山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第7日)

2015-01-29 01:49:20 | くるま旅くらしの話

<この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

 

第7日:11月23日(火)

 <行程>

道の駅:酒谷 →(R222・R221・R223)→ 霧島神宮 →(R223)→ 道の駅:霧島 →(R223・県道・R268)→ 道の駅:ゆーぱるのじり →(R268・R10)→ 宮崎西IC →(東九州道)→ 西都IC →(R219)→ 西都市:風土記の丘 →(R219・R10)→ 道の駅:日向 〔泊〕     <221km>

 飫肥の女子衆は働き者だ。朝6時半には、もう駅構内にある地場農産物加工場の灯りが点いて、作業が始まったようである。男衆たちも、軽トラを駆って畑で採れた野菜などを運んで来て売店に並べている。開店は8時半だというのに、1時間前には全ての品揃えが終わっているようだ。今日もいい天気だ。出発前に、例の木立ダリアの花を撮る。そのあと野菜を少し買い入れて出発。今日の予定は少し遠いが、霧島神宮辺りへ行って、韓国岳や高千穂峰などの霧島連山を見てみたい。それから先はあとで決めることにして。

R222を直進して都城へ向かう。途中の山道には、飫肥杉の植林が見事な箇所が幾つかあった。その昔はもっともっと豊かな杉林が広がっていたのであろうか。最近は何処の地方でも山の手入れが利かなくなって、荒れる状況が続いているとのことだが、この辺はどうなのであろう。

都城はこの辺の交通の要所らしく、多くの道が交差して入り組んで走っている。少し迷いながらR221に入って高原町でR223へ左折し、霧島方面へ向かう。霧島バードラインとも呼ばれているから、この道は多くの鳥たちの姿や鳴き声が聞かれる森の道なのであろう。お池という湖の脇を通る頃から登り坂が続き始めた。勿論初めて通る道である。確かに森の中ばかりを走っており、樹木以外は何も見えない。かなり経ってようやく眺望が開けるようになった。間もなく霧島神宮に到着。折角だから参拝することにして、麓の駐車場に車を入れる。本殿まで少し遠そうだが、近い駐車場はかなり混んでいるようなので、我慢して歩くことにする。

参道を10分ほど歩いて本殿に到着。来た時からかなりの人出である。何かイベントがあるらしい。入口の鳥居近くで中学生らしい集団が何やら演奏会のようなものをやっていた。指揮者の女性の先生だけが、やけにノリまくってタクトを振っているのが面白いと思った。生徒は皆冷静だ。薙刀や弓袋などを持った人も多く歩いている。幟が幾つも立っていて、見ると「ほぜまつり」と書かれていた。今日は勤労感謝の日で休日だ。それで何かあるのかなと思った。「秋だ祭りだ!ほぜまつり」というキャッチフレーズの案内ビラがあったので、配っている人に「ほぜまつりとは何ですか?」かと聞くと、ほぜとはこの辺りの方言で「豊穣」のことをいうのだとのこと。つまりほぜ祭りとは、豊穣祭のことで、昔からこの地では、今年の豊穣を感謝し、来年の豊穣を祈って、霧島神宮の神様にその気持ちを伝えるために、いろいろなスタイルで郷土芸能などを奉納するらしい。なるほど、なるほど。それで弓矢や薙刀などの小道具を携えた人が、たくさん往来していて混んでいるのだ。見物人よりも奉納に係わる人のほうが多いように思った。

 参拝を済ませたあと、本殿近くの境内で奉納されている「俵踊り」というのをじっくり見物した。どうやら田起こしから稲刈りまで、そして収穫した米俵を担いで踊るまで、1年の季節を通した一連の農作業のプロセスを、コミカルなスタンツ(寸劇)風にアレンジした踊りのようなものだった。農村の人たちの芸はかなり細かくて、例えば田起こしの場面では、牛に鋤を引かせる様子を演じるのだが、牛の糞まで転がすという演出なども含まれていて、どっと大笑いだった。最後に嬉しい稔りの詰まった俵を担いで踊るのだが、さてこの地方は、今年は本当に豊作だったのだろうか。踊りに参加した人たちの表情からは不作の影は見えないように思った。12時半頃車に戻ったのだが、その頃には人出は益々増えて、駐車場は全て満杯になっていた。

