yoshのブログ

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小御所会議

2007-08-31 08:28:40 | 歴史

小御所会議は慶応3年(1867年)12月9日、京都御所の中の小御所(天皇の応接室のような場所)で開かれました。御前会議でした。<o:p></o:p>

参加者は明治天皇(1867年1月に践祚14才)、岩倉具視、他公卿、諸侯、徳川慶勝、松平春嶽、島津茂久、浅野長勲、山内容堂、大久保利通など<o:p></o:p>

この会議で岩倉具視と大久保利通は徳川慶喜から官位と領地を取り上げようと「辞官納地」を企て、小御所会議がその場となりました。いやしくも前将軍の名誉と財産を剥奪しようとする何とも常軌を逸した失礼極まる議題ではありませんか。山内容堂はこれを聞くや「幼沖の天子を擁し、権柄を盗まんとする野望にあらざるや」と叫んだとあります。その通りではありませんか。しかるに岩倉具視は「聖上は不世出の英主であらせられる。今日の挙は天皇の聖断である。それを幼沖の天子を擁してとは何か」と切り返しました。容堂侯の失言との見方もありますが「幼沖」には差別的なニュアンスは全く無く、15才の睦仁天皇を詩才豊かな大大名、山内容堂がこう呼んだことには少しも違和感がありません。居丈高な岩倉具視の方にこそ権力を笠に着て功をあせる者の不自然さを感じます。容堂侯の正論に議論は一進一退。会議は紛糾したそうです。一時は山内容堂の鋭い舌鋒で岩倉等が目論んだ辞官納地の決定は骨抜きになりそうな形勢になりました。書物等によれば、岩倉具視は会議の途中、休息時に容堂侯に短刀を散らつかせたり、ピストルを突き付けて脅したとあります。会議において政敵を屠ってでも、自説を通そうとするやり方、ここには高邁で偉大な王政や王事の片鱗もなく、ただただ自派の主張のみを追求している陰謀の匂いが感じられます。<o:p></o:p>

数日前(10月13日)に大政を奉還したばかりの将軍徳川慶喜に対してあまりに非礼な会議でした。<o:p></o:p>

この後、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、明治維新へと歴史は動いて行きました。<o:p></o:p>

薩摩長州による、目的のためには手段を選ばない武力革命の意図がはっきりと露呈しています。<o:p></o:p>

山内容堂は土佐藩祖山内一豊が約300年前に徳川家康から受けた関ヶ原の恩を忘れることなく将軍家のために大弁舌を奮いました。<o:p></o:p>

一方、王城の護衛者として前の天皇、孝明天皇の信頼を一身に集めた松平容保は會津28万石とあまたの有為な藩士藩民の生命を賭して武士道を貫きました。<o:p></o:p>

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