不肖の郷里の牧野氏の話です。牧野氏の祖先は、第八代孝元(こうげん)天皇の曾孫にあたる武内宿禰(たけのうちのすくね)で、子孫が三河国の牧野村に移った頃に姓を牧野と改めました。徳川家康に仕え、徳川十七将の一人として武功がありました。1618年に牧野忠成が越後長岡に入封したのが越後長岡藩、7万5千石の始まりです。
今年はそれから400年にあたります。以後、明治の廃藩置県まで約250年に亘り長岡を治めました。譜代大名として、これ程長期にわたり同じ領地を保った例は少なく、僅かに彦根藩井伊家と同じです。牧野家の家紋は三つ柏、長岡藩旗は五間梯子です。上席家老には稲垣家、山本家がありました。稲垣家からは、「武士の娘」を書いた杉本鉞子(えつこ)が出ており、太平洋戦争の連合艦隊司令長官であった山本五十六は、名門の山本帯刀家を嗣ぎました。また、幕末の英傑、河井継之助も家老を務めました。牧野家の家風は、三河以来の「常在戦場」です。戊辰戦争で長岡は灰燼に帰したのですが、親藩の三根山藩から贈られた「米百俵」を食い潰すことなく、小林虎三郎は教育資材を整え、学校開校にあてました。これが「米百俵」の精神として知られるようになりました。その時に開校したのが、国漢学校(洋学校)です。不肖の母校の長岡高等学校は、この洋学校を元にしております。第一校歌には、「一、我が中学のその位置は構は八文字浮島の兜の城と名も高き旧城跡を前に見て(後略) 二、清秀雄偉の山川の感化を受くる我が校は明治五年の冬の頃洋学校の開始より爾来変遷定めなき世の辛酸を凌ぎ来て(後略)」とあります。因みに牧野家の17代当主、牧野忠昌氏は今もご壮健です。
今年はそれから400年にあたります。以後、明治の廃藩置県まで約250年に亘り長岡を治めました。譜代大名として、これ程長期にわたり同じ領地を保った例は少なく、僅かに彦根藩井伊家と同じです。牧野家の家紋は三つ柏、長岡藩旗は五間梯子です。上席家老には稲垣家、山本家がありました。稲垣家からは、「武士の娘」を書いた杉本鉞子(えつこ)が出ており、太平洋戦争の連合艦隊司令長官であった山本五十六は、名門の山本帯刀家を嗣ぎました。また、幕末の英傑、河井継之助も家老を務めました。牧野家の家風は、三河以来の「常在戦場」です。戊辰戦争で長岡は灰燼に帰したのですが、親藩の三根山藩から贈られた「米百俵」を食い潰すことなく、小林虎三郎は教育資材を整え、学校開校にあてました。これが「米百俵」の精神として知られるようになりました。その時に開校したのが、国漢学校(洋学校)です。不肖の母校の長岡高等学校は、この洋学校を元にしております。第一校歌には、「一、我が中学のその位置は構は八文字浮島の兜の城と名も高き旧城跡を前に見て(後略) 二、清秀雄偉の山川の感化を受くる我が校は明治五年の冬の頃洋学校の開始より爾来変遷定めなき世の辛酸を凌ぎ来て(後略)」とあります。因みに牧野家の17代当主、牧野忠昌氏は今もご壮健です。
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