山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

エジプト政変に思う

2011-02-19 05:25:11 | 宵宵妄話

  チュニジアの政変からあっという間にエジプトの政変に飛び火した民衆の政治変革を求めるパワーは、中東各国を大きく揺るがしています。この変化は、過去のイラクやイランなどの政変とは異質のような感じがします。今起こっている出来事は、これから先世界に大きな影響を及ぼすに違いありません。この日本国においても、遠くから見物していられるような話ではなく、日々の暮らしに多くの不都合をもたらすのは必至のことのように感じています。

私は中東の国々を一度も訪れたことはなく、この先も訪ねることはないと思いますが、想像するに、現代の世界を見渡す中でそこに暮らす人々(=大衆・民衆)が、いろいろな意味で恵まれていないのは、アフリカに続いてこのエリアなのではないかと思っています。(これはあくまでも世界知らずの一日本人の感覚に過ぎないのですが)そのことは古くはたとえば千夜一夜物語(アラビアンナイト)を読めば首肯することが可能です。何しろ気まぐれな王様に殺されないために、賢い女性が必死になって千夜にも渡って作り話を話し続けたのが、この超長編物語なのですから。その昔も現代でも王様というか特権階級と庶民の暮らしの落差は、それほど変わっていないのではないかというのが私の印象です。

その昔の王様たちを支えたものが何だったのかは見当もつきませんが、現代においては石油であり、その利権の上に胡坐(あぐら)をかいていることだけは明らかでありましょう。ほんの少し供給のバルブを絞るだけで価格は上昇し、その結果世界中の富が集まってくるという今の世のアラブ産油諸国の仕組みは、考えてみればバカバカしい限りなのですが、それが出来上がってしまった以上は、石油が枯渇するか、あるいは石油に代わるエネルギー源が見出されるまでは、このまま続くのかも知れません。

しかし、今回の政変はその富の源泉の問題ではなく、その分配のあり方に起因する内部からの強烈なパワーの噴出によるものであり、これは今までとは違った国体のあり方を暗示するものなのかもしれません。特権階級に対する積もりに積もった大衆の憤懣が一挙に爆発したというのが実情のように思います。そのエネルギーやまさに恐るべしということでありましょう。

チュニジアから始まったこの一連の変革への衝動は、エジプトとバーレーンだけでは済まないような気がします。行ったこともない未知のエリアの国々のことを賢(さか)しらに言いつのるは滑稽と思いつつも、それらの国々の人々の暮らしの根底にあるものが同じようなものならば、そこに結果される現象も又同じということができると思うからです。

アラブといえばムスリムのことがすぐに思い浮かびます。(私自身はイスラムの教えがどのようなものかをよく知らず、知人から聞いた話や何冊かの本で得た知識・情報しかなく極めてあいまいなまま勝手に思い込んでいるのですが)今世界中で良からぬ風評を醸している感じがするこの宗教ですが、よく考えれば、ムスリムの人々は貧しさに耐えて懸命に生き抜くという精神をこの宗教によって培われているように思えます。それは基本的に抗争とは無縁のようにも思えるのです。貧しい国々にこの宗教が普及していることがその証明のような気もするのです。

思うだけですが、ムスリムの教えというのは、ある意味では諦めの教えなのかもしれません。(それは、もしかしたら親鸞のいう他力本願というのにも相通じているのかも知れません)神の力によって、自分の未来はもう既につくられている、つまり時間の流れは過去からではなく未来からやってくるという発想は、なかなか変革や改革の力となりにくい一面をもっているように思えるのです。別の言い方をすれば、未来は自分の手で、力で切り開くという発想が弱いということなのかも知れません。(私のこの理解は真に狭い解釈なのかもしれませんが)

アラブの人々は、王様の運命を自分の運命に取り換えるというような過激な発想を、今まであまり持っていなかったような気がするのです。何しろ自分の未来は神によって決められているというのですから。これをしっかり守る限りは、王様たちを脅かすような世界は生まれないということになるわけです。貧富ということに対しては大変に謙虚で寛大で従順な人々だったといえるようです。

