【今日(5/20)の予定】
道の駅:遠野風の丘 →(R283・R340・K他)→ 荒川高原牧場 →(K他)→ 早池峰神社(附馬牛地区)→(K・R340・R283)→ 道の駅:遠野風の丘(泊)
【昨日(5/19)のレポート】 天気:晴れ
道
<行程>
道の駅;東和 →(R283他)→ 宮沢賢治記念館 →(R283他)→ 道の駅:遠野風の丘(泊)
<レポート>
東和の道の駅には、もう何度もお世話になっている。この道の駅の温泉は疲れを良くとってくれる。近くに釜石からの高速道のICもあり、交通アクセスも便利なところだ。くるま旅の人たたちには人気の場所らしく、昨夜はかなりの泊りの車があったようだ。今朝も天気は上々だ。5時半過ぎまでにはブログの投稿を済ませ、付近の散策に出発する。昨日来た道の反対側の方へ行ってみた。今まで気づかなかったのだが、この町にはJRが走っており、土沢という駅があったのである。昔の岩手軽便鉄道の駅の一つだったとか。彼の宮沢賢治も何度かここを訪れており、銀河鉄道の中にもそのイメージが組み込まれていたのかもしれないなと思ったりした。往時とはもうすっかり様子は変わってしまっているのだろうけど、付近の森などの様子を見ながら、往時の人々の暮らしなどを想った。1時間ほどの散策だったが、この地に一層の愛着のようなものを覚えた。
朝食を済ませた後、出発の準備をする。今日は先ず近くにある日本一の大きさといわれている重文でもある毘沙門天のある熊野神社に参詣し、その後は比較的近くにある宮沢賢治記念館を訪ねる予定にしている。それが終わったら遠野の道の駅に行って、ゆっくりするだけしか考えていない。かなり余裕のある日程である。
出発の前に、昨夜から近くに泊っている手づくりのトラック改造の旅車があり、相棒が興味を持っていて、とうとう我慢しきれすに何やら話しかけに出掛けたようだった。しばらくすると相棒から声をかけられたので行って見ると、札幌からの方だった。相棒は北海道の方には格別の親近感があり、盛んに話を発展させてしまっていたようだった。話に加わってしばらく歓談する。今回は九州に入って来られたとのことで、4カ月も旅をされていて、そのうち3カ月は鹿児島エリアで過ごされたとか。先の熊本大地震のことを伺ったら、偶々その時は熊本県内の阿蘇に滞在されていたのを移動されて、大災害を被った益城町から30kmほど離れた所に泊っておられたとか。幸い直接の被害を被ることは無かったものの、地震の凄さ、連続する揺れの多さに平衡感覚を損なわれるほどのショックを覚えられたと話されていた。急ぎ安全ルートを探して脱出されたとのことだった。天災地変は予想できるものではなく、いざという時にどう行動するかの大事さを改めて思い知らされた感があった。手づくりの旅車は、以前は学校給食のパンを運ぶためのトラックだったそうで、それをそのまま使って改造しているので、前方から見ると旅車とは気づかず、普通のトラックそのものなのだった。しかし、ドアと窓が取り付けられた居室は様々な工夫が施されているようで、快適そうな様子だった。何しろ建築の専門家の方とのことなので、アイデアを出すのも作るのも自在なのだろうなと思った。無才の者には羨ましい限りである。20分ほどの楽しい時間だった。
9時過ぎに出発して熊野神社に向かう。直ぐに階段の下方にある駐車場に到着。以前に来た時はもっと近くに駐車場があったような気がしたが、上に上がる道が細く狭いので不安を覚え、今日は時間に余裕があるので歩いてゆくことにする。ところがこれがなかなかの急坂続きで、300段ほどはあったろうか。自分は毎朝の鍛錬で2000段を上下しているので大したことはないのだが、相棒の方は殆ど歩いていないので、途中で息が上がってしまい、何度も息次の休憩が必要となった。15分ほどかかってようやく鳥居に到着する。
熊野神社入り口の鳥居。すぐ近くに駐車場があるのに、階段道を選ぶとは、老人にあらぬ振る舞いだった。
熊野神社は、当地では三熊野神社とも呼ばれているらしい。重文の毘沙門天は有名だが、この神社にはもう一つ有名な行事がある。それは子泣き相撲というもので、境内につくられた大きな土俵で2歳未満の子供同士が睨み合って(?)、先に泣き出した方が負けという取り組みなのである。まだその本物を見たことはないけど、TVで見た時は、なかなか面白いものだなと思った。
子泣き相撲の行われる相撲場。この屋根の下の土俵上で、何組もの小さな子どもたちの平和な戦いが行われる。相棒は泣いた方が勝ちだと言っていた。
鳥居をくぐって境内に入ると、その子泣き相撲の土俵があり、奥の方に毘沙門天を収蔵する建て屋が見えた。草取りをしている女性がおられて挨拶すると、どうやらその方が毘沙門天見学の受け付けをされる方らしく、ご案内を頂き、入りいろいろ解説して頂くこととなった。毘沙門天を拝観する前に古い覆い堂の方を訪ねる。ここも昨日の金色堂と同じように覆堂が造られており、現在収蔵されているのは、3回目のお堂らしかった。一番奥の新しい覆堂の中に毘沙門天は収まっていた。拝観料500円也を支払って、二度目の拝観となる。今回は付きっきりでその女性から細かく丁寧な解説をして頂いたので、とても判り易く、毘沙門天だけではなく、その他の仏像のことも理解でき勉強になった。
毘沙門天像。4mを超す大きな像は、ケヤキの一木で造られているとか。東北の地の守護神として、現在はここにおられて睨みをきかせている。
その後も境内にある巨大なさざれ石などの話を聞き、この地にはさざれ石が多いのだとも伺った。そう言えばあちこちに見かけるのである。又子泣き相撲のことも。これはかなり人気のある行事であるらしく、大勢の参加者があり、一度に一組の取り組みでは処理できなくて、同時に何組もの勝負をこなすとか。一人の子に両親やジジババなどがついて来ているので、境内は人で溢れて、それはそれは賑やかなのだとも話されていた。我が家の孫は上の子はもう出場資格を失っているので、下の孫娘なら出場して優勝出来るかもしれない、などとジジバカの考えが頭をよぎった。参拝を終わり、次の目的地の宮沢賢治記念館に向かう。
記念館には20分ほどで到着する。ここも来訪は二度目である。小高い山というのか丘というのか、自然林をそのまま生かした広大な敷地のテーマパークといってよい空間が広がっている。さすが岩手県だなと、前回始めて来た時の印象だった。前回も春の季節だったが、今回は少し遅いタイミングで来ている。ここへ来る何よりの楽しみは、自生しているカキランを見ることなのだ。しかし、今回は時期的にどうなのか自信はない。坂を登った広場にある駐車場に車を留め、先ずは賢治も何度も参拝したであろう胡四王神社に参拝する。ここに参拝するのは、その途中の道脇にもしかしたらカキランが見つかるかもしれないという期待があるからである。300mほどの参道には、早や前回見られたイカリ草の花は終わっているようなので、先ずは無理だろうなと思った。胡四王神社は蘇民祭でも知られており、なかなか由緒ある神社で、小規模ながら本殿も風格のある建物である。ここへ来たくなるもう一つの理由は、神社の脇から見渡せる花巻平野というのか、盆地というのか、壮大な眺めである。かつて賢治が教鞭をとった花巻農学校を初め、遠く和賀山の裾の辺りまでの平野の広がりは、賢治の繊細な作品の裏返しのような奥深い宇宙を想わせるようで、楽しい。今回もその景観を胸に吸い込んで、堪能した。
記念館の他に、ここにはイーハトーブ館というのもあるのだが、そこへ行かなくても前回の経験もあり賢治のことはそれなりに頭に入っているので、観るのは止めることにした。カキランは見つからなかったけど、胡四王神社の帰り道に相棒が小さなギンランを発見して、これも嬉しい気づきだった。この頃は相棒も植生に目が行くようになっており、時々先を越されてしまうのだが、もうそれでいいと思っている。真老には競争意識は無用である。昼食を摂りに駐車場わきにある山猫という名のレストランに入る。賢治の作品の中に「注文の多い料理店」というのがあるけど、このレストランはそれになぞらえて命名されているのか、店内にはその雰囲気が溢れていた。食べた白金豚のカツ丼は、関西風だったのは意外だった。関東者にはこの選択は失敗だった。でも、いい雰囲気で満腹になり満足する。
