山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

超長距離走は人生の縮図

2011-02-01 00:16:25 | 宵宵妄話

 今でも毎週1回はつくば市に出かけています。相棒のフォークダンスの送迎運転手の役なのですが、それだけではなくて、彼女が踊り呆けている3時間ほどの間、こちとらは自分で作った幾つもの市内の散策コースを歩く楽しみを存分に味わっているというわけです。その歩きの中で、先日出くわした中学生の生徒たちの校内マラソンらしきイベントを観察しながら感じたことを少し述べてみたいと思います。

話は突然変わりますが、私は昔から漫画の「ちびまる子ちゃん」のファンで、TVだけではなく本の方も読んでいますし、今は東京新聞を購読しており、それに最新版の漫画が掲載されていますので、真っ先にそれを見るのを毎日楽しみにしています。で、この中で主人公のまる子君は、実にこのマラソンというのか、長距離走が嫌いで、冬のこのシーズンとなると毎度マラソンを何とかしてエスケープしたいという類の話題が掲載されます。今朝(1/26)の新聞を見ていたら、まさにそのマラソンのことが書かれており、今日の漫画はそのマラソン大会の当日の最後のシーンで、「あと100mで、この冬一番の悩みから開放されるんだ、……」ゴールして「やった~!!」と、喜色満面の彼女の顔が、その息遣いと一緒に描かれていました。よほどにこの走るというのが彼女は嫌いというか、苦手なようです。楽して得するというスタイルは、サラリーマンならずとも、誰だって潜めている現代人の本能のようなもので、彼女は素直にそれを表しているということなのでしょう。それはすなわち、作者のさくらももこさんという方の本音の吐露なのでもありましょう。ご同慶の至りです。

と言いたいところですが、実は私は走るのも好きで、膝に問題を抱えていなければ、歩きだけでなく走ることにも力を注ぎたい気持ちが今でもかなり多く残っています。走るのを封印してから間もなく30年になろうとしており、今では50mでも走ることは難しいような気がします。何しろ毎日が日曜日なので、バスや電車に乗り遅れないようにと走るような場面が全くないものですから。

閑話休題。で、先日つくば市内のいつもの散策路を歩こうと向かっていましたら、その道がどこかの中学校の校内マラソン大会のコースに使われているらしく、エンジ色や紺色のジャージー姿の男女の子供たちが大勢走っているのに出くわしました。その体格の様子からは、恐らく中学2年生くらいではないかと思います。男女一緒のコースを学年のクラス全体が参加しての校内イベントのようでした。正にちびまる子ちゃんが中学2年生になった時点での出来事のような感じです。随所に先生方が立っており、「がんばれ!」とか「足元に気をつけて!」などと声を掛けていました。そのコースは私の歩きのお気に入りのコースで、本当は続々とやってくる子供たちの群れにはうんざりの気分もあったのですが、2kmほど一緒に同じ道を歩いていると、マラソンを通しての子供たちの生態のようなものが垣間見られて、こりゃあ、なかなか面白いぞ、と思ったわけです。

まあ、いろいろな奴がいて、彼らの行動を見ていると実に面白いのです。一番多いのは2~3人でなにやら話をしながら、ちんたら走ったり歩いたりしている子供たちで、走る苦しみや楽しさなどよりは、話の方にエネルギーを集中していて、ま、ついでに走っているといったところでしょうか。彼らにとって早く走るなどというのは問題ではなく、果たさなければならない義務を自分たちの好きなスタイルで遂行しているという理屈になるのでしょうか。とにかく楽しさも深刻さもなく、多少の辛さと煩わしさを感じながらも平和に時間を過ごしているという感じでした。もちろん走るのを得意としている連中は、もうとっくにゴールをしているのでしょうが、私のタイミングでは、彼らの雄姿を見ることは叶いませんでした。

調子のいいのがいて、先生が立っているのに気づくと、ちょっぴり走るスピードを速めて、一所懸命のしぐさを巧みに表現していました。しばらくすると元に戻って又歩き出すというのですから、これは彼や彼女にとってのある種のアート表現なのだろうと見物させて貰いました。そのようないい加減な人ばかりではなく、中にはどうしてそんなに今から脂肪などを溜め込んだのと言いたいほど膨らみきった体を懸命に動かして走っている子も何人かいました。又、スピードは極めて遅いのですが、走りの条件(どちらか一方の足が着地した時、もう一方の足が浮いていること)をきちんと守って、汗を流して前進している子もいました。例を挙げればきりがないほど、彼らはそれぞれの自分のスタイルでこのイベントに参画していたようでした。

これらの情景を見ながらふと思ったのは、まさに人生というのはこの長距離レースのようなものだなということです。よく人生のことをマラソンレースのように例えることがありますが、私のイメージでは、人生というのは巨大な回り舞台のようなコース、たとえば幅が数kmほどもあり、一回りが数百kmもあるような、無限の時間が回転する道程を、全ての人類が参加して、生まれてから命の尽きるまで歩み続けるようなものだと思うのです。その道には折り返し点もゴールもなく、永遠に止まることのない、過去・現在・未来とつながるコースなのです。人は生まれた瞬間からこのコースに意識することなく放り出され、参加を強いられます。それを人間社会と呼ぶこともあるようです。そのコースをどのように進むかは人によって全て異なっており、早さも道筋も同伴者も周囲の環境も、それらの全てが一人ひとり皆異なっているのです。人は生きている限りは、このコースから降りることはできません。コースから降りるというのは死を意味します。どんなに横道に逸れたと思い、そう指摘されたとしても、それはコースの中の道の選択の仕方に過ぎず、生きている間は、人はこのコースの上を動いてゆかなければならないのです。人生の全ての出来事はこの巨大な回り舞台のコースの上で生起しているのです。

今の世は、生まれてまもなくの頃から、後の人生を巧みに過ごせるようにと、勉学の名の下に知識の記憶競争に明け暮れ、やがて多くの人々がほどほどの勝利感の中にいわゆる社会人となり、その後は全世界の効率化競争に参画して己を磨き、すり減らしながら後半のコースを辿り、やがて自動的にコースを降りて消えてゆく。その様な姿が、人の一生の典型の一つなのかもしれません。このコースは人類が誕生したその瞬間から用意され、現在に至るまで一度も変更されたことはなく、これから先も永遠に変更されないコースなのです。

このようなことを思いながら中学生たちの競技イベントを見ていると、私自身が今まで歩んできた70年余の人生の中で見聞・体験してきたものにそっくりな出来事が無数に起こっているような気がして、思わず苦笑してしまいました。若い彼ら、彼女らはどのような思いでこの行事に参加しているのかわかりませんが、その中には彼ら、彼女らの未来を映す出来事がかなり含まれているような気がして、これは、70年余も人生を送ってきた者の特権なのか、あるいは思い上がりなのか、自分自身のこのコースの残りがどうなるのかも知らないくせに、ある種の優越感のようなものを感じたのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする