山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘16年 東北春短か旅 レポート <第6回>

2016-05-21 05:38:34 | くるま旅くらしの話

【今日(5/21)の予定】 

  道の駅:遠野風の丘 →(R340)→(宮古経由)→(R45)→ 道の駅:久慈(泊)

 

【昨日(5/20)のレポート】  天気:晴れ

<行程>

道の駅:遠野風の丘 →(R283・R340・K他)→ 荒川高原牧場 →(K他)→ 早池峰神社(附馬牛地区)→ 江川牧場 →(K・R340・R283)→ 道の駅:遠野風の丘 →(R283・R340他)→ たかむろ水光園 →(R340・R283)→ 道の駅:遠野風の丘 (泊)

<レポート>

 朝2時過ぎに起床。昨日はブログの原稿を書いていなかったため、今朝に持ち越したのだが、なかなかスムースに記事が書けず、書き終えたのは既に日が昇っていた6時近くとなってしまった。4時間近くもかかったことになる。要反省。

 今日もいい天気のようだ。遠野の道の駅は、皆さん働き者で、そうちょうの時過ぎには野菜や苗などを運んでくる農家の軽自動車で賑わっていた。店の開店も8時からと、他所の土地よりも1時間も早い。くるま旅の者には元気を頂けるものとなる。ここは風の丘と名付けられているように、普段から風の通り道となっているようなのだが、昨夜も今朝も風は殆ど無く、敷地の脇に設けられた風車も殆ど動いていない。あまり風の好きでない我々にはありがたい天気が続いていて助かっている。

 今日も一日のんびり過ごす予定で、先ずは重文景(=重要文化的景観)指定の荒川高原牧場に行き、高原の大気を胸一杯吸った後、次は二つある早池峰神社の里宮の内の上附馬牛という地区にある早池峰神社に参拝する予定である。ついでにあわよくば、神社の少し先にある江川牧場へ行ってどぶろくが手に入ればと思ったりしている。あとは特に何も予定はしていない。

 8時半過ぎに道の駅を出発する。附馬牛に行く道の入り口を間違え行き過ぎてしまって引き返したりして、無駄な時間を使ってしまった。元に戻って、途中にある遠野ふるさと村に立ち寄る。ちょっと覗いただけで、中には入らない。直ぐに出発して、途中から右折して荒川沿いの道をどこまでも登ってゆく。道は新緑の燃える樹木たちに包まれており、何とも言えない清新さだ。空気が美味い。30分ほど登り続けて牧場の入口に到着。そのまま走り続けて少し行くと広大な視界が開けて、牧場の本体が現れる。遥か彼方に雪を戴いた早池峰山が見えるのだが、今日はすでに気温が上がっているのか、かすんでいてはっきり見えないのが残念。北海道の山の牧場に勝るとも劣らない広さである。伸び始めた牧草が青々と光り、間もなくやってくる馬や牛たちを待っているのであろう。休憩所も何もない自然のままの牧場なので、途中まで行って引返すことにした。

 ここで疑問が一つ湧いた。前回来た時は桜が咲いていて、道脇にたらの木が点在して、その芽を大量に収穫したのだが、今回はそれらしき牧場脇の場所がどこにも見当たらないのである。それに前回はこれほど広大なスケールの牧場には見えなかったのも不思議である。どうやら前回とは違う道を通って来たらしい。どこで取違えたのかが気になり、引き返して入口近くにある細い道を入って行くことにした。すると、たちまち前回の風景の記憶が戻って来た。どうやら正解は今回の方のようで、前回は牧場の本体を見ていなかったようである。で、タラの芽はどうなっているかと、同じ場所へ行ってみたのだが、もはや芽は消え去って、大きな葉が笑いかけているばかりだった。未だ少しは出遅れた木もあるのではないかと期待したのだが、今年は春の到来がいつもよりも早かったようで、期待は甘すぎたのを実感する。タラの芽の収穫はなしだったけど、牧場の本体を見ることが出来て良かったと満足する。

   

荒川高原牧場の景観。もう草がかなり伸び出している。牧場の広さを撮るのは難しい。遠くに早池峰山が見えるのだが、今日は霞んでいてはっきりしないのが残念。

 荒川高原牧場は遠野市に二つある国指定重文景の内の一つで、その昔東北地方では馬の飼育が盛んだったのだが、この地方では「夏山冬里」と言って、馬の飼育法として冬は里の曲がり屋の中に一緒に住まわせて馬を買い、夏になるとこの荒川高原の牧場に連れて来て放牧飼育を行った、その当時の原形をとどめているの景観がこの牧場なのである。里中の馬が集められて放牧されるさまは、壮観だったのではないか。馬に寄り添うそれぞれの人々の思いなども浮かんで来て、やはりここへ来て良かったなと思った。

 次は早池峰山麓の一つ丘を越えた所にある早池峰神社に向かう。この辺りは附馬牛(つきもうし)と呼ばれる地区で、早池峰神社は上附馬牛にある二つある早池峰神社里宮の一つである。勿論本宮は早池峰山頂ということになる。何年か前にこの神社を訪れた時は、拝殿の屋根が朽ちて下がりかけており、古びた風情を通り越して何とも不気味な感じすら感じさせられたのだったが、今回訪れて見ると、屋根は葺き替えられて一新されており、全く違う雰囲気となっていた。全体的には重厚な雰囲気があり、早池峰の山のこの地方における影響力を代表する神社なのだなと改めて思った。

   

早池峰神社の拝殿。屋根はきれいに葺きかえられており、以前来た時とは雰囲気が全く変わってしまっていた。

 丁度昼時となっている時刻なので、ここでご飯を炊いて昼食にすることにした。境内脇の駐車場には杉の大木の木陰があり、涼風も良く通って、快適だ。このような場所でご飯を食べるのは不謹慎なのかもしれないけど、神様に守られて食べているのだと、勝手に解釈して感謝しながらの食事だった。境内には未だ二輪草などが咲き残っており、小さなお花畑を作っていた。その中には小さな小さなフデリンドウなども点在して咲いており、これはよくよく注意してみていないと見つけにくいものである。今回も相棒の手柄だった。杉やイチイなどの大木の下にひっそりと咲く花には、誰だって愛おしさを感ずるものであろう。癒された時間だった。

   

早池峰神社境内の木立の中の陽だまりに見つけたフデリンドウの一株。小さいながらも懸命にその存在を主張しているかのようだ。

 昼食を終え参詣が終わって、直ぐ近くに江川牧場というのがあり、ここでどぶろくの製造が許可されていると以前TVで見たのを覚えており、行って見ることにした。5分もかからぬ内に着いたのだが、どうやら昼時なので牧場の皆さんは休憩中らしく人のいる雰囲気が感ぜられず、お邪魔するのは控えることにした。この辺りは未だ八重桜が咲き残っており、その他の花も今を盛りに紅白様々な彩りで咲き乱れていた。

 Uターンして遠野の市街地の方に向かう。相棒が来る時に寄ったふるさと村で買い物をしたいというので、もう一度寄ることにした。途中の田園風景といえば、この地方の田植えは植え時が遅いのか、今がその真っ盛りらしく、田植の機械が忙しく働いていた。水を張った水田が、早く植えてくれよとせがむ如くに、おちこちに光を放っていた。一時田植えというのは北に行くほど早いものだと思っていたのだが、この頃は全国どこでもあまり変わらなくなっているように思えた。稲の品種改良が大きく進歩して来ているからなのであろう。そのようなことを想いながらの走行だった。