 腹が空いたので、近くにある霧島の道の駅に行き、食事にすることにした。この道の駅からの眺望は素晴らしかった。桜島を望むのはちょっと無理だったが、遠く錦江湾方面に続く平野の眺望が眼下に広がり、振返ると霧島連山がすぐ近くに望まれる。温泉もあるらしい。改めてゆっくり来たいなと思った。名産の黒豚入りのカレーライスなどを食べる。

 しばし休憩して、さてどうするか。地図を眺めている内に、比較的近くの西都市にある風土記の丘という所へ行ってみることを思いついた。西都市には西都原古墳群というのがあるが、昔そこを訪ねたことがあり、埴輪の置物を買った思い出がある。その埴輪は今度の引越しの前に壊れて(壊して)しまって今は無い。

 先ほど来た道を戻って、高原町から県道29号で野尻町へ抜け、R268へ。近くに野尻の道の駅があったので様子見に立寄る。温泉もあってなかなか良さそうだったが、今日はまだ泊るには早い時間なので、予定通り西都方面に向かう。高岡町でR10に入り暫く走ったが、一般道では時間がかかりそうなので、東九州自動車道を使うことにした。宮崎西ICから入り、西都ICで降りて西都市へ。風土記の丘には15時ごろ到着。

昔来た時の記憶は定かでないが、何か別の世界に来たような気がした。広大な公園風の敷地には、幾つかの古墳とそれらを包むように幾つものコスモス畑が作られており、満開の花が風に揺れていた。夢のような景色である。今頃、もう12月近いというのに、これほどの広大なコスモス畑を見られるなんて思っても見なかった。古墳のことなどはしばし忘れて、花畑の景観を楽しみながらの散策であった。いい所だ。古の人たちがここに眠っておられるその理由が分かるような気がする。それにしても、お墓をこのようにいじり回してしまっていいのだろうか。ご先祖様に申し訳ないような気もした。

 もう暫くここに居たい気もしたが、泊るわけにはいかないので、2度目になるけど、今日は先日泊った日向の道の駅近くの、お船出の湯に行って泊まることにして出発。

 少し暗くなりかけた頃、お船出の湯に到着。この妙な名前は、よく分からないが、その昔何とかいう神様がこの場所から船出をして、何処かに向かって旅立たれたという神話から名づけられたらしい。記紀などの本は殆ど読んでいないので、よく分からない。先日の日の出の素晴らしさからは、そのような伝説があっても不思議ではないような気もする。日向とは、真に日本の国らしい地名だ。

 先日は温泉に入らなかったので、今日は是非とも入ろうとさっそく入浴へ。なかなかいい湯だった。P泊のことを受付に聞くとOKとのこと。先回は遅かったので黙って泊ってしまったが、今回は大丈夫。一杯やって就寝。ああ、今日も結構走ったなあ。

【コメント】

◆この日は、くるま旅ならではのいい旅をしました。少し欲張って、走り過ぎの感は否めませんが、旅の内容としては当たり日だったと言えると思います。そのことについて少し書きたいと思います。

先ず第一は、霧島神宮のほぜ祭りに出会ったことです。この日は単純に鵜戸神宮に続いて同じ神宮の名のある霧島神宮にちょっと立ち寄っての参詣を思い立っただけなのですが、偶々ぼぜ祭りという、この地の豊穣を祝う祭りの日に出会って、本物の地域の暮らしぶりを垣間見ることが出来たのでした。このブログでは、俵踊りだけを紹介しましたが、これ以外にも趣向の違った素朴な、様々の郷土芸能が奉納されており、この地に住む人々の霧島神宮に対する信仰の深さを体感したのでした。もし、この日を外したら、このような地域に根付く伝統のありのままの姿を知ることはできなかったと思います。思いつきの旅路での類(たぐい)稀なる収穫でした。計らずも格別な旅の醍醐味を味わった時間でした。

その二は、西都原の風土記の丘で見た、コスモスの咲き溢れた世界です。コスモス畑といえば、この2004年の一年前に、四国の旅で訪れた高知県大月町(土佐清水市の隣町)のその広大さが印象に残っていますが、ここ西都市の風土記の丘のコスモス畑も、それはそれはみごとなものでした。この公園内には大きなコスモス畑が複数個所あって、それらがきれいに手入れされていて、11月も終わりに近づいているというのに、まるで最盛期の花のように自分たちを迎えてくれたのでした。西都といえば古墳のイメージが強いのですが、この一面のコスモス畑の風情は、古来よりこの地に眠る祖先の皆様には、大きな慰めになっているに違いないと思ったものです。その印象は、今でも心の中に強く残っています。

 

コメント
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