楠木正成、ロビンフッド、諸葛孔明には類似点があります。儀を重んじて弱い側を支えたことです。
楠木正成(生年不詳~1336)は、後世のイデオロギ-のなかで浮沈しました。正成は、鎌倉幕府の崩壊から、南北朝時代にかけて、後醍醐天皇方(南朝の武将としてあえあわれました。本来、河内国の金剛山麓の土豪でした。死後、「太平記」により知名度が上がりました。人柄が良いでした。その時代の乱世に興亡した武将の多くが利害で動いたのにくらべ、正成ばかりはその気配がありませんでした。当初、笠置の山中に流偶していた後醍醐天皇に見出されました。そのときの一諾だけでみずからの生涯を決定し、その後、情勢が南朝方に不利になっても、一族をあげて態度を変えることがありませんでした。「太平記」によると、笠置の山中での拝謁のとき、「正成一人未ダ生キテアリト聞コシ召サレバ候ハバ」御運はひらけるでありましょう、と胸がすくようなことをいいました。こんな明快な自己表現は、日本の歴史にすくない。
その存在と活動は12世紀の英国のシャ-ウッドの森に住んでいたというロビンフッドを思わせます。また、3世紀の中国の諸葛孔明にも似ています。人柄が誠実で卓越した軍略家だった点、さらには衰亡する側に属したことなどです。
楠木正成(生年不詳~1336)は、後世のイデオロギ-のなかで浮沈しました。正成は、鎌倉幕府の崩壊から、南北朝時代にかけて、後醍醐天皇方(南朝の武将としてあえあわれました。本来、河内国の金剛山麓の土豪でした。死後、「太平記」により知名度が上がりました。人柄が良いでした。その時代の乱世に興亡した武将の多くが利害で動いたのにくらべ、正成ばかりはその気配がありませんでした。当初、笠置の山中に流偶していた後醍醐天皇に見出されました。そのときの一諾だけでみずからの生涯を決定し、その後、情勢が南朝方に不利になっても、一族をあげて態度を変えることがありませんでした。「太平記」によると、笠置の山中での拝謁のとき、「正成一人未ダ生キテアリト聞コシ召サレバ候ハバ」御運はひらけるでありましょう、と胸がすくようなことをいいました。こんな明快な自己表現は、日本の歴史にすくない。
その存在と活動は12世紀の英国のシャ-ウッドの森に住んでいたというロビンフッドを思わせます。また、3世紀の中国の諸葛孔明にも似ています。人柄が誠実で卓越した軍略家だった点、さらには衰亡する側に属したことなどです。