yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

百年兵を養うは平和を守るため 山本五十六

2023-12-08 06:31:24 | 歴史
山本五十六連合艦隊司令長官はハワイに出撃する艦隊の全指揮官を集めて次のように言いました。「昭和15年12月X日をもって、米英に戦端をひらく。X日はいまのところ12月8日の予定である。しかし、いまワシントンで行なわれている日米交渉が成立したならば、12月8日の前日の午前1時までに、出動全部隊に即時引揚げを命ずる。その命令を受領したときには、たとえば攻撃隊の発信後であってもただちに収容し、反転、帰投してもらいたい。何があっても、である」
すると機動部隊司令長官南雲忠一中将が反対の声をあげました。「それは無理です。敵を目前にして帰ることなどできません。士気にも影響します。そんなこと、実際問題として実行不可能です」
二、三の指揮官が同調してうなずき合い、なかに「出かかった小便は止められません」と下世話なことをいうものもありました。
山本は、一瞬、キッとなった表情をして、かつてない激しい口調でいいました。
「百年兵を養うのは何のためだと思っているのか!一(いつ)に国家の平和を守らんがためである。もしこの命令を受けて帰ってこられないと思う指揮官があるのなら、ただいまより出動を禁止する。即刻辞表を出せ!」
山本がこの戦争に反対であることは幹部の人たちには知れ渡っていましたが、最後の最後まで強い信念で反対しているとは、だれも思っていなかったようです。全指揮官がこの強い言葉にシュンとなって、山本の顔を見守るばかりでした。
それにしても「百年兵を養うは平和を守らんがためである」とはじつにいい言葉でしょう。いまの日本にもそのまま通用します。自衛隊は文字どおり自衛のための兵力なのです。国家の平和を守るための存在であり、それで営々として陸海空の三自衛隊はこの国は養っているのです。こちらから他国へ攻めていくというようなことがあってはなりません。山本ではありませんが、一に国の平和を守らんがためなのです。
現実には、山本の願いも空しく日米交渉は結局は破綻しました。12月2日午後5時30分、山本五十六長官の名をもって出動している全艦隊にたいして電報命令が発せられました。「ニイタカヤマノボレ一二○八」12月8日、戦争は開始されました。「作戦どおりに全軍突撃せよ」ということ、この日の太平洋は終日南から烈風が吹き荒れていました。
 
     半藤一利「戦争というもの」PHP研究所

 
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孝謙女帝、明正女帝

2023-11-11 05:51:19 | 歴史
日本の天皇は男性に限るという古来の決まりはなく、既に7人の女帝がありまし た。歴代125代の天皇の内、女帝は9代7人です。すなわち、推古天皇(33代)、皇極天皇(35代)、斉明天皇(37代、35代皇極天皇が重祚)、持統天皇(41代)、元明天皇(43代)、元正天皇(44代)、孝謙天皇(46代)、称徳天皇(48代、46代孝謙天皇が重祚)、明正天皇(49代)、後桜町天皇(117代)です。
女帝は少数ではありますが、その御代は概ね穏やかで隆盛であったと言われます。
奈良時代、46代孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の御子であり、後に重祚して48  代称徳天皇になりました。天皇の和歌に下記があります。

     この里は継ぎて霜や置く夏の野に吾が見し草はもみぢたりけり

この里にはいつも霜が降るのか、夏の野に私が見た草は、モミジのように黄葉していたよ


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武侯祠

2023-11-05 05:56:29 | 歴史
中国・四川省・成都には、三国時代の蜀の軍師、諸葛孔明を祀った「武侯祠」があります。(写真下)
 武侯祠(ぶこうし)とは、中国・三国時代の蜀の軍師である諸葛孔明を祀った廟のこと。「武侯祠」という名は諸葛亮の諡である「忠武侯」に由来します。同名の廟が中国各地にありますが、以下の二つが特に有名です。
四川省・成都市にある成都武侯祠という廟堂。
河南省・南陽市にある南陽武侯祠という廟堂。



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後北条氏 あれこれ

2023-10-17 05:59:10 | 歴史
鎌倉時代に執権を務めた前北条氏の後の戦国時代の大名、北条氏を後北条氏といいます。藩祖は伊勢新九郎、後の北条早雲ですが、小田原を中心にして5代(早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直)に亘り、約100年間繁栄しました。北条氏は関東では土着ではなく、よそ者でした。小田原城という難攻不落の城を築いて武田氏、今川氏、上杉氏と対峙しました、また、他の大名の税制が「五公五民」だったのに対して、「四公六民」といわれる「禄寿報恩」と言われる領民重視の善政をしきました。また荒廃した鶴岡八幡宮を再建して関東の覇権をにぎりました。
しかし、その後、五代目の氏直の時に豊臣秀吉と戦い、敗れましたが、氏直は生き延びて河内狭山藩を貰い、江戸時代から今日まで存続しています。
現当主の北条尚氏は今もご健在です。
なお、北条早雲の末子に北条幻庵がおり、幻庵の玄孫の娘のお万の方は徳川家康の側室となり、結城秀康(越前藩祖)、徳川頼宣(紀州藩祖)、徳川頼房(水戸藩祖)を産みました。江戸時代の徳川将軍には紀州系と水戸系が多数いましたので、早雲の子孫が日本の権力者になったともいえます。    