   

道脇のあちこちにこのような田植えの準備姿が見受けられた。米作り農家にとっては、秋の収穫期に並ぶ大忙しの時期である。

 途中で相棒がどうしてももう一度山口集落にあるデンデラ野を見たいというので、そこへ向かうことにする。デンデラ野というのは、棄老慣習の一つで、この地方ではその昔暮らしの貧しき厳しさのために、働く力の弱まった60歳の還暦を迎えると、このデンデラ野と呼ばれる小さな草叢の広場の片隅にある掘立小屋で、共同生活をしながらあの世からお迎えが来るのを待つという、哀しい習わしがあったという、その現実の場所なのである。この辺一体の昔の様子は、彼の柳田国男の遠の物語にも載っており、それらの話の提供・協力者の佐々木喜善氏の住まいも直ぐ近くにある。この辺りも又重文景に指定されており、如何にも数々の民話が生まれそうな山奥の農村の暮らしを想わせる風景が残っている。

 デンデラ野に来るのは二度目である。小さな坂を登ると展望が開けて、そこが老人たちが共同生活をした草叢であり、その隅の方に「あがりの家」と呼ばれる小さな藁ぶきの掘立小屋が建てられていた。往時であれば、もっと貧しい姿だったのかもしれない。中を覗くと、真中に囲炉裏が切ってあり、そこに鉄瓶一つが掛けられる自在鈎があるだけで、恐らく老人たちはその周りで暖を取りながら否藁や藁の筵(むしろ)の中で、毎夜を送ったのであろう。何とも哀しい、残酷な景観だった。

   

デンデラ野の景観。中央彼方に見えるのはあがりの家の掘立小屋。自分など、往時であればこの小屋の長老格となっているに違いない。否、それまで生きていられるはずがない。

 デンデラ野を見た後は、相棒が温泉に入りたいというので、道の駅案内の情報誌に載っている温泉に行ったのだが、料金とは全く釣り合わない施設なので、止めることにして一度道の駅に戻り、そこでよい施設があれば紹介して頂くことにした。道の駅の案内の方はとても親切丁寧で、先ほど近くを通ったたかむろ水光園というのを紹介して頂いた。早速もう一度そこへ向かって出発する。結果的には超ラッキーで何と金曜日は特別料金で半額なのだという。十二分に満足して入浴を終え、再び道の駅に戻る。今夜もここ泊まりである。昨日よりも空いている感じがした。静かな一夜が送れるようである。

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‘16年 東北春短か旅 レポート <第5回>

2016-05-20 06:13:16 | くるま旅くらしの話

【今日(5/20)の予定】 

  道の駅:遠野風の丘 →(R283・R340・K他)→ 荒川高原牧場 →(K他)→ 早池峰神社(附馬牛地区)→(K・R340・R283)→ 道の駅:遠野風の丘(泊)

 

【昨日(5/19)のレポート】 天気:晴れ

<行程>

道の駅;東和 →(R283他)→ 宮沢賢治記念館 →(R283他)→ 道の駅:遠野風の丘(泊)

<レポート>

 東和の道の駅には、もう何度もお世話になっている。この道の駅の温泉は疲れを良くとってくれる。近くに釜石からの高速道のICもあり、交通アクセスも便利なところだ。くるま旅の人たたちには人気の場所らしく、昨夜はかなりの泊りの車があったようだ。今朝も天気は上々だ。5時半過ぎまでにはブログの投稿を済ませ、付近の散策に出発する。昨日来た道の反対側の方へ行ってみた。今まで気づかなかったのだが、この町にはJRが走っており、土沢という駅があったのである。昔の岩手軽便鉄道の駅の一つだったとか。彼の宮沢賢治も何度かここを訪れており、銀河鉄道の中にもそのイメージが組み込まれていたのかもしれないなと思ったりした。往時とはもうすっかり様子は変わってしまっているのだろうけど、付近の森などの様子を見ながら、往時の人々の暮らしなどを想った。1時間ほどの散策だったが、この地に一層の愛着のようなものを覚えた。

 朝食を済ませた後、出発の準備をする。今日は先ず近くにある日本一の大きさといわれている重文でもある毘沙門天のある熊野神社に参詣し、その後は比較的近くにある宮沢賢治記念館を訪ねる予定にしている。それが終わったら遠野の道の駅に行って、ゆっくりするだけしか考えていない。かなり余裕のある日程である。

 出発の前に、昨夜から近くに泊っている手づくりのトラック改造の旅車があり、相棒が興味を持っていて、とうとう我慢しきれすに何やら話しかけに出掛けたようだった。しばらくすると相棒から声をかけられたので行って見ると、札幌からの方だった。相棒は北海道の方には格別の親近感があり、盛んに話を発展させてしまっていたようだった。話に加わってしばらく歓談する。今回は九州に入って来られたとのことで、4カ月も旅をされていて、そのうち3カ月は鹿児島エリアで過ごされたとか。先の熊本大地震のことを伺ったら、偶々その時は熊本県内の阿蘇に滞在されていたのを移動されて、大災害を被った益城町から30kmほど離れた所に泊っておられたとか。幸い直接の被害を被ることは無かったものの、地震の凄さ、連続する揺れの多さに平衡感覚を損なわれるほどのショックを覚えられたと話されていた。急ぎ安全ルートを探して脱出されたとのことだった。天災地変は予想できるものではなく、いざという時にどう行動するかの大事さを改めて思い知らされた感があった。手づくりの旅車は、以前は学校給食のパンを運ぶためのトラックだったそうで、それをそのまま使って改造しているので、前方から見ると旅車とは気づかず、普通のトラックそのものなのだった。しかし、ドアと窓が取り付けられた居室は様々な工夫が施されているようで、快適そうな様子だった。何しろ建築の専門家の方とのことなので、アイデアを出すのも作るのも自在なのだろうなと思った。無才の者には羨ましい限りである。20分ほどの楽しい時間だった。

 9時過ぎに出発して熊野神社に向かう。直ぐに階段の下方にある駐車場に到着。以前に来た時はもっと近くに駐車場があったような気がしたが、上に上がる道が細く狭いので不安を覚え、今日は時間に余裕があるので歩いてゆくことにする。ところがこれがなかなかの急坂続きで、300段ほどはあったろうか。自分は毎朝の鍛錬で2000段を上下しているので大したことはないのだが、相棒の方は殆ど歩いていないので、途中で息が上がってしまい、何度も息次の休憩が必要となった。15分ほどかかってようやく鳥居に到着する。

    

熊野神社入り口の鳥居。すぐ近くに駐車場があるのに、階段道を選ぶとは、老人にあらぬ振る舞いだった。

 熊野神社は、当地では三熊野神社とも呼ばれているらしい。重文の毘沙門天は有名だが、この神社にはもう一つ有名な行事がある。それは子泣き相撲というもので、境内につくられた大きな土俵で2歳未満の子供同士が睨み合って(?)、先に泣き出した方が負けという取り組みなのである。まだその本物を見たことはないけど、TVで見た時は、なかなか面白いものだなと思った。

       

