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最後の殿様 林忠崇公

2010-01-08 16:46:58 | 歴史
請西藩(じょうざいはん 上総 木更津)1万石の林家は清和源氏の流れをくむ名家で徳川家康の先祖、松平親氏の代からの譜代の家臣でした。このため徳川幕府においては、小藩ながら一目を置かれる存在でした。元日には家臣の中から請西藩主が最初に兎の吸物と杯を賜る習わしでした。また家紋が一という文字であったため一文字殿と言われていました。
林忠崇(ただたか1848-1941)公は請西藩の第三代藩主です。戊辰戦争が起こった時、紀尾彦と言われ徳川家と特に縁が深かった諸大名(紀州藩と尾張藩は御三家、彦根藩は譜代大名の筆頭)がこぞって西軍に就き、徳川宗家に刃向かいました。これを見て忠崇公は大いに憤慨し彼等を討つべしと考えました。しかし、直ちに西軍と事を構えると将来、請西藩にお咎めがあり、林家や藩士、藩民に災いが振りかかる恐れがあると忠崇公は考えました。そこで、藩主でありながら自ら脱藩して藩士約60名と遊撃隊に加わりました。遊撃隊は、人見勝太郎、伊庭八郎を中心に旗本や旧幕臣から成っていました。伊庭八郎は剣の心形刀流の伊庭(いば)道場の御曹子で、八郎は伊庭の小天狗と言われた剣の達人で、門人には江戸に住む幕臣が多数いました。伊庭八郎は箱根での戦闘の際に左手首を失いましたが隻腕で戦い続け、隻腕の剣士と言われました。後に榎本武揚艦隊に合流して人見勝太郎と共に函館に渡り、彼の地で戦死しました。人見勝太郎は後に赦免されて実業界に転じました。
遊撃隊は房州館山から相模真鶴に渡り、ついで韮山、甲府、沼津、福島などを転々として新政府軍と戦い、最後には奥州仙台まで行きました。この頃、徳川宗家が駿河において徳川家達(いえさと)を当主として相続を許されることに決まりました。この報に接して、忠崇公は西軍に対して徹底抗戦する大義が最早無くなったと認めて矛をおさめることに決め、函館に向かう伊庭八郎、人見勝太郎らと仙台で決別しました。しかし、江戸時代の全300藩の内、徳川家に最後まで忠義を貫いた請西藩のみが唯一つ取り潰しになりました。後に忠崇公は蝦夷の開拓民になったり、流転と困窮の生活を送りましたが、これを見かねた旧重臣が私財を投じて林家の家格の再興に奔走したのが功を奏し、明治の半ばになってようやく林家は華族に列せられました。反骨と剛直の殿様でしたが、剣道や絵や和歌に親しみ、飄々とした人生を送りました。次のような俳句が残っています。

   琴となり下駄となるのも桐の運

忠崇公は太平洋戦争の直前に他界しましたが、最後の殿様と言われています。ちなみに現在の当主は元帝京大学教授林忠昭氏です。

          中村彰彦著 『遊撃隊始末』 文藝春秋社
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