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長岡 花火

2023-09-20 05:50:40 | 歴史
新潟県長岡市の花火大会は不肖の郷里の行事ですが、太平洋戦争の直後、戦没者の鎮魂と慰霊を願って昭和22年(1947)に始まりました。長岡は昭和21年8月1日に米軍の空襲により灰燼に帰し、多くの犠牲者を出しました。広島、長崎に原爆が投下される直前でした。長岡も原爆の標的の候補地であったという説もありますが、不肖が今日あるのは、幸運にも長岡に原爆が投下されなかったからです。この長岡が空襲を受けたのは、わが中学(今日の長岡高校)の先輩、山本五十六元帥の真珠湾奇襲作戦に対する報復だと信じられています。その高校の校歌、第一番は下記です。

我が中学のその位置は構は八文字浮島の兜の城と名も高き旧城跡を前に見て峨々たる嶮峰鋸は其の東面に天を指し本島一の大河なる信濃川は其の西に汪洋広野を浸しつつ北海さして流れゆく。

長岡は河井継之助の下で戊辰の北越戦争(1868)を戦い、西軍に敗れて焼土になった事もあり、市民は不屈の復興魂を持っています。正三尺玉(下 写真)を始め、趣向をこらした現代花火はテレビでもよく放映されています。驚いたことに、長岡市が、昔の敵国アメリカのハワイのホノルルと姉妹都市になって、花火師がハワイに渡って友好の花火を打ちあげているという話もあります。 


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高祖父 玄孫

2023-09-17 05:52:42 | 歴史
の父が祖父、祖父の父が曾祖父、曾祖父の父が高祖父。つまり高祖父は4代上の父です。父という字の替りが母であってもいいのです。高祖父より上の代になると名称がありません。
子の子が孫、孫の子が曾孫、曾孫の子が玄孫(やしゃご)です。
つまり4代下の子供です。5代下が来孫(らいそん)、6代下が昆孫、7代下が仍(じょう)孫、8代下が雲孫(うんそん)です。これより下の名称はないそうです。人の寿命による制約のために高祖父と玄孫が実際に対面できるのは、難しいといわれています。
江戸幕府の8代将軍の座を争ったのは、紀州藩5代藩主・吉宗と、尾張藩6代藩主・継友ですが、両者は徳川家康の玄孫同士でした。結局、吉宗が勝って8代将軍になりました。一方、高祖父の二人が総理大臣というすごい家系の人もいます。元フィギュア-・スケ-ト選手の八木沼純子さんです。八木沼さんの母方の高祖父の松方正義は4代と6代の総理。また同じく母方の高祖父の山本権兵衛は16代と22代の総理大臣です。
また、鎌倉時代後期には、足利尊氏と新田義貞というライバルがいて日本の覇権を争いました。二人共、清和天皇の子孫の源義国の雲孫(8代下の子)でした。兄弟は勿論、子孫同士がライバルになることはよくあるようです。




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 THE LONGEST DAY

2023-09-14 05:54:18 | 歴史
「THE LONGEST DAY, 最も長い日」とは、第2次世界大戦において連合軍の英米軍が、欧州戦線においてフランスのノルマンジ-海岸に上陸し、独軍に対する反攻を開始した日、即ち1944年6月6日のことです。アメリカを代表する映画制作会社、20世紀FOX社が社運をかけて制作した映画の題名です。43億円の巨費を投じ、ジョン・ウェイン、ヘンり-・フォンダ、ロバ-トミッチャム等、英米の有名俳優総出演という豪華版でした。邦題は20世紀FOX社の日本支社の広報を務めていた故・水野晴郎氏が「史上最大の作戦」と命名しました。戦争という文字を使うことなく、大作映画を予感させる優れたタイトルでした。興業も大成功であったということです。邦題の傑作といえば、「How Green was my valley」や「Gone with the wind」 に、「我が谷は緑なりき」「風とともに去りぬ」という邦題を命名したのも、秀れセンスを感じます。さて、日本にも「日本のいちばん長い日」があります。太平洋戦争の終戦の日、1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送に至る一日を描いたドラマであり、書籍も映画もあります。タイトルの選定にも納得です。作者の半藤一利氏の苦心の産物ともいえます。