子泣き相撲の行われる相撲場。この屋根の下の土俵上で、何組もの小さな子どもたちの平和な戦いが行われる。相棒は泣いた方が勝ちだと言っていた。

 鳥居をくぐって境内に入ると、その子泣き相撲の土俵があり、奥の方に毘沙門天を収蔵する建て屋が見えた。草取りをしている女性がおられて挨拶すると、どうやらその方が毘沙門天見学の受け付けをされる方らしく、ご案内を頂き、入りいろいろ解説して頂くこととなった。毘沙門天を拝観する前に古い覆い堂の方を訪ねる。ここも昨日の金色堂と同じように覆堂が造られており、現在収蔵されているのは、3回目のお堂らしかった。一番奥の新しい覆堂の中に毘沙門天は収まっていた。拝観料500円也を支払って、二度目の拝観となる。今回は付きっきりでその女性から細かく丁寧な解説をして頂いたので、とても判り易く、毘沙門天だけではなく、その他の仏像のことも理解でき勉強になった。

     

毘沙門天像。4mを超す大きな像は、ケヤキの一木で造られているとか。東北の地の守護神として、現在はここにおられて睨みをきかせている。

その後も境内にある巨大なさざれ石などの話を聞き、この地にはさざれ石が多いのだとも伺った。そう言えばあちこちに見かけるのである。又子泣き相撲のことも。これはかなり人気のある行事であるらしく、大勢の参加者があり、一度に一組の取り組みでは処理できなくて、同時に何組もの勝負をこなすとか。一人の子に両親やジジババなどがついて来ているので、境内は人で溢れて、それはそれは賑やかなのだとも話されていた。我が家の孫は上の子はもう出場資格を失っているので、下の孫娘なら出場して優勝出来るかもしれない、などとジジバカの考えが頭をよぎった。参拝を終わり、次の目的地の宮沢賢治記念館に向かう。

 記念館には20分ほどで到着する。ここも来訪は二度目である。小高い山というのか丘というのか、自然林をそのまま生かした広大な敷地のテーマパークといってよい空間が広がっている。さすが岩手県だなと、前回始めて来た時の印象だった。前回も春の季節だったが、今回は少し遅いタイミングで来ている。ここへ来る何よりの楽しみは、自生しているカキランを見ることなのだ。しかし、今回は時期的にどうなのか自信はない。坂を登った広場にある駐車場に車を留め、先ずは賢治も何度も参拝したであろう胡四王神社に参拝する。ここに参拝するのは、その途中の道脇にもしかしたらカキランが見つかるかもしれないという期待があるからである。300mほどの参道には、早や前回見られたイカリ草の花は終わっているようなので、先ずは無理だろうなと思った。胡四王神社は蘇民祭でも知られており、なかなか由緒ある神社で、小規模ながら本殿も風格のある建物である。ここへ来たくなるもう一つの理由は、神社の脇から見渡せる花巻平野というのか、盆地というのか、壮大な眺めである。かつて賢治が教鞭をとった花巻農学校を初め、遠く和賀山の裾の辺りまでの平野の広がりは、賢治の繊細な作品の裏返しのような奥深い宇宙を想わせるようで、楽しい。今回もその景観を胸に吸い込んで、堪能した。

 記念館の他に、ここにはイーハトーブ館というのもあるのだが、そこへ行かなくても前回の経験もあり賢治のことはそれなりに頭に入っているので、観るのは止めることにした。カキランは見つからなかったけど、胡四王神社の帰り道に相棒が小さなギンランを発見して、これも嬉しい気づきだった。この頃は相棒も植生に目が行くようになっており、時々先を越されてしまうのだが、もうそれでいいと思っている。真老には競争意識は無用である。昼食を摂りに駐車場わきにある山猫という名のレストランに入る。賢治の作品の中に「注文の多い料理店」というのがあるけど、このレストランはそれになぞらえて命名されているのか、店内にはその雰囲気が溢れていた。食べた白金豚のカツ丼は、関西風だったのは意外だった。関東者にはこの選択は失敗だった。でも、いい雰囲気で満腹になり満足する。

 食事の後は、駐車場を出て、坂の下にあるもう一つのテーマ広場の童話館の方へ移動する。ここはメルヘンの世界へと大人も子どもも誘ってくれる空間である。広い芝生とその中に舞台が造られ、山裾には小さな流れと池もあって、バスで訪れた保育園のと思しき子どもたちが広場を駆け回り、小さな流れの中で夢中になって声を上げながら水遊びをしていた。老人は、それらの眺めと声を聞きながら、緑の森の中に設えられた木製のベンチに身を横たえ、近くの拡声器から流れてくる賢治の童話作品の朗読を子守唄として、しばらくまどろみの時間を楽しんだ。相棒は忙しくどこかへ行ってしまったようだ。実に気持がよくて、20分以上も眠ってしまったようだ。童話館に来たら是非チャレンジしてみようという老人の夢が実現して十二分に満足する。そのあと、木立の鮮緑の中をゆっくり散策する。途中で少し大きめのギンランの花を見つけて、嬉しくなった。白く輝く花は透き通った銀なのだと思った。賢治の世界に入ると、透明な銀という存在がごく普通に見つかるような気がする。不思議な人である。

    

童話館の林の中に見出したギンランの一株。目立たない存在だが、賢治先生ならギンランの方から話しかけるに違いない。

 話は変わるけど、やっぱり宮沢賢治という人は天才だと思う。同時代を生きたどんな文豪と呼ばれる偉い人たちよりも、人間的に優れた天才ではないか。自分はそう確信している。文学という世界だけではなく、それ以外の実学においても優れた才能を持つ偉大な人物だったように思う。しかし現実には恵まれた環境には無かった。だから彼の持つ才能、エネルギーはその生きている間にはほんのわずかしか発現されていなかったのだと思う。しかし、後世の今まで、そしてこれからも彼の世に表わした才能の成果は、人間は何かをその素晴らしさ、可能性を、ことばの力を通して伝え続けるに違いない。自分はそう思っている。

 童話館で1時間半ほど過ごした後、遠野に向かって出発する。途中道の駅:みやもりに寄り休憩。ここには直ぐ近くにめがね橋と呼ばれるJR釜石線の陸橋があり、鉄道写真マニアには欠かすことの出来ない撮影ポイントとなっている。このめがね橋の景観は、かつて岩手軽便鉄道の時代に宮沢賢治が銀河鉄道を発想する原点となった場所としても有名になっている。今日はあわよくば列車が通ったらカメラに収めようと寄ったのだったが、時刻表を見ると残念ながらあと1時間以上も待たないと上下ともに列車の通過はないということで断念せざるを得なかった。諦めて移動しようと車の外に出ようとしていたら、何と列車が通り始めているではないか。しかもSLがである。何と言うアンラッキーなタイミングなのであろう。相棒の悔しがること、地団駄を踏むかの如くだった。相棒のカメラはでかいので直ぐに撮影できる代物ではない。自分の方はちびカメでかろうじてそれらしきものを1枚撮っただけだった。トンだハプニングだった。あとで聞くと、時々臨時列車や回送列車が走るそうで、今回はどこかの団体が貸切で使ったそうで、一般の人にはその情報は入らないようだ。やむなし。

    

