司馬遼太郎の短編小説に「加茂の水」があります。幕末に出現した錦旗(錦の御旗)の話が書いてあります。幕末において、天皇の象徴となった錦旗を作成した玉松操、岩倉具視、大久保利通のことを書いています。<o:p></o:p>
玉松操は没落公卿で琵琶湖の辺真野という所に隠棲していました。学問と文章に秀でていましたので岩倉具視に見出だされ、京都の岩倉邸で倒幕の謀議に参加していました。その謀議の中で岩倉は、倒幕のためには天皇軍のシンボルが有効ではないかと考え、それには錦旗が適当であるということになりました。<o:p></o:p>
錦旗は承久の変(1221年)に最初に現れ、ついで建武の中興(1334年)の時、後醍醐天皇が楠正成らの諸将に授けたと言われています。<o:p></o:p>
当時の宮廷に錦旗はありませんでしたので、承久兵乱記、梅松論、太平記などに出ている錦旗の説明を参考にして玉松操が錦旗の図案を創作しました。大久保利通の妾が西陣で帯地を仕立てていたので、この図案を持たせて西陣に走らせて2旒の旗を調製し、薩摩と長州に1旒ずつ渡しました。<o:p></o:p>
序でに、玉松操は倒幕の蜜勅の草案も起草しています。御所の奥深くで明治天皇の外祖父中山忠能(ただやす)卿や岩倉等の言うがままに、睦仁天皇に倒幕の詔勅に印璽を押させたとのことです。これも偽勅のような物と言われています。<o:p></o:p>
当時、水戸の大日本史や頼山陽の日本外史などによる大義名分論史観的教養が流行しており、もし、戦場に錦旗が出現すれば戦士は弓を棄て矛を横たえて恭順するという反応をごく自然に示すであろうと期待されたのです。特に将軍徳川慶喜は水戸家の出身であるため、<o:p></o:p>
その傾向が強く、賊軍となることを何よりも恐れるのではないかと推測されました。この推測は見事に的中しました。慶喜は戦場に錦旗出現の報を聞くや敵前逃亡のように、<o:p></o:p>
数万の味方の将兵を置き去りにして東帰するという醜態を演じています。<o:p></o:p>
一方、松平容保は賊軍の汚名を着せられつつも生き抜き、「我は朝敵にあらず」との信念は微動だにしませんでした。孝明天皇のご宸翰を抱いて息を引き取った容保侯は忠烈至誠の人でありました。<o:p></o:p>
その35年後の昭和3年に容保侯の孫娘節子妃が大正天皇の第二皇子秩父宮雍仁(やすひと)親王に嫁がれ、朝敵の汚名が雪がれたことは周知のことです。<o:p></o:p>
考えて見ると錦旗はたかが西陣織に玉松操が創作した図案をあしらった物です。それが<o:p></o:p>
薩摩軍と長州軍の陣営にあっただけです。薩長が自分の陣営に天皇を取り込むことに成功したのは事実でしたが。錦旗に魔力などはありません。水戸黄門の印籠に魔力が無いのと同様です。もし幕府軍の司令官に、錦旗を単純には恐れない冷徹で剛直な人物がいたら、軍事力で勝る幕府軍は、鳥羽伏見で薩長軍に反撃して勝利を得ることも可能でした。<o:p></o:p>