食事の後は、駐車場を出て、坂の下にあるもう一つのテーマ広場の童話館の方へ移動する。ここはメルヘンの世界へと大人も子どもも誘ってくれる空間である。広い芝生とその中に舞台が造られ、山裾には小さな流れと池もあって、バスで訪れた保育園のと思しき子どもたちが広場を駆け回り、小さな流れの中で夢中になって声を上げながら水遊びをしていた。老人は、それらの眺めと声を聞きながら、緑の森の中に設えられた木製のベンチに身を横たえ、近くの拡声器から流れてくる賢治の童話作品の朗読を子守唄として、しばらくまどろみの時間を楽しんだ。相棒は忙しくどこかへ行ってしまったようだ。実に気持がよくて、20分以上も眠ってしまったようだ。童話館に来たら是非チャレンジしてみようという老人の夢が実現して十二分に満足する。そのあと、木立の鮮緑の中をゆっくり散策する。途中で少し大きめのギンランの花を見つけて、嬉しくなった。白く輝く花は透き通った銀なのだと思った。賢治の世界に入ると、透明な銀という存在がごく普通に見つかるような気がする。不思議な人である。
童話館の林の中に見出したギンランの一株。目立たない存在だが、賢治先生ならギンランの方から話しかけるに違いない。
話は変わるけど、やっぱり宮沢賢治という人は天才だと思う。同時代を生きたどんな文豪と呼ばれる偉い人たちよりも、人間的に優れた天才ではないか。自分はそう確信している。文学という世界だけではなく、それ以外の実学においても優れた才能を持つ偉大な人物だったように思う。しかし現実には恵まれた環境には無かった。だから彼の持つ才能、エネルギーはその生きている間にはほんのわずかしか発現されていなかったのだと思う。しかし、後世の今まで、そしてこれからも彼の世に表わした才能の成果は、人間は何かをその素晴らしさ、可能性を、ことばの力を通して伝え続けるに違いない。自分はそう思っている。
童話館で1時間半ほど過ごした後、遠野に向かって出発する。途中道の駅:みやもりに寄り休憩。ここには直ぐ近くにめがね橋と呼ばれるJR釜石線の陸橋があり、鉄道写真マニアには欠かすことの出来ない撮影ポイントとなっている。このめがね橋の景観は、かつて岩手軽便鉄道の時代に宮沢賢治が銀河鉄道を発想する原点となった場所としても有名になっている。今日はあわよくば列車が通ったらカメラに収めようと寄ったのだったが、時刻表を見ると残念ながらあと1時間以上も待たないと上下ともに列車の通過はないということで断念せざるを得なかった。諦めて移動しようと車の外に出ようとしていたら、何と列車が通り始めているではないか。しかもSLがである。何と言うアンラッキーなタイミングなのであろう。相棒の悔しがること、地団駄を踏むかの如くだった。相棒のカメラはでかいので直ぐに撮影できる代物ではない。自分の方はちびカメでかろうじてそれらしきものを1枚撮っただけだった。トンだハプニングだった。あとで聞くと、時々臨時列車や回送列車が走るそうで、今回はどこかの団体が貸切で使ったそうで、一般の人にはその情報は入らないようだ。やむなし。
慌てて飛び出して行って、大急ぎで撮ったSLの姿。江になっているようには見えないけど、とにかく写っていて良かった。
その後は遠野の道の駅:遠野風の丘に向かう。ここも何度もお世話になっている場所だ。一先ず混み具合を確認した後、町中まで買い物に往復する。定着の錨を下ろしたのは15時頃だった。その後は特に何もすることはなく、相棒が道の駅の中をぶらついて買い求めて来た肴の類を、腹の中に早めに収めた方がいいだろうと、超早めの夕食タイムとなし、その後はTVを見るのもやめにして寝床にもぐりこむ。その後、相棒が何をしていたのかは知る由もなし。