慌てて飛び出して行って、大急ぎで撮ったSLの姿。江になっているようには見えないけど、とにかく写っていて良かった。

 その後は遠野の道の駅:遠野風の丘に向かう。ここも何度もお世話になっている場所だ。一先ず混み具合を確認した後、町中まで買い物に往復する。定着の錨を下ろしたのは15時頃だった。その後は特に何もすることはなく、相棒が道の駅の中をぶらついて買い求めて来た肴の類を、腹の中に早めに収めた方がいいだろうと、超早めの夕食タイムとなし、その後はTVを見るのもやめにして寝床にもぐりこむ。その後、相棒が何をしていたのかは知る由もなし。

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‘16年 東北春短か旅 レポート <第4回>

2016-05-19 05:04:36 | くるま旅くらしの話

【今日(5/19)の予定】 

  道の駅;東和 →(R283他)→ 宮沢賢治記念館 →(R283他)→ 道の駅:遠野風の丘(泊)

 

【昨日(5/18)のレポート】 天気:晴れ

<行程>

道の駅:厳美渓 → 厳美渓散策 →(R342・K他)→ 中尊寺参詣 →(R4・R283他)→ 道の駅:東和(泊)

<レポート>

 快晴の朝を迎えた。今日からしばらくはこのような天気が続くらしい。ありがたいことではある。このところあまりにも早く寝てしまうためにか、夜中に目覚めて二度寝を余儀なくされるため、浅い眠りの中で碌でもない夢を見てばかりいて、どうも目覚めがすっきりしない。さりとて遅く寝るのも電源の都合等で難しく、とにかく異常な早や寝に馴れるしかない。しかし、快晴の朝を迎えると夜の眠りの悩みは一掃できるのが嬉しい。もし曇りや雨ならば、一日の始まりが鬱陶しくなるに違いない。旅の中では、普段とは違う悩みが生まれるのである。

 今日は当初の予定を少し遅らせた中尊寺参詣をじっくり行うことにしている。その後は移動時間で、今日の泊りは温泉のある花巻市郊外の道の駅:東和を予定している。

朝食の後、すぐ傍にある厳美渓を散策することにする。厳美渓は直ぐ近くを流れる磐井川が川底や川岸の岩石を浸蝕して出来た渓谷美を誇る名所で、彼の伊達政宗公もこよなくこの景観を愛されたとか。川の沿道には彼が植えたという桜並木などがあって、今日でも大勢の観光客が訪れる場所である。道の駅からは歩いて10分ほどでその中心エリアに行くことができる。全部を歩くと少し時間をオーバーしてしまうので、今回は御覧場橋という吊り橋を渡って、もう一つの橋までの散策路を30分ほどかけて歩くにとどめた。渓谷は、今は樹木たちの緑に溢れており、加えて渓流の生み出すマイナスイオンも加わって、何とも言えない爽やかな気分に満たされる時間だった。何枚かの写真を撮りながら、樹木たちと共に至福のひと時を味わう散策だった。

新緑とマイナスイオンに溢れる厳美渓の景観。これは御覧場橋から撮ったもの。

車に戻り、いつものようにゴミやトイレの処理をして、中尊寺に向けて出発したのは9時を少し回った頃だった。中尊寺までは15分足らずである。昨日の毛越寺の前を過ぎて少し行くとR4に入り、それを1kmほど行くと左手に中尊寺の入口の月見坂があり、その脇に駐車場があった。そこに車を留め、早速参詣に向かう。中尊寺にはたくさんの伽藍が残されているのだが、その中で何と言っても世界遺産の中核となっているのは金色堂であろう。これはお寺の本堂などの存在を忘れさすほどに超有名で、ま、日本人なら知らない者はいないというほどである。我々の目的もこの金色堂にあるのだけど、自分的には些かこの建物には抵抗があって、もろ手を挙げて素晴らしいとは賞賛できない。そのような気分で今回も観ることになるのだろなと思いながら、急な月見坂を一歩一歩と足を進める。昨日までの雨で足元が未だぬかるんでおり、歩き難い状況だった。今日はゴールデンウイーク明けの平日であり、観光客は一休みといったところなのか、団体客も少なく、参詣者の大半は我々と同世代の人のようだった。このような急坂をいつまで歩けるのか、もしかしたら今回が最後となるのではないかなどと、真老に身にはあれこれと思いが錯綜する。

とにかく金色堂を見るまでの間にある伽藍の一つ一つをカメラに収めておこうと、時間をかけながらの参詣だった。最後に白山神社の能舞台を見た後、宝物や仏像を収蔵している讃衡蔵を見物し、その後いよいよ金色堂へ。その前に解説のビデオを見ておいて、ぬかりなく黄金や螺鈿細工に彩られた往時の浄土世界の権化とも思われる奥州藤原三代の至宝と謳われる世界を鑑賞する。平安時代においては、本家の藤原一族よりも歴史上にはより大きく名を止める遺産に相応しい、息をのむ世界だった。撮影禁止なので、何だか物足りない感がしたが、これはルールなので致し方ない。その後、移設されて今はガラン堂となっている金色堂覆堂で休む。今はコンクリート製の新しい覆堂の中に金色堂は収まっているけど、それ以前はこの古い建物の中に収まっていたわけである。恒久的保存のためには現在の建物の方が優れているのだとは思うけど、何だかこの古い覆堂の方が金色堂は似合うのではないかと思ったりした。ま、我がままというものであろう。これで参詣の目的は達成。

   

古い覆堂の佇まい。近代に至るまでこの建物が黄金に輝く世界遺産を守り続けて来たのだと思うと、頭が下がる思いがある。守るものは失ってしまったけど、これからはおのれ自身をずーっと守り続けてほしい。

その後はゆるりと坂を下り、途中にある茶店で昼食にそばを食す。杉木立の中の店はそよ風がよく通って、そばの味を層倍にしてくれた。美味だった。満腹の後は再びゆるりと歩を進めて、駐車場に戻る。一息入れて後、近くにある世界遺産センターを覗くことにした。車で2~3分ほどの距離にあるその建物は、映像や資料等で、藤原三代が栄華に至るまでや、三代のそれぞれの特徴などが解説されており、今迄見て来たものを整理する上で役立った。無料なのもありがたい。時刻は13時頃となっており、これで平泉の世界遺産関係の探訪を終え、あとは今日の泊り予定の花巻市郊外の道の駅:東和を目指すだけ。

R4に入って、ひたすら北上を続ける。奥州市、鐘ヶ崎町、北上市を通過して、花巻市からR283に入って、目的の東和の道の駅に着いたのは15時前だった。日は高く、暑さもかなりのものである。入浴までにはかなり時間があるので、しばらくはカメラのPCへの取り込みやTVなどを見たりして過ごす。16時頃になって相棒が先に温泉に入りに行き、戻ってから交代で今度は自分が。温泉は空いていて、ゆっくりといい湯を楽しむことが出来た。今回の旅のテーマの一つが「ゆっくり・ゆったり」なので、今日はそれにふさわしい過ごし方が出来たのではないかと思った。

すぐ傍にある田んぼでは、蛙たちの合唱が続いていた。相棒は昨夜は良く眠れなかったと、早々に寝床人入り、寝息を立てていた。今日は珍しく22時近くまで起きてブログの下書きなどをして、それを終えて自分も寝床に入る。明日のメインの予定は、直ぐ近くにある宮沢賢治記念館の探訪である。

