<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトして、コメントを付したものです>
第2日:11月18日(木)
<行程>
養老SA →(名神道・北陸道)→ 木之元IC →(R8・R27他)→ 三方五湖レインボーライン・第1展望所 →(R27他)→ 瓜割りの滝 →(R27)→ 道の駅:シーサイド高浜 →(R27) → 道の駅:舞鶴港とれとれセンター →(R27・R175・R9)→ 道の駅:農匠の郷やくの →(R9)→ 道の駅:村岡ファームガーデン →(R9)→ 道の駅:大栄〔泊〕 <367km>
さて、今日はどうするか。本当は、今頃は福知山付近の道の駅にでもいるはずだったのに、東名の集中工事のおかげで、未だ関が原すらも越えていない。これから混雑する京都や大阪の高速道を抜けるのは気が重い。因みにSUN号にはナビなど取り付けていない。タクジイはナビ無し主義なのである。それで予定を変更して、米原から北陸道に入り、木之本ICで降りて一般道で山陰路を行くことにした。
北陸道は今日も空いていた。琵琶湖は見えないが、長浜辺りには戦国時代末期の、数々の戦に絡む著名な場所名が出てくる。何時の日か、これらの場所をゆっくり巡り歩いてみたい。そのようなことを考えながら走っているうちに、たちまち木之本ICへ。ここからR8へ入り、一路敦賀に向かう。敦賀からはR27に入り、舞鶴まで道なりに進む。
敦賀は何度も通っているのだが、いつも素通りの通過となってしまっている。ここには名所の気比の松原や気比神社、それに自分の故郷の水戸に由縁のある、幕末天狗党の乱の連中が、最後に首を切られて埋められた終焉の首塚などもある。ついでに言うけど、自分は最後の将軍であった徳川慶喜という人物が嫌いである。水戸から一橋家に養子に入り、親父の水戸徳川斉昭の思惑通りに将軍となったのだが、歴史の大きなうねりに翻弄されたとはいえ、概ね優柔不断(多くの将軍はそうであったし、果断な意思決定をした将軍は、スタッフを困惑させる存在だったように思っている)であり、頭脳明晰だったという評価もあるが、自分はその種の頭の使い方が優れているとは思わない。何よりも憤懣やる方ないのは、天狗党の五百人近い同郷の仲間を見殺しにしたことである。今となってみれば、天狗党の発想や行動は、非難される向きがあっても仕方ないとは思うが、それにしても婦女・幼児を含めた五百人近い人を殺す意思決定をするとは何ごとか!ずいぶん昔に、その首塚に行って冥福を祈ったことがあるが、近所に住む人たちの噂では、今でも亡霊が時々現れるとか。多くの鎮魂の碑が建てられていたのが印象的だった。
少し脱線してしまった。言いたかったのはそのような敦賀の街を素通りばかりしていて申し訳ないということである。今回もまた。ごめんなさい。
敦賀から美浜を過ぎて少し行くと、三方五湖というのがあって、それを展望できるレインボーラインという有料道路の案内板が見えた。9時を少し回ったばかりで、このまま走り続けるばかりではつまらないので、ちょっと立寄ってみることにした。名前だけは知っているが、三方五湖がどのようなものか見たことがない。急に細くなった道を行くと、たちまち曲がりくねったかなりの急坂の続く道となった。なかなか有料道路の入口が見えない。15分ほど走ってようやく到着。料金は千円也。少し高いのでは?と思ったが、今更引き返すわけにも行かない。この道は本来ならば周回できるらしいのだが、現在は工事中の箇所があり、途中から引き返さなければならないとのこと。とにかく千円分は楽しまなくっちゃあと、何時もの浅ましい根性が頭をもたげる。ものすごい急な坂道だ。我がSUN号はディーゼルなので比較的坂道には強いのだが、あまりの急勾配なので、大丈夫かと少し心配になった。この坂道はどうやら島(半島)の急峻な峰を巻いて造られたものらしいのが後で分かった。暫く行くと一挙に展望が開けた。曇り勝ちの天気であまり遠望は利かないが、それでも見下ろす海や湖は滅多に見られる景色ではない。第一展望台という所の駐車場に車を停めて暫く休憩。若狭湾と三方五湖が眼下に見渡せる。なかなかの絶景である。それにしても大自然は良くもまあこのような造作をするものである。その不思議な働き、力には只ただ恐れ入るばかりである。若狭湾が時々光るのは、ブリ君やサバ君が冬を待ちかねて飛び跳ねているのではないか?などと相変わらずのお粗末な迷想(?)を膨らましたりしているタクジイであった。
存分に景観を楽しんで元の道に戻る。R27は「丹後街道」とも呼ばれているらしい。「国道27号線」などというよりも遥かに親しみを覚える呼び名である。デジタル発想の利便さを否定は出来ないが、アナログの考え方の方が自分には合っているような気がする。丹後街道はアナログの世界での呼称に違いない。R27はデジタルであろう。そのようなことを考えながら三方町を通過して、上中町にある瓜割りの滝へ。ここは、通る時には必ず立寄り、水を汲む場所である。山麓の、瓜割りの滝という小さな滝から流れ出る清冽な水は、名水として有名だ。若狭には幾つかの名水がある。何しろ奈良東大寺のお水取りの水は、若狭の神宮寺からお水送りの神事として送られているほどなのだから。その神宮寺はこの上中町にある。
この瓜割りの滝の水を汲むには、300円也の水汲みの手形が必要で、何年か前それを購入した。10L入りのポリタンにそれが貼ってあり、手形は期限なしということだったので、堂々と水を汲むことにしている。確かに旨い水である。SUN号の80Lの水槽を満たし、空になっていたペットボトルを満たす。お礼に清掃料金とやらの箱に200円を入れる。満足。まんぞく。
