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明智光秀 異聞

2021-01-22 06:45:10 | 歴史
1582年の本能寺の変で、明智光秀が織田信長を討ち取ったことはよく知られています。こうした有名な歴史の周辺にも異説があると知りました。
  明智光秀、実は、惟任(これとう)日向守と改姓していました。天正3年(1575)に惟任(これとう)の賜姓と、従五位下、日向守の任官を受け、惟任日向守となっていました。織田信長は、後に九州を攻めることを計画しており、配下の武将に朝廷からの賜姓や任官を奏上していました。その結果、木下藤吉郎、明智十兵衛光秀、丹羽長秀は、それぞれ、羽柴筑前守、惟任日向守、惟住(これずみ)長秀となりました。惟任は九州の名族の姓です。
明智光秀は土岐源氏の末裔と自負していましたから、今更、惟任姓を賜っても片 腹痛く思ったかも知れません。本能寺の変の首謀者の名前は明智光秀ではなく、惟任日向守であったのです。
      さて、本能寺の変においては、明智光秀率いる明智軍が寺を襲撃したというイメ-ジが一般的ですが、近年の研究の結果、明智光秀は本能寺に行っていなかったという説があります。明智勢2千を指揮したのは、明智家の重臣、斎藤利三(としみつ)であり、利三の三男の斎藤利宗(としむね、16歳)も明智勢の中にいました。この利宗が甥で加賀藩士の井上清左衛門に語ったことを記録した古文書、「乙夜之書物(いつやのかきもの)」によれば、寄せ手の指揮官は斎藤利三であり、光秀は本能寺から約8キロ南の鳥羽に控えていたということです。本郷和人、東大資料編纂所教授(日本中世史)は、光秀が本能寺に赴かなかったことは、十分にあり得ることではないか。光秀自身が最前線に赴く必要はないし、重臣を向かわせたのも理にかなう」と話していました。
他にも異聞があります。本能寺の変で織田信長を討った明智光秀の家臣の一人、 明智弥平次秀満をめぐる新説が出てきました。秀満は、本能寺の変の直後に起きた山崎の合戦で、光秀が豊臣秀吉に敗れた後、馬に乗って琵琶湖を渡り、対岸まで逃れたとする「左馬助の湖水渡り」の伝説で知られます。これまで左馬助は秀満の通称とみられてきましたが、「乙夜之書物」には二人は別人として書き分けられています。本郷和人教授は「弥平次と左馬助が別人と考えると、2人を巡る様々な資料の齟齬がきっちりとおさまる。非常に興味深い資料だと思う」と話していました。



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