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‘16年 東北春短か旅 レポート <第3回>

2016-05-18 06:10:15 | くるま旅くらしの話

【今日(5/18)の予定】 

  道の駅:厳美渓 →(R342・K他)→ 中尊寺参詣 →(R4・R283他)→ 道の駅:東和(泊)

 【昨日(5/17)のレポート】 天気:雨

<行程>

長者原SA →(東北道)→ 一関IC →(R342)→ 道の駅:厳美渓)→(R342)→ 毛越寺参詣 →(K・R342)→ 本寺村:骨寺村荘園跡探訪 →(R342)→ 道の駅:厳美渓(泊)

<レポート>

 予報通りの雨となったのは、真夜中の3時頃か。車の中では、天井を叩く雨音で過ぎにそれと気がつく。その後一時止んだのだが、しばらくすると再び雨音がし出し、やがてもはや止まらぬ本降りとなった。昨夜は旅の初日で、自分ではさほど興奮している気分ではないのに、なかなか寝付かれず往生した。350km以上走っているので、疲れて直ぐに眠れると思ったのに、案に相違して眼が冴えてしまい、ああまだ未だ老人にも元気が残っているのを実感したのだった。ものごとは何でも自分の都合のいい方に解釈した方がよい。それでも8時間以上も寝床に横たわっていると、いつの間にか眠りに連れ去られて、目覚めた時には案外すっきりしているのに安心した。

 さて、今日は予定では瀬かい遺産に係わる平泉や一関の名所等をめぐることにしているのだが、この雨ではとても全部をこなすのは無理なので、午後には雨が上がるという予報を信じて、それまでは道の駅:厳美渓で時間を過ごし、その後骨寺村荘園遺跡に移動して、各所を訪ね歩くことにすることにして出発する。平泉の毛越寺と中尊寺は明日に延ばすことにした。かなり余裕のある日程なので、高速道を次の築館ICで下りて、その後は一般道を行くことにした。築館からR4を少し走って給油を済ませ、一関~R342に入り、道の駅:厳美渓に到着。

雨は一向に止む気配がない。12時近くまで待ったけどこれでは荘園跡の散策は無理かもしれない。昼食の後に取り敢えず雨の中の景色を見に行くことにし、その後で、これ又雨の毛越寺庭園を先に見ることにしようと、予定を変更する。

毛越寺を訪ねるのは、確か三度目だと思うけどここ10年くらいはご無沙汰している感じで印象も朧となりかけている。今日はしっかりとあの平安時代を代表する浄土庭園なるものを鑑賞したいと思っている。道の駅からは10分ほどで直ぐに到着する。着いた頃から雨は止み始め出したようで、傘を持つかどうか迷わされた。拝観料500円也を支払って参詣開始。足元が少し柔らかくて歩き難いのを我慢しながらの参詣となった。広い庭園の周りをゆっくりと一周する。どこが正面なのか良く解らないけど、恐らく南側の方から観た景色が正面の姿となるのであろう。左手の築山の方から右回りに順路に従って歩く。この庭園には豪壮な寺院の建築物が幾つもあったらしいけど、それらのすべては消失したりして、現存する建物も江戸の中期頃に造られたものがあるばかりである。跡地を眺めていても、往時の様子を思い浮かべることはとても無理なようである。それでも池をめぐる景観は、往時としっかりつながっており、往時の人たちが描いたあこがれの浄土というものが、どのような姿をしていたのかは思い描くことが出来るような気がした。池を取り巻くたくさんの樹木たちは、どの樹も新緑に染まって、今の春を存分に喜んでいるかのように見えた。1時間ほどの参詣だったが、今までとは少し違った味わいの時間だった。真老となった自分の心境の変化がもたらすものなのかもしれないなと思った。

    

毛越寺庭園の景観。洲浜と呼ばれる海の景観を模して造られた個所には、海岸から海に突き出た岩石群が並んで造られていた。スケールが大きすぎてチビカメラには収まらない。

 参詣が終わりかけて、最後に入り口近くに描かれていた復元絵を見ていたら、後の方で声がした。新しく訪れた観光客をガイドの人が案内を始めたらしい。復元絵を見ながら、「今はもう建物は何一つ残っていなくて、只この池だけが昔のままに残っているのですよ」というと、観光客の女性が、「あら、成田山に似てるは!」と、すかさずガイドの方が、「そうですね、似ていますね」と相の手を打った。思わず振り返ってしまった。自分にはどこが似ているのか判らなかったが、ま、世の中はこのような理解の仕方で成り立っているのだろうなと思い、何となく楽しくなってしまった。

参詣を終えた頃から青空が見え出し、どうやら予報通りに天の気分は回復に向かったらしい。その後は、骨寺村荘園跡に向かって出発する。途中に達谷屈(たっこくのいわや)というのがあり、磨崖仏が見えたので、ちょっと寄って写真などを撮る。

 骨寺村荘園跡を訪ねるのは3度目である。この荘園は平安時代の奥州藤原氏三代の世には、中尊寺経蔵別当に属する荘園だった所で、今の世には珍しい往時の姿を止める国の重要文化的景観指定の場所なのである。中尊寺や毛越寺時だけが世界遺産に登録されているけど、何故この骨寺村荘園跡がそれに漏れることになるのか、大いなる疑問は最初にここを訪れた時から消えてはいない。歴史遺産であるなら、きらびやかで目立つ物ばかりではなく、それらを蔭で支えて今の時代にまでそれを伝え示している場所を指定しないのは片手落ちというものであろう。決定者の愚かさなのか、はたまた別の思惑があるのか、凡人の自分たちには思うすべもない。自分的にはこれは日本の田舎かの原風景であり、仏像などよりも以上に貴重な景観だと思っており、この辺りを通る時は必ず立ち寄ることを心がけている。

 雨の中の来訪は初めてのことだった。しかし途中から青空が覗き出し、13kmほどを走る間に天気はすっかり回復してしまった。真にラッキーだったのだけど、荘園跡を訪ねる際の基地となっている若神子亭という所が今日は生憎の定休日で、DVD映像などを見ることが出来ない。仕方がないので、現地の中で全体を眺望し易い駒形根神社という所に行くことにした。その直ぐ下に車を止め、早速神社に参拝する。鳥居をくぐって石段を少し登ると、小さな社の建物が、以前のままに鎮座していた。境内からは、杉の枝越しに田植を終わったばかりの水田が、中心を流れる本寺川の両側に広がっていて、射し始めた日の光を浴びて眩しく輝いていた。

     

本寺川左岸の田園風景。この辺りは昔から優れた米穀類の生産地だったようだ。その豊さを感じさせられる景観である。

 参拝を終えてしばらく本寺川の脇道を歩くことにした。道脇にはハルジオンやキンポウゲ、タンポポなどの花が咲き乱れ、花には小さなシジミ蝶が止まって動かなかった。田んぼの中からは春を謳歌する蛙たちの大合唱があちら、こちらか届いてくる。遠くの低い山の裾には幾棟かの家がこんもりと杉などのイグネに囲まれて、まあ、何とのどかな風景なのであろう。これぞ日本国の農村の現風景なのだなと思った。今では、さすがに田んぼを囲む曲線の畔は殆ど無くなり、機械化作業のための水田は規模が大きくなって、往時とはかけ離れた姿とはなっているけど、これは仕方のないことだ。田んぼの畦に生えるハルジオンや西洋タンポポなども千年も昔には決して見られる花ではなかったのだろうけど、これもまた仕方がない。小1時間ほどその田園風景を楽しんだ後、車に戻り帰途に着く。

    

杉などの大木の林でつくられたイグネに囲まれた農家の景観。北と西側にしっかりと栗駒からの寒風を防ぐ手立てが施されている。

 今夜は道の駅:厳美渓にお世話になるつもり。そこに落ち着く前に、買い物に一関のイオンまで行くことにして、泊りの体勢に入ったのは17時頃だった。まだかなり日が高いので、しばらくはラジオなどを聴きながら今日の写真の整理などをする。ここはTVは全くダメで、どういうわけかBSも映らない。こんな時は無理をせずにあっさり諦めるのが肝心、と旅の経験からそう悟っている。

 夕食を済ませ、することも無く今日も早めの就寝となる。明日は午前中に中尊寺などの参詣を済ませ、その後は移動の時間となる。今夜は上手く眠れるか?

