山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

「会津士魂」に衝撃

2011-02-23 00:15:03 | 宵宵妄話

  2週間ほど前から早乙女貢著の「会津士魂」を読み出しました。集英社文庫で、続編と合わせて計21巻の力作です。このような長編を読むには少し勇気が要ります。読み出して、途中で止めるわけにはゆかないからです。いい加減に読んでいると、著者の本当に言いたいことが分からず、結局は読まないのと同じ結果になる危険性があります。文庫本であろうとなかろうと、長編を読むときには、何時もそのような思いで取りかかることにしています。

  

   

  早乙女貢著「会津士魂」(集英社文庫・続編と併せて全21巻)

 

 まだ第3巻を読み終えたばかりなので、読後感というわけにはいきませんが、この本には相当の手応え(=衝撃に近い)を感じています。そのことについて少し書いてみたいと思います。

昨年の秋に思い立って萩を訪ねました。足掛け4日ほど滞在して主な史跡などを見て回ったのですが、その時に何だか幕末から明治にかけてのこの藩の業績について、どこかにすっきりしない感情が残るのをどうしても拭いきれないのを感じていたのでした。萩といえば、その反対側に会津藩の存在が浮き上がります。維新に絡むこの両藩の確執と怨念は相当のものがあったと思いますが、今ではすっかり仲直りをしており、福島在住の旅の友から萩を訪ねる前に頂いた電話では、何年か前に萩を訪れた時に福島県の方から来たと話したら、大いに歓待して頂いて感激したということでした。もう100年以上も経っているのですから、そのようなことは当然だと思うのですが、なぜか私の中では、やはりすっきりしないものが残っているのです。

私は常州の生まれですから、幕末のことに関してはあまりとやかく言える立場ではないように思っています。しかし茨城県北部は福島県に近く、会津には何となく親近感があります。地元の人たちの話す言葉は、会津の方が訛りが厳しくて分かりにくい感じがしますが、生活の根っこの方に流れる言葉の色合いは共通しているものが多いように感じます。

幕末の水戸は惨憺たる状況で、只の引っ掻き回し役に終始した嫌いがあるのに対して、会津は立派でした。武士としての信念を通しきったといってよいと思います。白虎隊の出来事など悲惨極まりないものがありましたが、非業の死を遂げた少年たちにはサムライとしての輝く誇りがあったのだと思います。

そのような会津のイメージがありましたので、萩を訪ねた時は明治維新にかかわって名を残した人物に対しては必ずしもエールを送るような気分ではなかったのです。「勝てば官軍負ければ賊軍」は変革の世の習いですが、後世の人々はその勝った官軍の治世を受け継いで暮らしているわけですから、どうしても負けて賊軍として貶(おとし)められた側のことを忘れてしまいがちです。ただ、萩を現地に訪ねた時は、幕末の形振り構わぬ改革のエネルギーがどうしてここから湧きあがったのかということだけは、解るような気がしました。

ま、そのようなどっちつかずのことは措くとして、会津士魂を読んで、未だたった3巻しか読み終えていないのに、強烈なインパクトを受けました。自分の歴史を見る目の甘さを厳しく指摘された感じです。幕末の体制側と反体制側夫々に属する人々のものの考え方の違いと、人間としての生き方の違いの落差の大きさを、息をのむような気持ちで考えさせられたのです。そしてそのショックは今でも消えることなく胸を打っていますし、この全巻を読み終わるまでの間も、そして読み終えた後もしばらくの間は、やはり消えないように思われます。

士魂というのは、文字通りサムライ魂(たましい)という意味であり、武士の精神を意味しています。いわゆる武士道というものでありましょう。武士道を語った本としては「葉隠」(佐賀藩山本常朝著)が有名ですが、新渡戸稲造著の武士道などもあり、調べてみると武士道にもさまざまな考え方があって、一概に定義付けなどできない感じがします。でも、少なくとも主君に対する絶対的な忠誠をベースとして、世の中全体の正義に資する精神であることに違いはないように思います。会津の士魂というのは、この二つの大義を徹底して守り通したところにその美しさというか凄みがあるように思われるのです。

欧米の強力な支配力(=侵略力)にじわじわと侵攻される危険性を感じていた幕末時代にあって、これに対処する考え方として、条件的開国をやむなしとする幕府主流側と、それに反対して諸外国を追い払うべしとする攘夷を叫ぶ人たちの側の二つの考え方があったわけですが、そのいずれにおいても、我が国においては天皇の裁可が必要というのが政治を展開する際の基本条件だったわけです。長州萩藩が尊皇攘夷の急先鋒として強硬論を展開していたのは周知のことですが、幕府側においては一方的に開国への道を歩んでいたわけではなく、公武合体(天皇サイドと幕府が手を取り合うという体制)を具現しながら外国と対処してゆくことが、この国をより安全に守ってゆくのにつながるという考えに向かっていたわけです。

尊皇の思想はもともと幕府側にもあったわけで、かの有名な黄門様(=水戸光圀)もそのことを強調しての大日本史編纂だったわけです。しかし幕末では、この思想の具体的な扱いをめぐっては、大義と実際とには野望や欲望が複雑に絡んで、天皇そのものは必ずしも「尊」をご実感される状況ではなかったように思います。単に錦の御旗の交付者として利用されただけというのが実態だったようです。変動改革の時期における歴史の表と裏には、透明な関係などあり得ないのかもしれません。

このような複雑な政治環境において、佐幕と尊皇に忠誠を尽くしたのが、京都守護職に任じられた会津藩主松平容保(かたもり)であり、その配下の人々でした。「会津士魂」においては、その役割遂行ぶりについて、藩主松平容保のリーダーとしてのブレない立ち居振る舞いと、その家臣たちのあり様が史実資料に基づいて克明に描かれています。彼らは一丸となり、悲壮なる決意を持ってこの難局に立ち向かったのでした。その取り組み姿勢こそがまさに会津士魂と呼ばれるものなのだと思います。純粋ともいえる武士道の実践だったということです。この武士道からみれば、勝利をおさめた官軍側には武士道など全くなかったということになるわけです。

しかしまあ、坂本龍馬も高杉晋作も西郷隆盛も木戸孝允も伊藤博文もその他維新の立役者といわれる人々にも勿論武士道はあったのだと思いますが、それは会津の人々の武士道とは異質のものだったということなのでしょう。私はそのように理解しました。三条実美や岩倉具視などの公家の人たちにはもともと武士道などはなく、論外の話です。

一体どちらがどう正しいのかなどという結論を云々するのは、今となってはあまり意味のあることではないようです。思うのは、目の置き所によって、歴史というのは、その認識や理解の仕方がかくも大きく変わってくるものだという驚きです。これからさらにこの本を読んでゆくうちに、会津の武士道がどういうものだったのかがより明らかになってゆくのが楽しみです。

私は乱読なので、一度に何種類かの本を並行して読むため、この会津士魂を読み終えるのには数カ月はかかると思いますが、メモなど取りながらしっかりとその武士道の何たるかを知ってゆきたいと思っています。読み終えた時には、又振り返って感想を整理してみたいと思いますが、さて、それが実現するのはいつになりますことやら。

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