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飯給駅 小湊鉄道

2023-09-02 05:56:20 | 歴史
房総半島のほぼ中央に、市原市飯給村(いたぶむら)があります。小湊鉄道の飯給駅(いたぶえき)は、難読駅名の代表格です。地名の由来は、壬申の乱(672年)に敗れてこの地に落ち延びたとされる弘文天皇(大友皇子)にまつわる伝説により、飯給駅前の白山神社は弘文天皇を祭神としています。飯給という地名も、この地の人々が天皇の一行に食事をささげたことから、弘文天皇の3人の皇子が飯給の名を与え、それに由来すると言われています。
また、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の平定のためにここを通過した時、住人が食事を献上したことから飯給の地名がついたという伝説もあります。飯給駅は飯給の最寄り駅(写真 下)ですが、1日の平均乗降客はわずか4人という寂しい駅です。しかし、この駅から見える田園風景は大変素晴らしいと人気があります。
房総半島のほぼ中央に、市原市飯給村(いたぶむら)があります。小湊鉄道の飯給駅は、難読駅名の代表格です。地名の由来は、壬申の乱(672年)に敗れてこの地に落ち延びたとされる弘文天皇(大友皇子)にまつわる伝説により、飯給駅前の白山神社は弘文天皇を祭神としています。飯給という地名も、この地の人々が天皇の一行に食事をささげたことから、弘文天皇の3人の皇子が飯給の名を与え、それに由来すると言われています。
また、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の平定のためにここを通過した時、住人が食事を献上したことから飯給の地名がついたという伝説もあります。飯給駅は飯給の最寄り駅(写真 下)ですが、1日の平均乗降客はわずか4人という寂しい駅です。しかし、この駅から見える田園風景は大変素晴らしいと人気があります。





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「戦い」の表現

2023-08-18 05:51:43 | 歴史
「戦い」や事件を表現する言葉は多様です。
「役」「乱」「変」「寇」「戦」「戦争」「事件」などがあります。
「役」 民衆を徴集して兵として権力者が戦う戦、上から目線の表現です。
        前九年の役(1051~62)、後三年の役(1086~1088)
        文禄・慶長の役(1592~1597)

「乱」  戦により世の中がみだれることからこのように称するようです。
やはり上から目線の表現です。
        保元の乱(1850~1901)
        平治の乱(1159)
        応仁の乱(1467~1477)
「変」  乱と似ていますが、意外性や驚愕が感じられる表現です。
        承久の変(1221)
        本能寺の変(1582)
「寇」  外国に侵攻する戦いです。元寇、和冦
「戦」 普通の表現ですから、よく使われてます。
白村江(はくすきのえ、663)の戦
        桶狭間の戦(1560)
        川中島の戦(1553~1564)
        長篠の戦(1575)
        関ヶ原の戦 (1600)
「事件」一般的な表現ですから広く使われます
             元禄赤穂事件 (1701) 四十七士の討ち入り
             池田屋事件(1864)
             寺田屋事件(1862)
 たかが、戦の表現ですが、豊臣秀吉が朝鮮を攻めた文禄・慶長の役は、朝鮮側から見ると
 日本の侵略であり、朝鮮では、自国の年号を用いて「壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱」といわれているそうです。
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五段梯子 長岡藩旗

2023-08-12 05:55:15 | 歴史
不肖が通った高校(元・長岡中学)の第二校歌は堀口大学が作詞しました。
「翳すゆかりの三葉柏(みつばかし) みなもととおき わが藩の高きこころを新しく」と歌い出す古風な歌です。三葉柏は長岡藩主、牧野家の家紋ですが、その他に五段梯子という藩旗(下 写真)があり、戊辰戦争においては藩士は、この藩旗をかかげて西軍と戦いました。この五段梯子について司馬遼太郎は「峠」の中に、次のように書いています。

牧野家の兵はこの梯子の紋章を袖印にして戦場に出る。めずらしい紋章である。源平のころの牧野家の祖、阿波の田口氏の時代からすでにこれを用いていたという。とにかく梯子という道具はめでたがられる。「高きにのぼる」ということで縁起物とされてきた。もっとも江戸城の口のわるい茶坊主などは、「なんのめでたいことがあるものか。梯子は高きにのぼるというが、高きから落ちるということもあろうよ」と、かげ口をいっていた。なるほど阿波・田口氏のむかしから牧野家は登っては落ち、登っては落ちの数奇な家運の連続で、登りっぱなしにのぼったのは徳川三百年のあいだだけであった。牧野家は、徳川十七将の一人であり、老中を勤める家柄でした。
 
    この司馬遼太郎の説とは別に、五段梯子の由来を調べました。時は戦国時代、敵に追われていた牧野の殿様は、領民の納屋に匿ってもらいました。その領民は機転をきかせて、まるで何もなかったように納屋に梯子を立てかけておきました。敵の追手はこれを見て、「何もないだろう」と見事騙され、殿様は無事に逃れきったのです。領民は殿様を差し出せば褒賞をもらえた筈なのにそうはしませんでした。殿様はこのことを忘れず、今まで以上に領民を大切にすることを決意し、五段梯子を藩旗にしました。
 
       司馬遼太郎「峠 前編」 新潮社


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