徳川家康が江戸に幕府を開き、苦心の末、江戸の街がようやく出来上がり、世界一の大都市へと発展し始めた矢先、明暦3年(1657年)に「振袖火事」すなわち「明暦の大火」が起こり、2日2晩燃え続き、江戸の街は灰燼に帰してしまいました。火元の一つは本郷の本妙寺で、曰くのある振袖を供養するために焼いたのですが、その火の粉が飛び火したのが原因と言われています。その頃、日照りが続いて木々が乾き切っていたところに折からの強風に煽られて火はあっという間に燃え広がり、関東大震災並の未曾有の大惨事になり、江戸城は天守閣までも焼失してしまいました。<o:p></o:p>
家康の孫で、当時、4代将軍家綱の後見役として政治の中枢にあった保科正之<o:p></o:p>
(ほしなまさゆき)公 (會津藩祖)は天守閣再建の議論が起こると、再建には莫大な費用がかかることを考慮して、再建を見送る決断を下し、まず江戸復興計画を立案して迅速に実行しました。<o:p></o:p>
「一国一城の小城は堅固なるを以て主とす。天下の府城は万民の便利安居を以て第一とす」 『會津松平家譜』
「天下の首都である江戸では住民の安らかな暮らしを立てることが第一である。天守閣などは無用の長物である」<o:p></o:p>
という堂々たる主張でした。<o:p></o:p>
江戸城とそれを利用した皇居に、今日に至るまで天守閣が無いのは、正之公の確かな判断と仁政の結果です。また、正之公は江戸に飲料水が充分でないことを常々憂慮していましたので、玉川上水の開削を発案して実現させ、江戸の街に充分な水を引きました。<o:p></o:p>
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