3月1日付の東京新聞のカラム欄「この人」に、深谷圭助という中部大準教授の方の考えられた「辞書引き学習法」というのが紹介されていました。面白いなと思うと同時に、我が意を得たりという気持ちにもなりました。私も辞書愛好者というか、中毒者の一人ですが、それを学習法にまで発展させて考えることには気づきませんでした。辞書を引く・引かないは、個々人の好き嫌いだけの世界だと思っていたのです。教育者の方はさすがだなと思いました。いろいろな学び方の中でも辞書引き学習法というのは、最近聞く中では飛びぬけて優れた学習法ではないかと思います。
辞書引き学習法というのは、辞書を使い倒すことで子供のやる気を高めるというやり方だそうです。使い倒すというのはいい響きのことばですね。小学校の低学年から辞典を活用し、調べた言葉を付箋に書いては、そのページに貼ってゆくという勉強法で、もともとは深谷先生が小学校で教鞭をとっている時に児童から教わったとのことです。そのきっかけは、理科の授業でも国語辞典を使っている子がいるのに気付き、それから全員で辞書を引き始めるようになり、しばらくして「家で調べて来た」と一人が付箋を貼って持ってきたそうです。それで、「じゃあ皆でどこまで付箋を増やせるかやってみよう」と呼び掛けると、子供たちは皆で競って調べるようになったとのこと。
子供たちが、誰でもその気になれば自分でできることに着目し、いい意味での子供たちの競争心を刺激しながら、辞書を引くことで自ら学ぶことの楽しさに気付かせるというのは、素晴らしい学習法だと思います。自分で調べたことは、自分の本当の力になるのです。何の努力もしないで他人から聞いただけの知識などは、いくら学んだつもりになっても、時を経ずして消え去ることは明白です。
学習すなわち学ぶということについて最も大切なのは、学ぶことが面白く楽しいという気づきであり、難しく言えば動機づけということでしょう。辞書というのは、人間の叡智の遺産の塊(かたまり)であり、これを見るのが楽しいという気づきは、とても素晴らしい動機づけだと思うのです。これを学習法として導入されたことは深谷先生の優れた功績であり、称賛に値するものです。
今の世は楽して得するという、安易な考え方が横行しています。借り物の知識を恰も自分が深く学んだような顔をして振り撒く人が多く(もしかしたら私もその一人かも)、人を騙すのが当たり前のような世の中の感じさえします。詐欺横行の時代なのかもしれません。バーチャル(=仮想、借り物)ではない、自らが汗を流して学ぶという努力が圧倒的に少ない感じがします。携帯を使ってのカンニングの問題が世情を賑わしていますが、これなど今の世の典型的なものの考え方であり、且つそれが簡単にできてしまう仕組みや技術が世に氾濫しているわけです。情報機器の発展のもたらしたものは、人々に極めて高い利便性を提供していますが、それを使う人間の精神の世界に関していえば、利便性に反比例するかの如く浮薄な人間性軽視への度合いが増えているように思えてなりません。
ちょっと言い過ぎ、考え過ぎの感じもしますが、心の世界においては、利便性の獲得は、ただそれだけに甘えるままでは、人間社会を大きく歪めるのではないかと心配です。最近の情報化社会の動きについてゆけない人間の単なる愚痴なのかもしれませんが、今、世の中で起こっている様々な暗い、黒い出来事を見聞する度に、疑念は益々膨らむばかりです。
辞書引き学習法というのは、子供たちが健全な世の中を作ってゆく上で、大きな力となるに違いありません。自分が抱いた疑問を他人に頼ることなく、自分の力で辞書を引くことによって、先人の叡智からさまざまなことを学んでゆくのですから、世代は切れる(=断絶する)ことなく確実につながってゆくように思うのです。先人のものの考え方や知恵といったものを知らず、それどころかバカにして、携帯の機能の扱いの巧みさなどを得意げに話す若者を見たりすると、この人はどれだけ人間のことを解っているのか、世の中のことを解ろうとしているのか、疑問を感じてしまいます。もともと人間のことなどは、解ったつもりになってもほんのわずかしかないわけですが、そのわずかの人間理解がこの世をどれだけ支えているかに気づいて貰いたいものです。辞書を引きながら自らの力で学んだ子は、浮薄な若者にはならないと信じます。
私は辞書に付箋をつける習慣はありませんが、辞書を見るのは好きで、現在数えてみたら16冊の辞書がありました。勿論国語や英語だけではなく、様々な分野の辞典類がありますから、殆ど引いたこともないようなものも含まれているのですが、たとえ引いていなくてもその辞書があることで安心できるのです。そしていざとなれば、引けば先人の知恵を学ぶことができるし、一度辞書を引くと、必ず関連して知りたいと思う事項が出てきますから、それを知るという楽しみというものは、これはもう無上のものと言っていいくらいです。
最近は電子辞書のレベルが大変向上し、先日倅どもに古希の祝いのプレゼントとして貰ったものには、辞書と名のつく項目だけでも50以上ありました。国語だけでも11種類もあり、ありがたい限りです。勿論ジャンプ機能もあり、関連事項を調べるのにも重宝です。しかし時々疑問に思うのは、余りにも便利すぎるので、ページをめくる楽しみがなく、発見の喜びが少し弱まっているということです。利便性に狎れると、人間は直ぐに思い上がってしまい、ありがたさよりもさらにその上を行く利便性を求めるようになり、知るための苦労とそれゆえに味わえる喜びを半減させてしまうように感じます。
辞書引き学習法を電子辞書を用いて行うのは、やっぱり避けて欲しいなと思います。電子辞書は普通の紙の辞書を使い倒すことができた後でいいと思うのです。小学校から高校卒業まで使い倒すことをし続けたら、もしかしたら電子辞書など不要な人間になっているかもしれません。初めから利便性に頼って学ぶよりも、不便さを学びの喜びに変えて取り組む方が、より逞しい人間をつくるのに力になるのではないかと思うのです。恐らく深谷先生も同じような考えをお持ちではないかと思います。これからの未来を担う子供たちが、自分の力で学ぶ楽しみを見出し、逞しい人間に育ってくれることを、心から願っています。