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‘16年 東北春短か旅 レポート <第2回>

2016-05-17 06:46:56 | くるま旅くらしの話

【今日(5/17)の予定】 

  長者原SA →(東北道)→ 一関IC →(R342)→ 道の駅:厳美渓)→(R342)→ 本寺村:骨寺村荘園跡探訪 →(R342・K他)→ 毛越寺庭園探訪 →(K他)→ 中尊寺探訪 →(R4他)→ 道の駅:水沢(泊)

 

【昨日(5/16)のレポート】 天気:曇り

<行程>

自宅 →(R294)→ 道の駅:東山道伊王野 →(R294・R4)→ 二本松IC →(東北道)→ 長者原SA(泊)

<レポート>

 曇天。孫との泣き別れの出発は予想通りだった。少しさびしく、少し嬉しいような妙な気分での旅の出発となった。今日の予定は、移動が中心で、途中福島県の須賀川市にある牡丹園を訪ね、その後は高速道で宮城県の長者原SAまで行き、そこに泊ることにしている。

 まずは出発してしばらくは、茨城県南の田園地帯を走る。隣の常総市は昨年とんでもない洪水禍に見舞われ、大自然のもたらす強大な脅威を思い知らされたのだが、今はその田んぼも殆ど何事も無かったように水を湛えて植えたばかりの苗が風にそよいでいた。しかし、こののどかな風景の裏には、いまだ災害禍からの苦しみを逃れられない人々が大勢いることを忘れてはならないと思った。併せて、今地震の頻発の中で、明日の見通しも立っていない大勢の人々のおられる熊本や大分の人たちのことを思った。この頃の大自然の怒りの大きさは、我々人間どもに対しては特に厳しいものがあるように感じている。

 筑西市を過ぎ、栃木県の真岡市に入る。少し行くと益子焼で有名な益子町を通過する。何台かの観光バスとすれ違ったのは、これから焼き物を見に行くのか、それとも近くにある地酒屋さんの酒蔵見学なのか。春の観光シーズンは今がたけなわなのかなと思いながら通過する。しばらく曲線の多い山間の道を走って、ようやく平地の見える那須烏山市に入る。市街を抜けた後、那珂川が造り出したのであろう平地に、突出して造られている大型のスーパーに寄り、今日の食材等を仕入れる。今夜は豆腐で一杯やって寝るだけの予定でいる。

 その後はしばらく同じような道を走り続けて、那珂川町方大田原市となった黒羽町を通過する。ここは東山道の宿場があり、松尾芭蕉の奥の細道にも載っている場所だ。今頃といえば、鮎の甘露煮などが人々の興味を引くくらいの静かな町のたたずまいである。更に少し走って、道の駅:東山道伊王野に着く。ここで昼食休憩の予定。

 この道の駅には大きな水車があり、それを使って蕎麦粉を挽いているのだが、地元の人たちがその蕎麦粉を手打ちで作る、その名も水車そばという一品は、名物の一つとなっており、今日もそれを楽しみにここにやって来ている人が大勢いた。我々も早速店の中に入り、その水車そばをオーダーする。出来上がるまでのしばらく待つ間は、そば打ちの人の様子や巨大な水車を眺めたりして飽きない。村の水車という唱歌などを思いだしたりするのだが、恐らくこんなに大きな水車のある村はその当時はどこにもなかったのではないか。そのような他愛もないことを想っている内に蕎麦がやって来た。一言。美味なり。

 時刻は13時近くになっていた。ここから今日のメイン訪問先の須賀川牡丹園までは1時間半くらいかかりそうだ。園内を見物するには最低でも1時間以上必要なのを考えると、終わるのは16時近くとなってしまいそうだ。これじゃあ、高速道に乗ってもかなり遅い到着になってしまう。しばらく迷ったのだが、結局今回の須賀川牡丹園の訪問は断念することにし、明日の世界遺産の平泉エリア探訪を優先させることにした。

 となると、あとはひたすら走るだけということになり、伊王野を出てからは白河市からR4に入り、当初の予定の東北道須賀川ICをパスし、しばらくR4を走り続けて、二本松市まで来て、ここのICから東北道に入る。その後はときどきSAやPAに寄りながら目的の長者原SAに着いたのは17時頃だった。途中の高速道からの眺めで目立ったのは、藤の花と桐の花の紫だった。桐の方は数が少なかったが、藤の花は樹木を無視するかのように山を覆っている箇所が幾つかあり、守谷市辺りからは1カ月以上は遅いと思われる東北の春を感じたのだった。薄曇りで光が足りないせいなのか、紫の鮮やかさが少し褪せて見えるのが残念だった。でも、単調な運転作業の世界からは、ありがたく嬉しい景観だった。

 ここに泊ることにしたのは、明日一関ICで下りて骨寺村荘園跡に向かう際に、高速道では一番近いSAだからである。それに一夜を過ごせば通行料が夜間を経過したことになり、30%割引になるというセコイ考えもある。17時はまだ寝るには早過ぎる時間であり、しばらく大相撲のラジオの実況を聴く。稀勢の里が横綱になれない大関を脱却してくれるのを願いながら聴いていたのだが、どうやら今場所からは、悪い気持の虫を退治したようなので、軽く豪栄道をさばいて全勝を守ったので安堵した。TVの方は、地デジのNHKが入らない。相撲が終わって、しばらくBSを見ながら早い夕食を済ます。20時少し前寝床に入り、旅の初日の長い夜を迎える。

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‘16年 東北春短か旅 レポート <第1回>

2016-05-16 05:50:38 | くるま旅くらしの話

【今日(5/16)の予定】 

  自宅 →(R294)→ 道の駅:東山道伊王野 →(R294・R4他)→ 須賀川牡丹園 →(R118・R4)→ 須賀川IC →(東北道)→ 長者原IC(泊)

 

【旅に出る前に】     

昨年の秋に熊野古道跡などを訪ねる旅をして以来、今年になってからは、近場に入るのであろう滝桜の姿を見に出かけただけで、それ以外はせいぜい半径60km圏の中をうろうろするばかりの暮らしが続いた。くるま旅という病が取り付いてしまっているので、半年近くも同じ環境に閉鎖されてしまっていると、どうも落ち着かなくなってくる。こんなことをしている内に我々の人生は終わりを迎えてしまうのではないか。大げさにいえば、そのような気持ちにもなるのである。そのような閉塞状態をほんの少し打破させて頂こうと、東北の春を訪ねる旅を決心した。東北ならば一旦何か事が起きても1日の内には帰宅が可能だからである。ま、そのような内情を抱えている昨今なのである。

