yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

外山脩造

2024-07-27 07:03:25 | 歴史
外山脩造(とやましゅうぞう)は、1842年に長岡近郊の栃尾村の庄屋の長男として誕生しました。幼名は寅太です。幼くして英才の誉れが高く、16歳にして江戸の清川八郎の塾に入門しました。その後、長岡で河井継之助を知り、師事することになりました。継之助が江戸に遊学したのを追って再び上京し、幕府の昌平黌にも合格しました。その後、長岡にもどり、藩の重役となった継之助を助けました。外山は河井継之助の従僕を勤め、戊辰戦争(北越戦争)に際して長岡藩家老で軍事総督の河井継之助は銃弾により負傷しましたが、常に彼の傍らに付き添い、その死没まで終始行動を共にしました。会津に落ちてゆく途中、継之助の症状が悪化して塩沢という所に留まりました。臨終の時に継之助は外山を枕元に呼び「武士の時代は終る。これからは実力のある者の世の中になる。戦争が終ったら商人になれ」と諭しました。その時、継之助は外山のために福沢諭吉にあてた添書を残していました。
その後、寅太は名を脩藏と改め、28歳で、その添書を携えて上京し、福沢諭吉の慶應義塾に入塾しました。在塾中に開成学校にも遊学し、卒業の後、大蔵省や秋田県官吏に出仕しました。大蔵省では国立銀行の創設に尽力した後、大阪の大阪国立銀行の初代支店長に就任し、大阪の財界に加わりました。先進国の状況をよく調査し、銀行や数多くの企業の創立に貢献しました。阪神電鉄の初代社長、朝日ビ-ル、大阪ガスの創設もしました。まるで、関西の澁澤榮一です。継之助の夢は外山脩造により実現したとも言えます。なお阪神タイガ-スの名は、外山の幼名「寅太」に由来するともいわれます。


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