出発。天気が思わしくなく、雨が降り出した。この辺りを通る時はどうも天気が不機嫌のようだ。暫く行って、高浜町にある道の駅にて休憩。売店でサバ寿司を買ってきて、お湯を沸かしお茶を淹れて昼食にする。自分は大のサバ好きで、若狭や山陰路の旅では、サバ君に逢えるのをほんとに楽しみにしている。今回の旅では、今日が初めてのサバ君との出会いだったが、ここのサバ寿司は今一の感がした。結構な値段だったのに。でも不満というほどではない。雨は本降りとなっている。
舞鶴の市街を通り抜けて、郊外にある「舞鶴港とれとれセンター」という妙な呼び名の道の駅にて小休止。ここは海産物の販売施設がある、いわゆるお魚市場という奴だ。かなり人気のある場所らしくて、前回は駐車場が超満車の状態で、やむなくパスしたのだが、今回もかなり混んでいた。辛うじて空き場所を見つけて停めることが出来た。今はカニのシーズンで大賑わいだ。あれこれ見て廻る。魚大好きのタクジイにとっては、魅力溢れるものばかりで、嬉しいストレス(?)が溜まる。しかし、やたらに買っても体に支障があるので、結局ものにしたのは、サバの串焼き1本だけ。若狭湾のサバは格別の美味さがあり、スーパーで売っている冷めた串焼きでも味はグーである。(実際は若狭湾のサバは僅少で、その大半はノルウエ―産のようである。でも不満はない)クニバアはカニ。今日もセコガニ(=雌ガニ)のボイルした奴で我慢するようだ。それでもサバの串焼きよりは高価。
さて、夕食の食材(完成品)を手に入れたからには、あとは行けるところまで行くだけ。舞鶴郊外から由良川に架かる橋を渡って、R175へ。由良川沿いを福知山に向い、福知山からR9へ入る。R9は日本海側を走るメイン国道である。この道をちんたらと山口県まで行くつもりでいる。R175の山を越えた日本海側に豊岡の市街や城崎温泉などがあるのだが、そこを流れる円山川の今年の水害の凄まじさは記憶に新しい。未だに回復しきれていないのではないかと思い、こちらの道を選んだのだが、R175の左を流れる由良川にも、今年の水害の名残を示すものが随所に見られた。川岸にある木々のとんでもない高さのところにビニール袋の残骸などが引っかかっていた。今年は、本当に天災地変の多い年であった。改めて被災者の方々にお見舞いを申し上げたい、素直にそのような気持ちにならずにはいられない。
一路、鳥取方面へ。夢千代日記で有名な湯村温泉のあるその名も温泉町を通過する頃は、あたりはもう真っ暗となった。途中鳥取市内で給油をした後、去年泊まったことがある大栄町の道の駅まで行くことにした。少し遅くなるが、その分明日ゆっくりすることにしたい。大栄町の道の駅の売店はなかなか魅力的なのである。
大栄の道の駅に着いたのは19時近くだった。既に辺りは真っ暗となっている。昨日の442kmには及ばないが、今日も367kmも走っていた。SUN号は、今日途中でメーターが44,444kmを超えるのを確認した。あまりいい数字ではなさそうだが、死線を越えるとでも受止めれば、これはめでたいことなのかもしれない。購入後3年8ヶ月であるから、まあよく乗っている方であろう。この辺りには温泉などの入浴施設は無いらしい。舞鶴での獲物を肴にして一杯やって就寝。
ところが真夜中になって、スケーボーや太鼓を叩いて遊ぶ高校生らしき若者が騒いでいるのに起こされ、目が醒める。こんな連中を相手に掛け合いをするほどの体力も無いので、裏の駐車場の方へ避難する。まったく、今頃の世の中の若い奴らははどうなっているのか? うん、だけどチョイ待ち。良く考えてみれば、形は違うけど、自分らも若い頃には友達の家に遊びに行って、大声で歌など歌って夜遅くまで騒いだこともあったっけ。この年頃の人間の持つエネルギーは、勉強だけに向かうほど容量の小さいものではないのだから、大目に見てやってもいいのかもしれない。ま、少し寝そびれてストレスも溜まったけど。
【コメント】
◆水戸の天狗党の乱については、正直なところ時代背景の正確な捉え方が出来ておらず、もしかしたら誤解をしている部分が大きいのかもしれません。幕末において、その前半では水戸藩が国内を騒擾させたことは疑いもない事実です。結果的に只騒がせただけで、空中分解的に多くの人材を死滅させてしまったのは、御三家の一つに属していたとはいえ、家格などという実力の伴わない形式の配藩制度の歪みが溜まった結果ではなかったか、などと考えてしまいます。水戸の思想(尊王の精神)や人材(藤田東湖やその周辺の人たち)が、明治維新の早期の点火役を担った筈なのに、何の成果も無く時代の藻屑と消えたのは、結局は幕府という体制側にしかおられなかった立場の悲劇ではなかったかと、自分は思っています。
◆この日の367kmという走行距離は、初日の442kmというのに比べてもさほど変わらぬほどの長距離で、しかもその大半は一般道であることを考えると、明らかに走り過ぎです。目的地に着くまでの通過コースと考えれば、先を急いでもおかしくはないのでしょうが、10年後の今の自分ならば、決してこのような無理はしません。せいぜい福知山市近郊の道の駅、例えば加悦(かや)か夜久野辺りに泊まるのが適切な宿の取り方ではないかと思います。鳥取県の中ほどまで行ってしまうとは、呆れ返った無謀です。
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