しかし、現実の暮らしの中であまりの貧しさや不平等・不遇が続けば、自ずと我慢の限界が出てくるというものでしょう。過去の自国の歴史の中で、絶対王制が崩壊し、国の名称は如何にも民主国家めいたものとなっていても、その実態は独裁主義政治による一部の特権階級が利するばかりでは、どんなに巧妙にその仕組みをつくり運営したとしても、今日の世界を駆け巡る情報を手にしては、民衆の謙虚さもついに限界を超えてしまったのではないかと思うのです。今中東エリアで起こっている政変現象の本質はこの辺のところに潜んでいる感じがします。

ところで、この後の各国がどのように動いてゆくのか、大きな歴史のうねりを目の当たりに見ている感じがして真に興味津々です。(このような言い方は無礼千万であり、対岸の火事を評するノーテンな野次馬に過ぎないことは重々承知しています)チュニジアやエジプトのこれから先がどう動いてゆくかは、世界中が注視しているところであり、それは現代の世界史が作られてゆく重要な過程の一幕のように思えるからです。

一つ不思議に思うのは、どのような政変の場合でもその変動の核には明確な指導者がいるというのが歴史の通例なのですが、今のところこの二国にはそれに該当する人物が見当たらないようです。リーダーを求めるプロセスを待てないほどに、人々の憤懣は一気に爆発したということなのかもしれません。しかし、リーダーや組織なしに治世が安定するというのは過去の歴史には無く、この次のステップがどうなるのかが懸念されます。エジプトにおいては軍が政権を受け継いだということですが、さて、どう動いてゆくのでしょうか。当然のことながら、利権の得失をめぐって、取り巻く各国の様々な種類の圧力が押し寄せることでしょうから、変革の先行きは真に不安定と考えます。

変革の原動力には、必ずある種の力(=エネルギー)の存在がありますが、チュニジアやエジプトの場合は、リーダーなしの民衆の一致した不満や憤怒がその核となったようで、これは起爆力としては相当なものだったと思います。しかし、さて、その思いをどう実現するかとなると、国という組織を動かすリーダーが求められることになります。それが不在となると、これから先はまだまだ闇が取り巻くということになるでしょう。仮にエジプトで軍部が実権を握り、国を動かし始めるとしても、元の体制に逆戻りする可能性はかなり大きいような気がします。世界の過去の歴史を見ても、社会主義体制であれ、自由主義体制であれ、一旦権力を握った者はなかなかそれを放そうとはせず、あわよくば何でも己の思うようになる独裁体制を指向したがるのは、歴史の常とするところなのですから。さすがに先進国といわれる国にはそのような現象は生まれにくいようですが、中東諸国においては、政体の本物の変革というのは真に難業なことのように思います。

起爆の力はあっても、その後の達成すべき目的に向かって力を発揮し続ける組織とそのリーダーがなければ、ゴールに到達するのは困難です。その意味では、私の想像の限りでは、この政変は一時的なものであって、ほんの少しばかり貧富の差を埋める働きはするかもしれないけど、それ以上の成果には届かないように思えてなりません。正義の観点からは、この際一挙に貧富の差が埋まるような、そのような政治体制の出現を望みたいのは勿論ですが、その見通しは極めて困難な気がします。要するに悲観論なのです。しかし、これらの変革の行く末は、野次馬の決めることではなく、チュニジアのことはチュニジアが、エジプトのことはエジプトが、そしてバーレーンのことはバーレンが決めることであり、見守るしかありません。

政治変革の衝動は、燎原の火のように中東を席巻するのかもしれませんが、それが鎮火した後に何が残るのか、リーダーなき民衆のこれから先を、新しい歴史の出来事として、生きている間は、日本人の一野次馬として見守り続けたいと思っています。

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