内や、家庭内ならともかく、「公」という場において、
「私」の立場というものは取れないのが常識である。

国家という現在のもっとも大きな「公」の単位で、
この「私」を主張するとすればそれはもはや根本的な
常識の差である。

この差は、しばしば平行線に陥ってしまうが、その差を
認識した上で、相互理解の努力をすることは無駄ではない。

こちらの常識はあちらの非常識ということと同じだからである。

まずは、その差というもの、つまり、公私の差ということの
認識と理解がもっとも大切なのではないだろうか。

正義というなら、いずれにも正義はあるのである。