yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

白石城

2011-03-11 06:05:00 | 歴史
白石城は宮城県の南部、白石市の中心部にある平山城です。この地は伊達家の重臣、片倉氏が古くから治めていましたが、1602年に仙台城の支城として片倉小十郎景綱が築城し、城主となりました。関ヶ原の戦の後、景綱、重綱父子は徳川軍の伊達政宗に従って大阪夏の陣に参戦しました。かねてより片倉氏は真田幸村の武勇を敬慕していましたので、夏の陣で幸村が戦死した時、重綱は孤児となった幸村の三女阿梅とその弟の大八を引き取り、白石に伴いました。そこで阿梅と大八は片倉家の人となりました。阿梅は良く治政を助け、夫重綱の死後、泰陽院として敬われ、城下の当信寺に弟の真田大八とともに埋葬されています。
 1615年には一国一城令が施行されましたが、伊達政宗公の権勢の故か、仙台藩のみは例外的に仙台と白石の二城が存続しました。
時代は下って幕末、明治に活躍した会津藩士、永岡敬次郎の漢詩に「白石城下ヲ過グ」があり、「會津三絶」になっています。
會津藩士、永岡敬次郎(1840―1873 字は子明、後に久茂と改名)は若くして学問に秀で、「日新館」においては才俊と言われ、江戸に出て「昌平黌」に学び、詩も能くしました。また敬次郎は学問のみではなく行動力に富んでおり、奥羽列藩同盟の締結の際には、梶原平馬の片腕として同盟の成立に奔走しました。
なお戊辰戦争の時には、仙台から兵を率いて会津に救援に向かいましたが入国できず、無念の涙を流しました。その時、白石城で賦した詩は「會津三絶」の一つとして読みつがれています。

  独木誰支大厦傾
三州兵馬乱縦横
羈臣空灑包胥涙
落日秋風白石城

独木誰か支えん大厦の傾くを
  三州兵馬乱れて縦横たり
  羈臣空しく包胥の涙を灑ぐ
  日は落ち秋風白石城

一本の木(會津藩のこと)で、誰か大家(幕府こと)の傾くのを支えることができるでしょうか。奥羽越は戦いに敗れ、乱れてしまいました。かつて中国の包胥(ほうしょ)が、自国の崩壊の危機に隣国に赴き、涙ながらに救援を乞いましたが不首尾に終わりました。つい、先頃まで奥羽列藩同盟の中心であった白石城にも秋風が吹いています。

その後、明治になってからも敬次郎は新政府への抵抗を続けました。前原一誠、奥平謙輔等と共謀し、「萩の乱」に呼応して東京で決起する約束をしましたが、警吏に偵知されるところとなりました。同志と共に千葉に向かう途次、舟着き場の思案橋において補吏と格闘となり負傷しました(思案橋事件)。その時の傷がもとで、情熱の人、敬次郎は三十八歳で獄中において他界しました。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 仰げば尊し | トップ | 贈る言葉 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事