昨年の12月から急に寒くなって、その勢いは各地をたじろがせるほどの大雪を降らせたりして、一向に収まりを見せないまま新年を迎え、今日に至っています。地球温暖化がかなり深刻な状況を呈していますが、この寒さがその流れを汲むものだとしたら、専門知識の乏しい我々は一体どう受け止めたらいいのか、戸惑うばかりです。もしかしたらこの寒さは一時的なもので、この後は一気に春に向かうのかもしれないなどと、そのような根拠のない想像をしながら毎朝の歩きを続けているところです。
この寒さの中で、一つ感じている不思議な現象があります。それはこの冬はロウバイの花の開花が少し早過ぎるということです。守谷のこの近郊には家々の庭や畑の縁などにロウバイの木がよく見られるのですが、それらの花が咲き出しているのです。中には昨年の葉をたくさん付けたまま花を咲かせているのもあります。例年だと早いものでも1月になってから開花に気づくのですが、今年は昨年末から咲き始めており、中には満開近い状態となっている木も見られました。この早さは一体どうしたのだろうかと、気になります。
昨年の葉を少し残したまま早や満開に近い開花状況となっているロウバイの木。(1月2日撮影)
ロウバイは老梅ではなく、蠟梅と書きます。梅という字からは梅の木の仲間と思ったりしますが、梅は桜と同じバラ科の木です。でもロウバイはバラ科ではなくロウバイ科の別種です。樹木の本体は梅とは違った姿形をしていますが、花の方は透明感のある黄色い花が蝋細工の梅の花を想わせる感があり、開花の時期も梅よりは少し早いものの、早春に先駆けて咲くのも梅と似ていることから名付けられているのかもしれません。
この花が好きで、我が家の庭にも一本植えたいと考えているのですが、もはや狭い庭は木を植えるのは限界に近く、ずっと我慢し諦めかけていました。しかし、その思いを振りきることが出来ず、何年か前に、開花期が終わって黒っぽい実が付いている木から、何個かのその実を採って来て鉢の中に埋めておきました。すっかり忘れていたのですが、翌春になった時にその鉢から数本の小さな若木が生え育っているのに気づきました。いや~、嬉しかったですね。老人になると、このような当たり前のことに妙に感じ入ってしまうのは、生命の始まりと終わりに対する感性が強くなって来ているからなのかもしれません。特に終りよりも始まりを実感した時の感動が大きいのは、生きることの価値がほんの少し解りかけて来た証なのかもしれません。人間というのは、終りに近くなってから、初めて生きることの意味や大切さを解かり出す存在なのかもしれません。つまりは、後悔に生きる動物でもあるということです。
その芽生えたロウバイの若木は、2~3本ずつ鉢を分けて移植して育てたのですが、やはり庭に植えることが出来ず、知人の農場の脇に植えさせて貰っています。実生の盆栽にしようかとも考えたのですが、何だか窮屈に育てるのがかわいそうな気がして、これは思いとどまりました。そして、今は歩きの中で他所の花や実を見るのを楽しみにしています。
さて、そのロウバイが今年は異常な早さで花を咲かせている感じがするのです。樹木たちは皆無口なので、一体何を考えているのか見当もつかないのですが、毎年同じ場所に同じ季節に同じように花を咲かせたり葉をつけたりしているのを観察していると、彼らの無言の生き様からほんの少しですが、その声を聞くことが出来るような感じがしています。樹木にとって花を咲かせるというのは、実をつけるため即ち子孫を残すための大切な営みの証であり、それゆえに花は美しいのだと思います。その花が咲き急いでいるというのは、何を告げようとしているのか。気になります。もしかしたら、今年は梅や桜たちもいつもより早く花を咲かせるのかもしれません。じわじわと進んでいる環境汚染の影響を、彼らは敏感に感じ取り我々に重大な警告を発しているように思われ、ちょっぴり複雑な心境でそれを受け止めているこの頃です。
ところで、ロウバイといえばいつも思うのは、その名所の秩父の宝登山のことです。まだ一度も訪ねたことがないのです。今年こそはと思っているのですが、秩父は寒い所ですから、何時雪に見舞われるやも知れず、冬タイヤを用意していない旅車では、ちょっぴりためらいが勇気を抑え続けているのです。でも、今年は何とか行ってみたいなと思っています。もし、例年よりも開花が早まっているようなら、守谷のロウバイたちの警告は本物と受け止めるべきで、そうでない時には、自分の錯覚だったと忘れることが出来るのですから。たとえ、行けなくても、宝登山の開花情報には敏感でいたいと思っています。
遠くから咲いているのを見ると、花の茎元辺りの感じから梅の仲間のようにも見えるけど、近づいて見ると梅とは違ったろうたけた花なのが良く判る。それにしても、こんな寒さの中で花を咲かせるのはなぜなのだろう?