今回は私の郷里長岡の先覚者をご紹介します。長岡藩で幕末に活躍した鵜殿兄弟の話です。
長岡藩の中級藩士に鵜殿瀬左衛門という人がいました。瀬左衛門の次男が鵜殿団次郎(1831-1868)、三男が鵜殿豊之進(1847-1909)、後の白峰駿馬です。
鵜殿団次郎は学問に優れ、長岡藩の崇徳館において小林虎三郎、三島億二郎らと共に俊才を以って聞こえ、江戸に上って蘭学や英学を修め、1862年に蕃書調所(東京大学の前身)の教授にまでなりました。彼は長岡藩の軍制改革を進言するなど、藩政のためにも尽力しましたが、惜しくも戊辰の北越戦争の直前に38歳で他界しました。春風と号していた通りの穏やかな人柄と思想の持ち主で、盟友の河井継之助が過激であったため、藩政においてしばしば対立しました。もし北越戦争の頃まで鵜殿春風が存命であれば、西軍と徹底抗戦することを回避し、長岡が焦土と化することを免れたかも知れません。鵜殿春風ほどの逸材を亡くしたことは長岡藩にとって大きな損失でした。
弟の鵜殿豊之進は1864年に長岡藩を脱藩して江戸に向かい、兄と異なる道を歩みました。脱藩後は長岡藩士の身分を隠すため、白峰駿馬(しらみねしゅんま)と名告りました。彼は江戸では勝海舟の知遇を受け、勝に従って幕府の様式海軍の元となった神戸海軍操練所に参加しました。しかしこれが解散すると坂本龍馬とともに長崎に行き、亀山社中・海援隊に加わって、太極丸の船将を勤めるなど大いに活躍しました。隊長の龍馬が京都の近江屋で暗殺された時には現場に急行しました。龍馬が亡くなったため、海援隊も解散を余儀なくされましたので、駿馬は1869年にアメリカに渡り、ラトガース大学やニューヨーク海軍造船所で造船技術を学びました。1874年に帰国した後、1878年には日本の民間では初めての白峰造船所を設立し、我国の造船事業の礎を築きました。後に勲六等瑞宝章を受け、61歳で他界しました。
長岡藩の中級藩士に鵜殿瀬左衛門という人がいました。瀬左衛門の次男が鵜殿団次郎(1831-1868)、三男が鵜殿豊之進(1847-1909)、後の白峰駿馬です。
鵜殿団次郎は学問に優れ、長岡藩の崇徳館において小林虎三郎、三島億二郎らと共に俊才を以って聞こえ、江戸に上って蘭学や英学を修め、1862年に蕃書調所(東京大学の前身)の教授にまでなりました。彼は長岡藩の軍制改革を進言するなど、藩政のためにも尽力しましたが、惜しくも戊辰の北越戦争の直前に38歳で他界しました。春風と号していた通りの穏やかな人柄と思想の持ち主で、盟友の河井継之助が過激であったため、藩政においてしばしば対立しました。もし北越戦争の頃まで鵜殿春風が存命であれば、西軍と徹底抗戦することを回避し、長岡が焦土と化することを免れたかも知れません。鵜殿春風ほどの逸材を亡くしたことは長岡藩にとって大きな損失でした。
弟の鵜殿豊之進は1864年に長岡藩を脱藩して江戸に向かい、兄と異なる道を歩みました。脱藩後は長岡藩士の身分を隠すため、白峰駿馬(しらみねしゅんま)と名告りました。彼は江戸では勝海舟の知遇を受け、勝に従って幕府の様式海軍の元となった神戸海軍操練所に参加しました。しかしこれが解散すると坂本龍馬とともに長崎に行き、亀山社中・海援隊に加わって、太極丸の船将を勤めるなど大いに活躍しました。隊長の龍馬が京都の近江屋で暗殺された時には現場に急行しました。龍馬が亡くなったため、海援隊も解散を余儀なくされましたので、駿馬は1869年にアメリカに渡り、ラトガース大学やニューヨーク海軍造船所で造船技術を学びました。1874年に帰国した後、1878年には日本の民間では初めての白峰造船所を設立し、我国の造船事業の礎を築きました。後に勲六等瑞宝章を受け、61歳で他界しました。