今回の旅を考えるに当って、相棒に何かテーマや目的のようなものはないかと訊いたら、ただ、ゆっくりしたいとの回答だった。これは難しいテーマである。特に短期間の旅では、ゆっくりするというのはあまり動き回らないとことを必要条件をして考えなければならないから、訪問先を欲張ってはならないということになる。それで、いろいろ考えた結果、3週間の予定期間の内2週間分だけはしっかり行程計画を決め、残りの1週間は予備日とすることにした。これだと、気にいった場所で長居をすることもでき、ゆっくり感が味わえるのではないか。そう思った。

隣の福島県から出発して、東北各県の海側や山側の春の息吹を存分に吸い込んで来ようと思っている。老がますます身近になった身では、東北の春の味わいは、我々に大いに元気の素を恵んでくれるに違いない。さて、どのような出会いが待っているのか楽しみである。

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短い東北の春旅に出かける予定です

2016-05-14 04:24:21 | くるま旅くらしの話

 このところブログに書くネタも無く、くるま旅をテーマにしているブログなのに旅に出てもおらず、何だか停滞しているなという感じで毎日を過ごしています。残り少ない人生なのだから、今できることを目一杯行って、悔いのないように生きようとは思うものの、どっこい、なかなかそうはさせてくれないのが現実の浮世というものらしいです。

 しかし、このまま停滞の日々を暮らすのにも飽きが来ており、ほんの短い期間ですが、東北の春を訪ねて一回りしてくることにしました。簡単な行程プランを描くに当って、相棒に「何か特別な思いなどないか?」と訊いたら、返事は「ただのんびりしたい」とのことでした。自分から見れば、相棒は毎日のんびり過ごしているように見えるのですが、本人の立場ではどうやらそうではないようです。

 ということで、「のんびり過ごす」のを今回の旅のテーマとして考えて見ましたが、なかなか難しいことで、特に短期間の旅では無理ではないかと思います。とりあえず、次のような行程の中で「のんびり」を発見できればいいなと考えています。

 <2016年 東北春の旅の概略行程>

 *第1日(出発日):5月16日(月)

自宅 → 須賀川牡丹園(福島県須賀川市)→ 東北道:長者原SA(泊)

*第2日:5月17日(火)

長者原SA → 骨寺村荘園跡探訪(重文景)(岩手県一関市) → 毛越寺参詣(世界遺産)(平泉町)→ 中尊寺参詣(世界遺産)(平泉町)→ 道の駅:水沢(奥州市)(泊)

*第3日:5月18日(水)

 道の駅:水沢 → 宮沢賢治記念館観覧(花巻市) → 道の駅:遠野風の丘(遠野市)(泊)

*第4日:5月19日(木)

道の駅:遠野風の丘 → 荒川高原牧場(重文景)(遠野市)→ 早池峰神社(遠野市)→ 道の駅:遠野風の丘(泊)

*第5日:5月20日(金)

 道の駅:遠野風の丘 → 御所野遺跡探訪(岩手県一戸町) → 道の駅:おりつめ(岩手県九戸村)(泊)

*第6日:5月21日(土)

 道の駅:おりつめ →(八戸市・七戸町・十和田市の道の駅などに寄る)→ 道の駅:奥入瀬(青森県十和田市)(泊)

*第7日:5月22日(日)

 道の駅:奥入瀬 → 奥入瀬渓流・石ヶ戸(奥入瀬渓流散策)→ 温湯温泉(青森県黒石市)→ 道の駅:いなかだて(青森県田舎館村)(泊)

*第8日:5月23日(月)

 道の駅:いなかだて → 岩木山神社参拝 →(岩木山麓アップルライン一周)→ 道の駅:鹿角(秋田県鹿角市)(泊)

*第9日:5月24日(火)

 道の駅:鹿角 → 乳頭温泉:黒湯(秋田県仙北市)→ 道の駅:なかせん(秋田県大仙市)(泊)

*第10日:5月25日(水)

 道の駅:なかせん → 角館町:武家屋敷等の散策(重伝建)(秋田県仙北市)→ 道の駅:東由利(秋田県由利本庄市)(泊)

*第11日:5月26日(木)

 道の駅:東由利 → 中島台レクリエーションの森(あがりこ大王に挨拶)→ 道の駅:象潟(秋田県にかほ市)(泊)

*第12日:5月27日(金)

 道の駅:象潟 →(日本海側を通過)→ 道の駅:関川(新潟県関川村)(泊)

*第13日5月28日(土)

 道の駅:関川 →(米沢市街経由)→ 道の駅:喜多の郷(福島県喜多方市)(泊)

*第14日(帰着日):5月29日(日)

 道の駅:喜多の郷 → 自宅   

 ざっとまあ、以上のような行程を考えて見ました。出発と帰着予定日の他は、主な訪問先などを書いていますが、実際はその時の状況で大幅に予定を変更するやもしれず、当てにならない計画表です。行き当りばったりとも行きませんので、一応紹介させて頂きました。

あと二日後の出発ですが、さて、どんな道中となるのか。楽しみです。これで今までの停滞感を拭い去って、「喝!」を入れることが出来ればいいなと思っています。いつものように、旅の間の様子はブログで紹介させて頂こうと思っています。では。 馬骨拝

 

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上り坂下り坂の歩行鍛錬

2016-05-01 12:52:32 | 宵宵妄話

 今年入ってからの我が歩数記録は、4月末時点で約200万歩となっている。これは、1日平均1万6千歩強となり、1歩の歩幅を60cmとして走行距離を算出すると、約9,600mとなる。誤差が30%くらいあるとして、1日の歩行距離を計算すると、6,720m即ち6.7kmほどとなる。実感として毎日それくらいは歩いていると思う。3時間ほど歩く時もあり、そんな時は10km以上歩いているのは確実だ。

 何でそれほど歩くのにこだわるのかといえば、答えは明快で、我が身に糖尿君という厄介な病が取り付いて離れないからである。もはやこれを振り切ることは不可能で、生涯の友として親しく付き合って行かなければならないと覚悟している。この友と付き合うのは真に厄介で、Ha1c(ヘモグロビン・エイ・ワン・シ―)という血液中のデータを一定レベル以下の数値に確保維持しなければならない。そのためには日々きちんとした食事と運動をしなければならず、少しでも油断して過飲・過食や運動不足を続けると、たちまち警告のイエローカードやレッドカードを突きつけられるのである。それを無視すれば行く先は合併症の世界で、壊疽や失明や透析が待ち構えており、その先にはどんな厄介が続いているのかわからない。解っているのは、あの世が近づくのが急速化するということだけなのだ。薬を飲めば何とかなるなどという時間は、ほんのわずかしか与えてはくれない、厳しくも恐ろしい友人なのだ。

