我が国が鎖国をしていた江戸時代の1804年、ロシアの使節レザノフは長崎に入港して幕府に通商を求めました。しかし、彼は拒絶をされると憤然と退去したという事件がありました。その後、レザノフは部下をして樺太やエトロフ方面に襲来させました。そこで幕府は1807年(文化4年)から1809年にかけて会津藩に命じ、樺太に出兵させました。会津藩は総勢1558名が宗谷岬、利尻島、樺太に駐留し、北辺の防備にあたりました。しかし樺太からの帰路、嵐に遭い、会津藩の船は難破しました。この時の死者を弔うために、宗谷岬の北端には会津藩士の墓と句碑、利尻島と焼尻島には会津藩士の墓があります。(利尻島の墓 写真下)
石川忠久先生は「學士會報」に次の五言古詩を寄せられています。
利尻島會津藩士墓 岳堂 石川忠久
四海風雲急 四海風雲急に
外夷窺北彊 外夷北彊を窺う
雄藩派兵出 雄藩兵を派して出で
壮士戌邊防 壮士邊を戌(まも)りて防ぐ
世収星霜古 世収まりて星霜古り
人亡名譽長 人亡びて名譽長し
樹碑孤島上 碑を樹つ孤島の上
永為對汪洋 永く為に汪洋に對す
石川忠久先生は「學士會報」に次の五言古詩を寄せられています。
利尻島會津藩士墓 岳堂 石川忠久
四海風雲急 四海風雲急に
外夷窺北彊 外夷北彊を窺う
雄藩派兵出 雄藩兵を派して出で
壮士戌邊防 壮士邊を戌(まも)りて防ぐ
世収星霜古 世収まりて星霜古り
人亡名譽長 人亡びて名譽長し
樹碑孤島上 碑を樹つ孤島の上
永為對汪洋 永く為に汪洋に對す
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