 その友人との仁義を守り続けて早や四半世紀(25年)となったのだが、最近確保すべき数値レベルがやや上昇気味となりだしたのである。体重は61kgと不変なのに何故か数値が下がらない。少し厳しい食事コントロールを行ってみてもダメなのである。運動の方も、昨年は年間620万歩(1日平均1万7千歩)も歩いており、カロリーコントロールにはかなり貢献しているはずなのに、この厳しい友は許してはくれないのだ。何故なのかとあれこれ思い悩んだ結果気づいたのは、歩きの内容に問題があるのだと思った。3年前までは少しハードな~ 筑波山登山や早朝の負荷(15kgのリュックを背負い、両足に1kgのウエイトバンドを付け、両手に1kgのアレイを持っての歩行)~ などの鍛錬を多く取り入れていたので、それが功を奏して指標のレベル保持に役だっていたのだが、後期高齢者を迎える時期となり、あまり無理はしないことにして、負荷の部分を距離でカバーすれば大丈夫と考え切り替えたのだった。

 2年ほどそれを続けているのだけど、結果は思わしくなく、このままでは再度薬の力を借りなければならない状況となりそうなのである。折角薬無しで守り続けた指標レベルを、薬ありに切り替えるのは、この超厳しい畏友を裏切る行為となり、仁義に悖(もと)る振る舞いとなってしまう。これだけは何としても避けなければならない。そう考えたのだった。

 というわけで、運動の核としていた歩きの内容を、よりハードなものに切り替えることにしたのである。最良の方法は以前のように週1回くらいのペースで筑波登山を続けることなのだが、登山口まで行くのに約50kmもあり、時間も日程もコストもかなり厄介なものとなる。なかなか日常的にというわけには行かない。走る(=ランニングやジョギング)という手段も有効なのだが、膝に爆弾を抱えている身では、危険が伴う。やっぱり歩くしかない。負荷をかけて歩くには重さが必要で、それには両足にウエイトベルトを巻き両手にアレイを持って歩くのが基本なのだが、もう一つ欲しいのは段数の多い階段なのだ。しかし、住んでいる守谷市に山は無く、平地と僅かばかりの坂があるだけなのである。幾つかある小さな神社の階段も僅かで、皆どれも50段程度しかない。ほぼ同じ段数の歩道橋もあるけど、他者の歩行の邪魔になり危険である。

あれこれ思いを巡らす内に思い当たったのが、隣りの常総市に巣立山公園というのがあり、そこに、かなり大きな築山があることだった。高さ30mほどの築山には頂上に向かって4本の道(階段)が設けられており、あれを使えば神社の50数段を繰り返し上るよりも変化が期待できると思った。早速、下見に行って段数を数えて見たら、全部で320段もあるのである。よし、ここを登ることにしようと決めた。築山の隣には半径が50mくらい、一周300mほどの遊歩道も造られているので、これらを組み合わせると一層面白い鍛錬プランが出来そうである。自宅から車で10分ほどなので、1時間もかかる筑波山に行くよりはずっと近い。段数は少ないけど、何回か繰り返せば自然と足腰は鍛えられると思う。そう決めたのが数日前で、それ以来毎日朝になるといそいそと出かけて行くこととなった。

自宅出発5時。10分足らずで着いて、駐車場に車を置き、まずは登山靴を履く。しっかりと紐を絞め、その足首にウエイト1kgのベルトを取りつける。軽く屈伸運動をして、両手に2kgの鉄アレイを持っての歩行開始である。鉄アレイは決して下には下げず、歩きに合わせて小さく胸で拍子を取りながら歩く。最初の階段の上り口に至り、上りを開始する。呼吸を整えながら69段をゆっくり上り終える。頂上の狭いスペースで鉄アレイを持ちあげ、10回上下運動を繰り返す。持ったまま両腕を3回ぐるぐる回す。その後は鉄アレイは胸の位置に保ったまま、反対側の階段をゆっくりと降りてゆく。しっかり足元を確認しながら、景色などには決して見とれたりはしない。下に着いたら、築山の裾野の周回路を左方向に歩き、次の別の上り口から昇降を開始する。ここの階段は87段で頂上に到着。その後は同じように両手の鉄アレイの上下運動を10回行い、反対側の階段をゆっくり下りる。降りたら周回路を左方に歩いて、次の上り口から昇降を開始。ここは89段の長丁場の階段である。同様にして反対側の階段を下り、周回路を左方に歩いて最後の階段の昇降を開始。ここは75段で頂上に至るのである。このようにして最初の昇降口に到着したら、今度は周回路の反対方向からの順番で昇降を繰り返し、5回で終了。かくて計1,600段の階段昇降を終了する。約1時間、上半身にかなりの汗をかいている。しかし、万歩計は僅かに6千余歩にしか至っていない。

次はいったん車に戻り、今度は足の1kgのベルトを取り外し、2kgに取り換える。そして両手には1kgのアレイを持って、歩行を開始する。今度は築山ではなく、その脇にある1周300mほどの周回路の歩行にチャレンジする。まずは左回りで5回、右回りに替えて5回、計10回の早や足歩行である。1周3分ほどで、約30分間を歩き終えて今日の予定は終了。

今のところこの程度の鍛錬歩行なのだが、これはつくば登山からみれば、コースの1/4にも満たない僅かな足慣らしの距離に過ぎない。息も上がらないし、大して汗もかかない。もの足りないけど、それでも毎日継続しておれば、ただ平地を歩いているだけよりはぐっと効果が期待できる感じがする。僅かだけど、ここ10日間ほどで身体の芯がしっかりしてきた感じがする。

とまあ、とんだ老人の糖尿病対策運動へのチャレンジ模様を紹介させて頂いたのだが、階段の昇降を繰り返しながら想ったことがある。一歩一歩を繰り返しながら、これはまさに人生階段のモデルのようなものだということ。我が人生もとうに上りは過ぎて、今は下りの坂も半ばを過ぎているという老人世代である。この人生階段には、この世の人類の数と同じだけの個人差があり、今その個々人が人生階段のどの位置にいるのかも又人類の数だけあって判らない。ただ判るのは、上りの階段は、足元を多少疎かにして、周辺に気を取られながら上っても、危険や心配は少ない。階段から転げ落ちたりするのは、不用意に左右や下方に気を取られていた時ぐらいで、ひたすら上を目指して一歩一歩を確実に踏み出し続ける者には、頂上が確実に近付いてくる。

しかし、しかしである。下り坂はどうか。危険がいっぱいなのだ。上りと比べれば身体は遥かに楽なのだが、遠くの景色に気を取られたり、脇見をしながら歩いていたりしたら、何時足を滑らし転落して大怪我をするやもしれず、場合によっては命を落とすことだって考えられるのである。そして、それは一瞬のことなのだ。これは特に老人には強く当てはまるように思ったのである。

老を生きるに際しては、上って来た人生以上に足元をしっかり確認しなが生きることが大切だと思った。老を楽しむということも大切だけど、足元を忘れて、楽しみに呆けてはいけない。人生には一本でも二本でもない、たくさんの足元があるけど、老の深化につれてどの足元も、頼りなく劣化するようである。そのことに気づかず目先や過去にばかりとらわれていると、心も身体もこけることになる。杖も必要かもしれない。1,600段の階段を昇降しながら想ったのは、上りではなく、下りの階段を下りることの難しさだった。

    

常総市にある巣立山公園の景観。正面が築山で、手前左手に大きな芝生の広場があり、周遊道が設けられている。この築山の奥の方に鬼怒川が流れているが、昨年の洪水の際はこの辺りは影響は被らなかった。鬼怒川の向こう岸は守谷市である。

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